第3話 スカンジナビアの風
普段あまり使われていない化学準備室。
薄暗い室内に足を踏み入ると、まずはほのかな薬品臭がお出迎え。
次いで、宙に舞う埃のせいで少し鼻がむず痒い。
「高円寺さん? 言われた通りきたよー」
こういう部屋にきたときって、どうして自然と小声になってしまうんだろう?
「高円寺さぁん」
何度呼んでも返事は貰えず、もしかしていないのか――と思ったそのとき。
(あ……)
カーテンなびく窓際に椅子を寄せ、片膝を抱えながら座り音楽を聴くメロの姿が、不意に映り込む。
集中していると言うか、悦に浸っていると言うか、とにかく絵画を切り取ったような光景に、思わず息をするのも忘れて見入ってしまう。
それから数分。
ようやく曲が一段落ついたのか、深く息を吐くメロ。その反動で、ようやく俺の存在に気付き慌ててヘッドフォンを外した。
「も、もう。来てたなら言ってよ!」
「ごめん。集中してたみたいで声がかけられなかったんだ」
「まったく。ノってる恥ずかしいところ、見られちゃったじゃない。ほら、隣の椅子に座って」
「お、お邪魔します。と言うか、こんなに密着する必要あるのか」
「このヘッドフォンは一人用だし、こっちのイヤホン使うから」
「えっ!? 一緒に使うの?」
「一緒じゃなかったら二人同時に聴けないでしょ」
「そういう問題じゃないんだけど……」
でも、まさかメロの顔がこんなに近い状態で聴くなんて……まるで恋人同士の距離じゃないか。
「ほい」
って、イヤホン渡されても。
と言うか向こうは全然意識していないみたいだし……。ま、そうだよな。
とにかく、受け取った右耳用のイヤホンを装着して、メロの次の言葉を待つ。
「ところで、聴きたいのはハーレム・スキャットマンでいいのよね?」
「任せるよ」
「おっけー」
慣れた手つきでスマホを操り、選曲を始めるメロ。
その横顔は、今にも鼻歌すら出てきそうなほど喜びに満ちていた。
「じゃ、いくよー」
「……ッ」
そのとき、風が吹いた。
決して自然現象のそれではない。
俺の耳を通して、体全体に清涼感溢れるスカンジナビアの風が流れたように気がしたのだ。
歯切れのいいギター、流れるようなキーボード、軽快なドラムさばき、ボディブローのように効くベース。
それらが巧みに合わさった後に、満を持して入り込む声太のボーカル。
Aメロ、Bメロは少し重い曲調であるものの、サビから一気にPOPにキレる。
ボーカル以外のコーラスワークも上手くマッチしていて、もしライブ会場にいたならば、絶対にリズムを刻みながら一緒になって口ずさんでしまうような、そんなワクワクとした気持ちにさせられるキラーチューン。
気付けば、耳元でしっとりとフェードアウトしていくサウンド。
心地よいグルーヴと透明感を凝縮した一曲が、こうしてあっという間に過ぎていった。
(……ふう)
俺はなぜあのとき、メロが深く息を吐いていたのか、その理由が今になって分かった気がする。
単純に引き込まれていたのだ。メロハーの世界に。
「どうだった?」
「引き込まれちゃったよ。上手く言えないけど、とにかく聴き入っちゃった」
「そっか。うん、そうだね。スゴい充実した表情してる」
「でも不思議なんだ」
「え?」
「達成感と言うか、高揚感と言うか、かと思えば、スリルのような緊張感が余韻として残ったり……とにかく複雑な印象を受けたんだ」
「下北沢くん!」
「うわっ」
曖昧な感想。でも、その素直に出た感想は、予想以上にメロの心に突き刺さったようで――。
「スゴいよ、あなた! そこに気付くなんて!」
「そ、そうかな」
「音楽ってさ、人と同様それこそ星の数ほどあって、好みも人それぞれじゃない?」
「ああ」
「私だって、色々な人にメロハーを勧めたいけど、中にはやっぱり合わないって人もいるし、そもそも洋楽は聴かないって人もいる」
「うん」
「だからさ、下北沢くんみたいに正直で素直な感想を貰えると、勧めて良かったなーって思うわけ」
「……」
「ぁっ! って、ごめん。私ばかり興奮しちゃって。あまりに嬉しくてつい……ね」
「気にしないで。俺だってもっと知りたいし、聴きたいよ。メロハー」
「マジ!? じゃあ次はこの曲、一緒に聴きましょ。バッド・ブラッドのドント・リーブミー・アローン。いい? この曲は開始五十秒で一気に持っていかれるから心して聴いて」
「もって行かれる?」
メロの引き出しは何曲あるのか?
それは不明だが、次に流れてきた曲は先程とはまた違い――。
ウェットなアコースティックギターサウンドに乗せ、ピアノが彩りを加えたところに颯爽とドラムとベースが合流し、最後にメランコリックなボーカルが躍り出る。
初めこそ、暗いトンネルを突き進むような気分。
しかし、ひとたびサビに入ると雲一つない空がパッと目の前に開き、爽快かつ清々しい気分にさせてくれる調べ。心なしか空気も美味い。
(ああ、さっき高円寺さんが言っていた開始五十秒で持っていかれる、の意味はこれっだったんだな)
ふと気が付けば全身がぶるり……と震え、腕に鳥肌が立っていた。
「あっ」
その現象にいち早く気付いたのはメロ。
「下北沢くん。鳥肌立ってる! そこまで感動してくれたのね!」
「うん。何て言うか、さっきとは違って聴き終わった後、心が洗われると言うか、モヤモヤが吹き飛ぶと言うか、道が開けたような気分にさせられたなぁ」
「……へ~ぇ。下北沢くんは意外と感受性豊かだね。これは聴かせ甲斐があるってもんだよ!」
「そ、そうかな」
「私だってこの曲を初めて聴いたとき、鳥肌モンだったもの。ほら、私の腕見て? 下北沢くんと一緒でしょ?」
「えっ」
鳥肌が立っている俺の腕に、メロは鳥肌が立っている自分の腕を隣り合わせる。
白くて細い、女の子特有の腕が近づくと、ふいに彼女のまとう匂いが強くなり、必要以上にドキドキしてしまった。
(恋人同士でもないのに、どうして高円寺さんはただのクラスメイトの俺に、グイグイと迫ってくるんだろう?)
もちろん、きっかけはメロハーに過ぎない。
でも、いくら何でもこの距離はさすがに傍から見たら誤解されてもおかしくない。
(高円寺さんは、俺のことを異性として見ていないのか? それとも単に無頓着なだけか?)
思えば、浮いた話のひとつやふたつも存在しないメロ。
おそらく、異性として見ていないのと、恋愛に無頓着なのと、その両方なんだろうけれど……俺ばかりが意識してしまってカッコウがつかない。
「ね、次はこのバンドの曲、聴きましょ。ほら、ジャケを見てみてよ。曲芸師が天に向かって綱渡りしているの。両手には紙幣が入ったカゴが握られていて、お金を地上にバラまいてるのよ」
「幻想的な世界観だな。平面なのに奥行きもあって……曲を聴く前から引き込まれそうだ」
「でしょーーーー! やっぱり下北沢くん、分かってるゥーーーー!」
「うわっ。ちょ、ちょっと高円寺さん、近いよ……」
「それじゃ、お勧めのバラードとしゃれこみましょ」
「ふぅ……」
聴けば聴くほど、深みにハマっていく甘美なるメロハーの世界。
ついついお代わりをし過ぎて、午後の授業が始まったことに気付かず、午後の授業に遅れてしまうのも最早お約束。
二人して慌てて戻ったら、案の定クラスメイトから好奇の目にさらされ、朝帰りならぬ昼帰りなどとささやかれることもお約束。
それでも、メロ自身はまったく気にしていない様子で。
そのまま席に収まると、先程までのハイテンションがまるでウソのように机に突っ伏すのもまた、お約束なのであった――。
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