第2話

短大を卒業してすぐ、文具用品卸の、この会社に就職した。

ピンクのシャツに灰色のベスト、灰色の七分丈スカートの制服。それが毎日の私の恰好だ。何回かマイナーチェンジしても、いつもピンク色と灰色だった。 

地元の中小企業連合会の役員をしているヒョロ長つるっぱげ金ぶちメガネ歯槽膿漏の口臭をまき散らす先代の社長が、その配色がお気に入りで、ピンク色+灰色+灰色という、絶望的なダサさの組み合わせを崩すことが無かったのだ。どうやっても、ずん胴短足に見える見苦しい姿を、私は25年、月~金、9時から18時、月給28万の為に、さらしているのだった。

みっともない上に、そのサイズだけは段々大きくなって、最近では総務が「同じサイズで、大丈夫ですかね?」と、年度初めに、私の機嫌を見計らってたずねてくる。  

私の頭の中にある私のサイズを伝えると、一回り年下の同僚は怪訝な顔を隠しもせず、

「ゆったりサイズの方が、仕事しやすいんじゃないですかね」と、私の肩回りの贅肉と、どっしりした下半身から意識的に視線を外すようなたどたどしさで、そう言った。

三十代の頃は、冗談めかして小さいサイズを伝え、それに対し同僚も突っ込んで、お互い笑いあうことができたが、四十(しじゅう)を過ぎると不穏といえる空気が漂うようになった。


社長が事実上引退し会長になって、32才のドラ息子が就任したのは、私のサイズジョークが通じなくなった、その頃だった。

「じゃあ、女性陣は一人二千円ね」

 32才のドラ息子バカ社長の就任祝いの会費徴収の時だった。

新社長就任の祝いを、社員から会費をとって催すことだけでも、腹が立っていた。

でも高級居酒屋で飲み放題、食べ放題なのだから二千円ならいいかと、しぶしぶ財布を

出した時だった。

「あ、五千円で」

 私は一般事務職の中で一番の古株だ。それでも女性陣に違いないのに、会費を徴収して

いる新社長腰巾着の三十代前半ボケナス営業が私にだけ、「あ、五千円で」と、当然といっ

たふうに告げたのだ。それも、二十代の女子社員に会費を徴収した直後に、だ。

「包井さんは五千円でいいっすよね。本当なら上役は、一万円なんですけど」

 私は上役でもなんでもなく、勤務年数だけが役職員と同じくらい長いだけだった。

それは派遣やパートを含む、社員37人全員が知っていることだった。

そいつの笑顔は徐々に引きつり、上目で私をのぞき込んだ。唇の端がぴくぴくとおかし

な動きをして、目の周りの血色が悪くなっていった。

そいつと同じくらいのボケナス社員が、

「いや、あの、悪気は無くて」

 と割って入った。「男性社員並みに仕事出来るんだし」と、そいつはのたまった。

私は男性社員並みに仕事をしてきたつもりもないし、第一そんな給料は貰っていないの

だ。二十代の事務職員の女たちよりボーナスは若干高いかもしれないが、月給はそんなに変らないはずだ。

財布を持つ手が震えた。

「あ……やっぱあの、二千円で」

 他の社員が、座る位置を少しだけずらして、私とボケナスのやり取りを伺っている。

仕事の手を止めてしまうのは私の流儀ではないので、ルイ・ヴィトンの長財布から五千円を出して、無言で渡した。


ドラ息子バカ社長は「新しいことをどんどんやってゆこう」と父親との差異を強調する、わかりやすいコンプレックスをさらして、二代目お決まりの無能な鬱陶しさを披露した。

父親と違うことをしたいにも関わらず、ピンク色+灰色+灰色七分丈スカートの絶望スタイルは変えなかった。

そして、今日、45才の誕生日も、私はこの恰好をしている。

 パソコン画面から目を逸らすことなく、伝票の入力をする。納入、払い出しと、在庫情報を逐一確認し、納期情報や出品期限について変更があれば、営業に一斉メールをする。新しいことをどんどんやってゆくはずが、このアナログな方法が変わることは無かった。 

在庫と納入払い出しの管理など、すべてオートメーション化すれば良いのだが、この作業の最終確認は必ず人の目を通さなければいけない、との方針だった。

誰かに話しかけられても、パソコン画面と伝票だけを見つめるその姿勢を崩すことは無かった。とにかく私に割り当てられた仕事を消化する。その毎日だ。

ドラ息子バカ社長になってから、「女性の社会進出」とやらをやたら言い始め、私にあてつけるように、産休育休をとる女性職員が4人出て、私はそいつらの仕事もしなければならなくなった。そのカバーをするのはもちろん私だけではないが、何だかすごく仕事量が増した気がしていた。会社にいる間中、イライラが募る。

そのうち昼休憩になる。

会議室は女子専用の昼休憩室に、なんとなくなっていた。私も会議室に移動して、コンビニで買ったパスタかなにかを食べる。

他の女子社員は、スイーツの話や彼氏の話、社員の陰口などをキャッキャしながら話している。私と同い歳くらいのパートは、家庭のことや子供の大学進学について、他のパートと一緒に愚痴っている。私はいつも、スマホと一緒に食事をしていた。誰の会話も、何の興味も持てない。

60分の休憩が終わると、また同じ姿勢に戻って、とにかく18時まではそのまま仕事をし、終業したら直ぐに帰宅する。一時期は、スポーツジムに通ったり、大人のためのバレエを習ったりしていたが、直ぐに飽きてしまった。飲みに行くこともあったけど、愛想笑いで話しを合わせたところで、結局は独りになるので馬鹿々々しくなった。

だから、今日も仕事が終われば、直帰する。

いつもはそうだった。誕生日の今日だって特別な日にする気は無かった。

 

私には誕生日を祝ってくれる人がいない。実家の両親ですら、最近は忘れている。

結婚できなかった私には、家で祝ってくれる人もいないし、恋人もいない。数少ない友人も疎遠で、第一、誕生日を迎えたら一つ歳をとってしまうことが災難でしかないから、いつもと同じ、何の変哲もない夜にしようと思っていた。と言うか、誕生日なんてどうでも良かったのだ。早くアパートに帰って、ささくれ立ったこの気持ちを緩めたかった。

 就業時間の18時を迎えると私はいつものようにすぐにデスクを離れ、ロッカールームに向かった。ピンク+灰色+灰色の絶望的な制服を脱ぎ、後ろで束ねた髪をほどき、手櫛で整える。エラが少しだけ張っているので、顔の輪郭を隠すように、毛先を顎に添わせる。  

しばらく美容院に行っていない。鎖骨までの長さのブラウンの髪は乾燥しきって毛先が広がり、頭頂部には数センチの白髪がキラキラと浮いている。

目の下のたるみとクマが、荒んだ心を表しているようだった。ロッカーの鏡と更衣室の無機的な照明のせいかもしれない、と思ってルイ・ヴィトンのバッグからチークを取り出し、頬骨の上にのせてみる。クマを縁取るような、目頭から伸びる薄い皺の陰影が、さらに協調されてしまった。リップグロスで唇を艶めかせようとしても、異様に薄い上唇にはうまく乗らない。できるだけたっぷり下唇に塗るが、乾燥したセミロングの髪と、くぼんだ目の下と、不自然に明るいチークの彩りが、無理にのせたグロスでテカる薄い唇を際立たせ余計に老けて見えた。切れ長だと思っていた目は不機嫌のように見えるし、ほうれい線が深くなった口元は不満の表れのようだった。若い頃にはクールな印象を与えていたこの顔の造作は、頑なさのために誰の一番にもなれなかった孤独と、若さへの妬みをそっくりそのまま表している。

八つ当たりの勢いでロッカーの扉を閉め、サテンの白ブラウスを、紺色の膝丈フレアースカートの中に入れ直した。重心が下半身に集中しているのを誤魔化すために、ブラウスをほんの少しだけ、腹部にかかるように引っ張り出す。クリーム色のパンプスのつま先が黒ずんでいる。指でこすってもその汚れは取れなかった。腹が立って、つま先を足で踏んでみる。汚れをこし取るように動かす。こんなことをしたら一層黒ずむと分かっていても、そうせざるを得ない気分だ。足を離すと、予想通りみすぼらしく汚れている。舌打ちをする。金色の細いチェーンネックレスの位置を整える。勤怠カードを押し込み退社した。

 会社の玄関のガラス戸を押し、宵の街に出る。

群青の、春の空が私に落ちてくるようだ。

また一つ歳をとるのが怖くて仕方がない。怖いというよりも、鬱陶しい。鬱陶しくて仕方ない。

そう、私の感情は、鬱陶しいと面倒くさいと、イライラするで占められて、その他の明るい気分は、元から無かったように、身体からも心からも、消え失せていた。

明るい気分になりかけると、その後に必ず沸き上がる「今だけ」という思いが上書きされて、明るい気分が霧散してゆく。

少しの時間でも飲みに出かけ、誰かと触れあってバカな話でもすれば、心の余裕を持つことが出来るかもしれないが、「誰か」が面倒くさいのだ。

ヘッドライトを灯した車が行き交っている。居酒屋の看板がきらめき、通りは夏の昼間みたいに明るい。

顔のいたるところにピアスをした髪の青い痩せた男が、ライブ告知のビラ配りをしていた。コンクリート打ちっ放しみたいなビルのスポーツバーの窓には、外国のサッカーの試合がスクリーンに映し出され、張り紙に「店内、もっと大きなスクリーンで見れます」と書かれていた。中央の螺旋階段がやたらと大きな隣のビルは、チーズ専門居酒屋、ワインバー、黒看板に白抜き文字の『PUB』、赤い装飾のスナックが、仕事終わりのサラリーマンや、学生たちを手招きしていた。

飲み放題90分千五百円の看板を掲げる茶髪の女、店に吸い込まれてゆく背広のおじさん、店の前で待ち合わせをしている若い男女。

そこを縫うようにして、私は歩みを進める。

と、何かに押された。それはトートバッグを肩にかけた、私と同い年くらいの中年の女だった。肘を張って、肩にかけたトートバッグの取っ手を握り、バッグの底の角を盾にするようにして通行に邪魔な者を押しのけているのだった。私と同じくらいの歩幅で、同じくらいの速足だ。

その中年の女はすれ違う時に、舌打ちをした。

それが私に向けられたものか、サラリーマンたちに向けられたものか、待ち合わせの男女に向けられたものかはわからなかったけれど、とても不愉快な音だった。 

髪を縛り、肘を張り出して、ずんずんと行くその女の後ろ姿を見ていたら、徐々に視界が灰色になっていった。

あの中年の女は、私だ――。

私はあんなにも殺伐として、不愉快で、意地の悪い女だ。あの中年の女は、私と同様、毎日が鬱陶しく面倒くさく、イライラとして、その心の頑なさと狭さを隠すことができないでいた。

中年の女は、肘を張ったままバックを肩にかけ直し、人々に強制的に距離をとらせ、道を塞ぐ人を、通り過ぎる時にわざわざ振り向き睨んだ。歩みを止めざるを得なくなると、その前で大げさに足を止め、またバックを肩にかけ直して、不快であることを周囲に知らしめようとしている。言葉にするでもないその鬱憤を気遣ってくれる者は、しかし一人としていないのだ。彼女はただひたすらに自分の中の不快をたぎらせ、若さが無くなったその顔に内心の凝りを浮き上がらせていた。何度も舌打ちをして、道を塞ぐ人がようやく中年の女に気づくと、口を歪ませ、通り過ぎるときに顔だけを振り向かせて、睨む。そしてまた舌打ちをする。少し離れたここからでも、ひきつった不機嫌な口元が見える。それはグロテスクな刺々しさそのものだった。

その姿を見ていて、痛感する。

彼女を取り巻く周囲の者は、彼女にとって不快をもたらす存在でしかないということ。それは今の私と同じだった。自分の生き方を信じられなくなり、これ以上マイナスになることが無いよう、ただそれだけに執着して生きているのだ。

絶対に人と触れないように、大げさに身を翻し、邪魔者をバッグの底の角で牽制する彼女の様は、孤独で荒廃した心そのもののように見えた。なんと切羽詰まった見苦しさなのだろうか。

ひとかけらの優しさも無い頑なさだけが、彼女から伝わる。

私はこう、見られているのだ。

自分に似た中年の女を見るとき、「こうはなりたくない」という嫌悪感がこみ上げた。

私はこんなふうに、歳だけとってしまった。

宵に包まれた空に、繁華街のネオンが刺さっていた。きらめく街が、ぼんやりと滲んだ。

こんなひどい今があることが、信じられない。

若くて可愛く、上機嫌でいたあの頃の私が、今の私を知ったら、悪い夢だと思うだろう。他人も自分も、何もかもが許せなくなっている。それがたとえ、自分のせいだとしても。

 子宮の欲求よりも、条件を優先して結婚していった女たちには無い個性が、私にはあると思っていた。そんな女たちの生き方をつまらないものだと軽蔑していた。

上手く立ち回り結婚して、月並みな幸福を手に入れた女たちを、私は憎んでいる。そして、何よりもそういう生き方を選ぶことができなかったことを、この歳になって、初めて後悔しているのだ。

中年の女はずんずんと歩いてゆく。周囲を拒絶するその殺伐さから、目が離せなかった。

頑なさを捨てなければ女の幸せは選び取れないことを、理解していなかった。「本能が認める男」という言葉の了見の狭さに気づかなかった。私の名前が指し示す「包容」の欠片もない生き方だった。私の個性とは、若さの裏打ちがあって成り立つものなのに、若さがなくなってもなお、私を受け入れてくれると、どこかで信じている。私の個性の中身など、自分を棚にあげた頑固さでしかなくなっているのに。私から男たちに与えられる楽しみなど、とうに失せているのに。

妻でもなく母でもない、誰からも選ばれなかった狭量な、歳をとった女が私だった。

この世界は私のような、あの中年の女のような、女の価値が無くなった女には、辛すぎる。

こんな目にあうことを、もっとわかりやすく明示してほしかった。個性の追及と女の幸せが両立するのは、ほんの一握りの特別な女だけだということを知らしめてほしかった。 

私のような特別な何かが無い、普通の女がこだわると、みじめな末路にしかならないことを、深くわかっていればよかった。歯科医の嫁や母や、月並みな幸せを手に入れている女たちは、わかっていたのだろうか。

酔っ払いの歓声が、水の中で聞く滲んだ音のようだった。行き交う人々の輪郭が、崩れてゆく。

私は泣いていた。泣いている自分に愕然とする。

そして、こう思った。アパートに帰ってしまえば今日がすぐ終わって、またひとつ、歳

をとってしまう。

45才──母でも妻でもない私は、若い女でない何かとして、あと30年くらい生きなければならない。このまま、あの中年の女と同じグロテスクな刺々しさをまとって生きてゆくのは、あまりにも辛すぎる。

輪郭を無くした通りのにぎわいに、私は灰色のまま立ち止まる。

街の真ん中で、足元からコンクリートに沈み込んでゆくみたいだった。

もう、中年の女は見えなくなっていた。

私はこのまま、アパートに帰ってはいけない、と思った。

だからと言って、どこに行こう。割引券を配っている海鮮居酒屋にでも行こうか。

今日は誕生日なのだから、特別なことをしよう――。

私はやっと足を動かすことが出来た。いつもよりもゆっくり、道行く人々を気にしながら歩き始めた。

この通りを過ぎると、市内きっての高級ホテルがある。

歩きながら、涙を手で拭って、そのホテルのラウンジバーに歩みを進めた。




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