第4話

修二さんの部屋は、ラウンジバーの下の階、コンシェルジュが常駐するエグゼクティブフロアーのコーナーフロントだった。

私の手を引いて、コンシェルジュに会釈をし、カードキーで部屋に入る。

大きなガラス窓いっぱいの、街のきらめきが、足元に敷き詰められていた。その光は遠くに近くに、私の鼓動に合わせて迫っている。

「わあ、きれい」

 私は目下のきらめきに近づいた。足がふらつき、中々たどり付けない。何て広い部屋なのだろう、と思った。

気が付くと、修二さんが私の身体を支えていた。

私は窓越しの街明かりに触れる。

冷たさの芯に熱を感じる。芽吹く季節に眠る夜の、生命力みたいな熱だ。

 修二さんの吐息が首筋をかすめる。私のすぐ後ろで、修二さんは息を荒くしている。酒と唾の乾いた臭いと、皮脂の臭いが漂ってきた。それは興奮を沸き立たせる、雄の匂いだった。長らく嗅ぐことなのかったその香りを、うっとり味わう。

 修二さんは私を抱きすくめ、首筋に唇を這わせた。

サテンの白いシャツの上から乳房を荒々しく揉みしだく。金色の繊細なチェーンネックレスが、夜の街と私を隔てるガラス窓に光った。厚い手の平と節くれだった指が、加減せずに私の胸を掴んでいた。こんなにも硬質で荒々しい手だったとは、ラウンジバーでは気付かなかった。

「痛い……」

「痛いくらいがいいだろ?」

 修二さんは増々息を荒くして、音を立てて首筋に吸い付き、紺色のフレアスカートを捲し上げた。その早急さと目の前に広がる美しい夜景の乖離に、私はひどく混乱した。

「ちょっと、待って、ねえ、待って」

 修二さんの手をほどこうと、腕を強く押しても、その倍くらいの力で押し戻され、さらに強く胸を掴む。私はまた腕を押し返そうとしたが、アルコールに浸った胃から酸っぱいものがこみ上げ、視界がぐるりと回り、力が出なかった。修二さんの力がどんどん強くなって、その痛みが徐々に酔いを覚まさせる。

「痛い! ちょっと止めて!」

 肘を思い切り後ろに突き出す。その度に足がふらついた。息を整え、また肘を突き出す。

「うっ!」

 修二さんが後退ったのがわかった。私は浮くような足取りで、振り返った。みぞおちを両手で覆い、身をよじらせている修二さんが見えた。

「痛ってぇ……」

 前のめりになる修二さんが声を振り絞る。

「え? ひょっとして、先にシャワー浴びたい派だった?」

 顔だけを上げて、眉間に皺を寄せながら当然といったふうに、言う。

「先シャワー浴びたいなら、そこだから」

 口元を拭いながら,キングサイズのベッドの先を指さした。煩わしさを丸出しにした表情だ。指先をふり「そこだから」となげやりに言う。

私は全身の血が足元に下りるのを感じた。ラウンジバーの心やすさとはかけ離れたおざなりさ。手間をかける必要のない女に示す冷酷な態度。

私はかつて、こんな態度をとられたことがあった。「体のいい女」になるしかなかった頃、この表情を何度も見たのだ。予想外の手順が増えた時に男たちが示す、この態度。その豹変ぶりを知っていても、また、青ざめる。

私の足はふらふらと、部屋の扉へと向かっている。これ以上、マイナスになるのは耐えられない。

「おい、そりゃないだろ」

 修二さん――男が私の腕を掴んで、引き戻す。

「このまま帰るなんてありえないだろ?」

 男の瞳が、黒く光っている。窓ガラスに映る着乱れた私は、星屑の街を足元に置いて、数分前まで修二さんだった背の高い男に腕を掴まれ、身を引いている。自分の欲求のために、私を使い尽くそうとする、私自身を担うつもりは全く無い「今だけ」の瞳。私はこの瞳に、絶望を刷り込まれてきたのだ。

「いい歳なんだからさ、部屋に来るってことがどういうことくらいかわかるだろ?」

その通りだった。私はここで何が起こるか分かっていた。でも――。

「シャワー浴びたいなら浴びてこれば? そのくらいは待ってやるよ」

もっと大切に扱ってくれると思っていた。私を上機嫌にしてくれると。

「なんだよ! なんでそんな顔してんだよ! 誘ってやったんだぞ」

喉の奥が震える。早く逃げなければ。でも足が動かない。

「今日誕生日なんだろ? 一緒に祝ってやるって」

 男は乱暴に私を引き寄せ、強引に唇を奪った。私は頑なに唇を閉じていた。閉じた唇の隙間から、悲鳴が漏れ出る。

あまりにも強く押しつけられたせいで、上唇の裏に歯がめり込む。粘膜の傷つく痛みに耐えかねて、口を少しだけ開けてしまう。そのすきを狙ったように、男の滑(ぬめ)る舌が入ってきた。舌は、前歯と唇の間、上あご、歯の裏、下唇と歯の間、舐めつくすとはこういうことなのだと思えるほどに、しつこく執念深く、私の口中をまさぐった。

「ヤッてやるんだからさ、ありがたく思え、ババア」

 エグゼクティブフロアーのコーナーフロントの暗い部屋に、粘る、絡みつく、濃い液体の音だけがしていた。足元の街の明かりが滲み、震える。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。息苦しくなる。上唇の裏が切れている。

「血の味がする」

 男が感嘆するようにつぶやく。全身が粟立つ。きつく抱かれたその身体を引き離そうと、ありったけの力を振り絞って男の胸を押す。男は左手で私の後頭部を押さえつけて、私を離さないようにしている。私はもがく。足をばたつかせて。

男は口をへの字に曲げ、私の髪をわしづかみにして、後ろに引いた。

「年下のこんないい男がセックスしてやるって言ってんだよ。最高の誕生日じゃないか」

 私は思い切り、男の顔をひっぱたいた。

 男はその衝撃を味わうように目を閉じて、舌なめずりをした。

「いいね」

 ゆっくりと瞼を開き、私の瞳の奥に入り込むようにのぞき込んで、厚い掌で頬をひっぱたいた。私は倒れ込んだ。倒れ込んだ私の髪をひっぱりあげ、後ろから両腕を抱えて、私を立ち上がらせる。私を正面に向き直らせると、顔を両手で挟み、潰すように力を加えた。頬が顔の中心に寄せられて、視界がほとんど塞がれる。鼻がひしゃげたようになって、唇がタコみたいに突き出しているのがわかった。頭がぐらつく。こんなにもがっちり挟まれているのに、私の頭はこれ以上ないくらいに揺れていた。

「何が卵焼きだ。サプライズってバカ丸出し」

突き出た唇を覆うようにむしゃぶりつき、思いきり吸う。あまりの吸い付きに、唇が取れてしまうのではないかと思った。痛い、やめて、と言っているが、声にならない。

何とかして離れたい。力の限り両腕で押したら、それを封じるように抱きすくめた。

「臭っせえな。悪臭撒き散らしてるって知ってた?」

男は私の口元に鼻を近づけた。

「細胞が腐ってんだよ。自分でわかる? 女の腐臭」

首筋に食らいつくように唇を当て、思いきり吸う。耳を口の中に入れて、舐めたり、噛んだり、好きなようにもてあそんでいる。この男の舌や歯の動きに合わせて、ざらつく音が、頭全体に広がる。悲鳴と同じ呼吸が、絶え間なく続く。

「ああ、たまんねえ」

 私の鼻に鼻先をくっつけ、そこから出る息を男が嗅いでいる。

この男の口から漂う、酒と唾液と腐肉のような臭い。この部屋に入った時には官能を刺激するものだったのに、異様な熱と汗とオーデコロンに混じり、鼻腔にへばりつく汚臭になっている。胃液がせり上がる。

「もうやめて! やめてください」

 タコみたいな口先から、どうにか発声する。

「うわー、汚い顔。顔射してやろうか」

 ベッドに倒れこむように突き倒し、私の上に覆いかぶさった。

 大きな窓から見えるきらめきが、虚ろになる。

真上にある男の顔を手で押しながら、視線はぐるぐると部屋をさまよう。

薄暗い天井に、レースカーテン、私と並行の夜の街。

顔を押しつけようとする男を、叩き続ける。だんだん力が入らなくなる。

 夜空と夜景の真ん中で、私の上にうごめくこの男のシルエットが、ガラス窓に映る。

「やめてよ!」

この男を退けるために、無茶苦茶に動かす私の両手を頭の上で強く押さえつけ、下半身を私の身体にがっちり合わせる。歪んだ欲望に覆われた男の顔が、視界の全てになる。

私は泣きじゃくっていた。

男は、左手で私の顎をつかみ、ゆっくりと舌を伸ばす。舌の上に白い苔のような汚れがバイ菌そのものに見える。

ハッピーバースデーを口ずさみながら、私の鼻と唇を舌先でなぞる。舌を出す毎におかしな響きになっても、歌い続ける。私は男の舌を避けようと、顔を動かす。ただひたすら、この汚らわしい舌から逃れたい。うめき声が漏れる。

この世のすべてが揺らいでいる。

いつものようにすればよかった──。

タイムカードを押した後、真っすぐにいつものスーパーに寄り、割引のシールが貼られた総菜と、発泡酒を買って帰れば良かった。そして垂れ流しのテレビとスマホを相手に、一日を終えれば良かった。誕生日だからと欲張りすぎたのだ。

不快をこれ以上増さないために生きているのに、あの中年の女のようにひじを張って、ずんずんと歩いていたのに、誕生日ごときで立ち止まるのではなかった。

「いい加減、あきらめろよ」

 これ以上、何をあきらめろと言うのか。

 結婚をあきらめ、出産をあきらめ、女としての価値をあきらめ、可愛さをあきらめ、愛されることをあきらめ、愛することをあきらめ、私に残っているのは、鬱陶しいと面倒くさいと、イライラするという感情だけなのに、あきらめるものなんてもう何も残っていないのに、これ以上マイナスにならないためだけに生きているのに。

 男は私の鼻を咥え込み、鼻の穴に舌を入れ込む。息苦しくて仕方ない。私は口を大きく開け、全身をくねらせた。

 胃酸と内臓の生臭さが唾液に混ざって、私の鼻の穴に入る。私は必死に抵抗する。力を振り絞って男を払いのけようとする。悪臭が顔全体を覆う。 

私は咳き込む。涙が切れ切れに噴出する。苦しくて仕方ない。

「往生際がわるいぞ。ヤラれてなんぼだろ」

咳き込みながら、私の頭の一部がスッと冷たくなった。この男の言葉が、耳の奥にべっとりと響き続ける。

ヤラれてなんぼ──。

女としての価値の目安は、きっとそれだった。ヤラれてなんぼ。

男たちの欲望の矛先になり、それを私の手に持ち変えて男たちを操ること。

男たちの欲求を刺激する存在であることが、『女』である私の価値だった。

私の自意識を満たす男で、私の機嫌をよくする男で、そう、本能が認める男。そういう男たちへのご褒美が、私だったのだ。それに見合うのは、目の前の男が修二さんだった時のような立ち振る舞いができる、目に良い男だ。上辺だけの解りやすい綺麗さを、私は必死で求めていた。

恐怖とアルコールで痺れている脳の、僅かな冷たさが、私に私を見せつける。

私を組み伏せている修二さんだった男は、増々力んで私にのしかかる。何度も唇に吸い付き、胸を弄って、紺色のフレアースカートをたくし上げている。圧倒的な力で私の意思を押さえつけようとする、その欲望。

欲望の主体はいつも男だった。結局、私は受ける側でしかなかったのだ。私は自分で選び取っていると思っていた。選び取る人生を目指し、年老いたから、こんな今になっていると思っていたのだ。でもそうではない、初めから、私が若く可愛い女だったころから、受け取る以外の選択は、無かった。何故なら、ヤラれてなんぼの『女』であるからだ。

男たちの欲望を受け入れれば、いつかは誰かの一番になれると信じていた。でも、男たちの喘ぎ声は私自身を求めているのではなく、ペニスをこすりつける膣の先の、精液を吐き出す腹である『女』を求めていたのだ。

修二さんだった男の猛烈な力は、私を組み敷く。私は押しつけられる男の顔を避けるこ

とすらできない。

ヤラれてなんぼ──男たちの性欲を請け負い続ける。あたかも男たちを操るようなふりをして。

私がこんなにも殺伐として孤独なのは、年を取ったからではなかったか。

男たちの欲望を手玉に取るように振る舞いつつ、男たちの意のままになり、思考はしないが賢いさまを装っていれば、幸せがやってくると言われ続けていた。

誰に? 誰に言われ続けていた?

男はパンティーに手を入れ、太い指で陰毛をかき分けた。私は内股に力を入れる。ぶるぶると筋肉が震える。男は膣に指を入れる。粘膜が裂かれる痛みが走る。

「濡れてねえな」

男たちにとって、私は絶対的な他人だった。私の愛を利用し、それによって私がどんな

に悲しんでも、私の心を顧みることはしない。多少の呵責と同情を感じさえすれば、また同じように私の思いを利用することができたのだ。私の痛みは、性欲の塊となった男に伝わるはず、ない。

太ももにこすれる男の太い腕と、膣の痛みと、下腹への圧迫で力が抜ける。

「そうそう。おとなしくすればいいんだよ」

プレゼント、サプライズ、甘い言葉、愛の囁き、全ては私を組み伏せ、男たちの意のままにする根拠だ。私はそれらを喜んで受け取り、そのたびにおとなしくなって、男たちは私を使い尽くした。

修二さんだった男は、私の唇に吸い付き、膣の中の指を激しく動かし、私の全身の力を奪い取っている。

男たちは、私が私だけを上機嫌にすることにしか興味が無いと見抜いて、絶対的な他人として扱うことを自らに許した。刹那的な愛欲のみで、生涯をともに生きる相手とするつもりなど、なかった。

射精で終わるのに似た、思考を放棄した上っ面な喜びで満足する私には、他人がお似合いだと、決定されたのだ。

私以外の女は男たちにとって他人ではないのか? 歯科医の嫁は? 私と何が違うというのだ。どうして私だけ?

「うわあ! 漏らしやがった!」

 男が膣から指を引き抜いて、身を起こした。

「汚ねえなあ」

 私の顔に、濡れた手を擦り付ける。

 アンモニアの刺激が、鼻を突いた。

窓を見る。星屑の街に、放心した私が映っている。私の身体の上に、男たちがのしかかっている。

「容子のいう、本能が認める男ってなんなの?」

 それは今、私の身体を押さえつけている男たちのことだった。

男自身の悦びのために、私を上機嫌に出来る手練の持ち主たち。歯科医の嫁のプライオリティーを思い出す。 

金も社会的地位も安定も、若く美しく居続けられる資産も子供も家も、私が持つことのできなかった何もかもを、ハゲデブチビ黒縁眼鏡で取柄が資産家の歯科医の旦那によって手に入れた彼女。女として勝ち組の彼女の人生は、男資本の別名だ。旦那を手のひらで転がすふうで、その実は人生丸ごと受け渡している。

いや、あれは私の別の姿だったのかもしれない。男たちが幸せを運んでくると思い込んでいるのは、同じではないか。

修二さんだった男は.私の白いブラウスを引き裂き、加齢で茶色に変色した私の乳首にむしゃぶりついた。

「痛い……」

 もう、声にならない。涙も出なかった。男は乳首を噛み、舌で転がし、咥えて伸ばし、指で強く挟んだ。私はぼんやりと、男のやり様を見ていた。男は私に乗っかったまま上半身を起こし、私の胸をもてあそんでいる。

賢いさまを装って、男の欲求を満たす存在でいれば、幸せがやってくると言われ続けてきた。男の欲求を満たす手段が、彼女と私では違っただけに過ぎない。

彼女はハゲデブチビ黒縁眼鏡で取柄が資産家の歯科医の旦那を支えること、私は刹那的な欲望の受け皿になること。どちらも、プレーヤーは男だ。欲望の主体は、いつだって男だ。

私が頑なに「本能が認める男」にこだわったのは、こうしてもてあそばれ、押さえつけられるためだったのか。

「胸、デカいんだね」

修二さんだった男は、私の胸をこねくり回し、持ち上げ、引っ張って、さんざ遊んでから、パンティを引きちぎるように下ろした。呆然とした私を見下ろし、銀色のカフスボタンを外しながらニヤついている。水色のワイシャツのボタンを丁寧と言えるほどにゆっくり外す。今から喰らう獲物の最後を、楽しんでいるかのようだった。

 帰れば良かった──。

45才の誕生日にラウンジバーで出会った修二さんと話し、上機嫌になった。残り滓になった私に声をかけてくれる男は、もうどこにもいなかったから。

舌なめずりするこの男が修二さんだった時に、不快と言えるような違和感を持った。

でもそれを、いつもの癖が顔を出したのだと、思い込もうとした。「本能が認める男」が放つ違和感の原因をきちんと考えるべきだった。アルコールのせいではない、また思考を放棄した。

 男はベルトを外し、ズボンを下げる。

「こんないい男にヤラれて嬉しいだろ? おまえみたいなババア、誰が相手にするんだよ」

 お前が悪いんだぞ、と私の股の間に男は腰を合わせる。

「女として使ってやるんだから」

 ありがたいと思え、と耳元でつぶやき、股を無理やり広げ、私の中に容赦なく突き刺した。

 裂かれるような痛み──のどの奥で、悲鳴が固まった。

私の苦しみを喜んでいる血走った瞳。グイっと腰を押しつけて、私の中心を侵す。

 「今だけ」の快楽のために私を突く。私はその「今だけ」に甘んじていた。いつまでも、男こそが私を幸せにするべきだと、思い込んでいたのだ。選び取る人生など、初めから無かった。個性なんて、無かった。私こそ凡庸な女だ。なんと愚かだったのだろう。

 男は生臭い息を、私の顔に容赦なく吐き掛ける。短い吐息が漏れている。私の中心に他人が入り込んでいる。男のリズムに合わせ、身体が跳ねる。

男は、胸を揉み、唇を吸い、私の腕、胸、顔を、大きく厚い手のひらで押しつける。

絶対的他者である男の快楽のためだけに使われるおぞましさで、吐き気がこみ上げる。身体的な痛覚と同じくらい、私の芯が、痛む。

男たちの欲望を手玉にとるようなふりで、男たちの意のままになり、賢いさまを装っていれば幸せがやってくると言ったのは、誰だったか?

歯科医の嫁や私に、幸せとは、他者である男がもたらすものだと思い込ませたのは、誰だったのか?

蹂躙は強い力を帯びて、決して緩まることが無い。

──祖母、母、先生、近所のおばさん、絵本、テレビ、新聞、街の声、上司、同僚、政治家、おとぎ話、めでたしめでたし、母、祖母、先生、近所のおばさん、絵本、テレビ、新聞、街の声、おとぎ話、めでたしめでたし──

女のくせに自分の人生を望むなんて。

私の追い求める生き方、個性の奥底に根付くものは、私の価値観で生きてゆきたいという欲求だった。女らしさというような表象に振りまわされず、私でありたい。でもそれは、男の欲望が主体のこの世で、決して受け入れられないことだと、私はきっと気付いていたのだと思う。

ヤラれてなんぼ。男の欲望を刺激するなら、存在価値がある。

何故ならこの世界は男と「それ以外」なのだから。「それ以外」に属する女がここにいて良い条件は、若い身体を持ち可愛く従順な性格であること。男を怯えさせない程度の賢さがあること。男と「それ以外」の世界なのだから「主人」である男がもたらすものを有難く受け入れること。

男の欲しいものを与えられる女のみが、めでたしめでたしとなるこの世ならば、女に産まれたこと自体が恥だ。

祖母も母も先生も近所のおばさんも、自分の価値観では生きてゆけないこの世で生き延びるために、他者である男の手先としてその眼を差し出し、男たちの眼となって、女が産まれる度「めでたしめでたし」となるように、言い聞かせてきたのだ。なんと恥ずかしい行為だろうか。 

絵本やテレビや新聞や街の声や上司や同僚や政治家やおとぎ話も、男を満たせば、めでたしめでたしだと、言い続けている。母としての歯科医の嫁と、娼婦のような私。

母であり妻であれば、年をとってもそこにいていい。年老いた娼婦など、存在価値はないのだ。

言い聞かされた女たちはわかっていた。人生のプライオリティーとは、男の目線に従うこと。そうすれば、めでたしめでたしと、女は存在することを許可される。

 男の腰使いが増々強引になる。身体から発散する獣のような臭いと汗で、私は全身が濡れている。力抜けた手を、男の動きに合わせて振動している頬にやる。涙が流れている。

「本能が認める男」へのこだわりは、私のささやかな抵抗だったのだと思える。表層のみの綺麗さを求め続けることで、男と同じように欲望し、選択できるのだということを示したかったのだ。私は自分を、母を、歯科医の嫁である親友を、祖母を、すべての女たちの存在を、恥だと思いたくなかった。だからこそ、私は個性の神髄が若さに裏打ちされたものだったと、この年になってから、自分に思い込ませた。

修二さんだったこの男に感じた違和感に似たものが、ずっと私の人生には付きまとっていた。それは、私の価値観と女の幸せが付随しない理不尽さだったのだと思う。女のくせに自分の人生を望むことの、罪悪感のようなものが、心の奥の、そのまた奥にあったのだと思う。

結婚もせず子供も産まず45才、一般事務の仕事をただ漫然と25年続けていても、幸せだと胸を張って言える人生を送りたかった。特別な何かが無い女でも、幸福感を抱いて過ごしたかったのだ。

「それ以外」のそのまた外で、私は我を失った。他者に目線をすっかり受け渡して、自分を、女たちを包容すること無く生きてきたことが、恥ずかしい。

刷り込まれた価値観と本来私にある価値観との擦り合わせができないことが、私の感情の中心となっている。つまりは、鬱陶しいと面倒くさいとイライラだ。若さへの嫉妬は本質を誤魔化すための目くらましだ。

 祖母、母、先生、近所のおばさん、同僚、上司、若い女、歳をとった女、既婚の女、独身の女、子を持つ女、持たない女、妊娠している女、妊娠していない女、──「それ以外」の中に押し込められた女たち。

 私は全ての女にエールを送るべきだった。

 修二さんだった男の動きが早まって、私の芯を壊そうとしている。

ペニスはさらに固く膨張してくる。腰の骨が砕けるほどに、激しく打ち付ける。

「いい、気持ちいいだろ?」

 仰向けに押さえつけられている私の胃から、すべてのものがこみ上げる。喉を押し広げ、横隔膜を震わせて、凝ったものがせり上がる。口からあふれ出る汚物は、苦く酸っぱく、とてつもない悪臭を放っている。

 それは恥だ──私は、恥ずかしい。

 男たちに評価されることこそが喜びだと思っていた自分が恥ずかしい、歯科医の嫁になった親友を侮蔑していたことが恥ずかしい、妊婦や若い女に嫉妬していたことが恥ずかしい、私を思いやってくれた田舎の両親を遠ざけていたことが恥ずかしい。

 男にとって性欲の対象外になってしまったと、嘆いていたことが恥ずかしい。

 肘を張ってずんずん歩く、あの中年の女──あの女に嫌悪を抱いたことが恥ずかしい。

 恥は、私の口から次々と溢れ出る。

男は一切気にもかけず、私の足を高く上げて、悦楽に上り詰める。

 腹の中の男たちが、痙攣して、精液をまた、私に排泄する。

 私は私の恥にまみれ、涙にぬれた顔を汚れた手で、覆い隠す。

 男は一息ついて、私の身体から離れた。

「汚ねえな」

 




                          

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鈴川桔梗 @suzukawak

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