愛という名前

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「それは愛じゃないよ」

「どうして?」

「僕はそれに愛って名前を付けなかったからさ」

 そう言って綾瀬は鼻で笑った。馬鹿にされてるみたい、というか実際馬鹿にされてるんだけど、別に腹は立たない。それが綾瀬の通常運転だから、むしろ安心するまであった。

 漫画でよく見るやれやれ、と擬音がつくにぴったりのポーズでいる綾瀬は、傍から見れば随分と滑稽であった。自分が正しいと信じて疑わない人、相手の気持ちを考えられない人、綾瀬はそういう人だ。だけど俺はそれでも綾瀬を愛した。それが愛だと思ったから。それに愛という名前を付けたから。

「なら綾瀬は何に愛と名付けたの?この気持ちを綾瀬はなんて表現するの?」

「そんなの知らないよ。僕はその気持ちに愛と名付けなかったってだけさ。まだ愛と呼ぶに相応しい感情と出会ってないんだ」

「ならどうしてこの気持ちが愛じゃないってわかるの?」

「じゃあ逆に聞くけど、どうしてその気持ちが愛であると断言できるのさ。僕にはそっちの方が理解できないけどね」

 綾瀬はまた、俺のことを鼻で笑う。腹は立たない。綾瀬はいつでも俺のことを馬鹿にする。それが綾瀬なりの愛だと思っていたんだけど、どうやら違ったみたいだ。

 愛だと名付けた理由なんて、そんなの綾瀬が愛と名付けなかった理由と同じに決まっている。それがわからない綾瀬は、やっぱり相手の気持ちを考えられない人なんだと思い安心した。うん、これが俺の愛だ。人間として不完全な部分、未熟な部分、足りてない部分を俺は受け入れ肯定する。その空いた穴が埋まらないことを誰よりも願い、それを確認するたびに安堵してあげる。この世に完璧な人間はいないんだから、完璧ではないことを認めてあげなくちゃ。それこそが愛であり、愛と名付けるに相応しい。

「綾瀬は、少し人間として足りてない部分があるから」

「君がそれを言うなんて、あまり笑えない冗談だね」

「冗談じゃないよ」

「あぁそう。それなら人間として足りてない部分が僕にあるのは認めるけど、それはきっと藤田くんの方が多いに違いないさ」

「そうやって決めつけるのは綾瀬の悪い所だよ」

「はいはい、この話はもう終わりでいい?」

 疑問形にしながらも綾瀬にはもう話を続ける気はないようで、画面が真っ暗になったスマホを持ち直してゲームを再開した。どうやら音無しで音ゲーをしているらしく、タンタンと指が画面を叩く音に交じって、カツカツと爪が画面に当たる音がする。どうせまためんどくさがって切らずにいるんだろう。多少長くても生活には困らない、なんてのは綾瀬の口癖だ。

「その爪はいつ切るの?」

「あと一か月はいけるね」

「あのね、君が大丈夫でもいつか相手が怪我をするかもしれないだろ」

「欠点を認めてこそ愛なんじゃなかったのかい?」

「そうだけど、それとこれとは話が別だよ。さすがに誰かが傷付くかもしれないことを認めてはあげられないよ」

 そう俺が言うと、綾瀬はまたやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。そして一曲終わったらしいスマホを横に置き、手の甲を裏にして俺の方に向ける。これはそう、爪を切れの合図だ。

「別にいいけどね」

「なら何も不満はないだろう?ほら、早く切りたまえよ」

「俺は君の召使いではないんだし、もう少し頼む態度ってものがあるだろう」

「はいはい、お願いします」

 まったく、綾瀬はこれだから。ああ、本当に。だから俺は、綾瀬を愛することをやめられない。綾瀬に言わせればこれは愛ではないらしいけど、愛なんて不確かなものに正解なんてあるわけがないだろう。むしろあったら困る。俺はこれを愛だと思っているし、だからこそ愛という名前を付けたのだ。俺だって別に完璧な人間ではないけれど、その辺の人よりは優れている自信がある。そしてこれは俺の主観が入ってるけど、綾瀬は俺の周りの人間の中で一番欠点が多い。人より優れている俺が、人より劣っている綾瀬を認めてあげる。ああ、ああ、なんて素晴らしい!何度でも言おう。これこそが愛!これこそが愛と名付けるに相応しい感情であり行動!

 綾瀬と出会えたことに感謝しかない。神様、本当にありがとう。俺は綾瀬と幼馴染であるという事実が一番嬉しい。綾瀬がどう思ってるかは知らないけど、この俺の気持ちは、綾瀬への愛は、たとえ綾瀬に言われたって揺るぎはしない。これに愛と名付けた日から、俺の毎日は輝いているんだ。

「人の爪を切るのがそんなに楽しいのかい?」

「綾瀬だからだよ」

「ああそう。これは前も言ったけど、君のソレはただの執着さ。早く気付けるといいね」

「照れ屋だね、綾瀬は。恥ずかしがらなくたっていいんだよ。俺が責任もって死ぬまで愛してあげるから」

「……好きにしたらいいんじゃない」

 綾瀬はいつもそう。俺の愛を素直に受け取ってくれない。けど、それは恥ずかしかったりでただ素直になれないだけなんだと俺はちゃんと気付いてるから、だから大丈夫。

 パチン、パチン。お互い喋らなくなった空間に、爪を切る音が響く。俺は綾瀬とならどんな話をするのも好きなんだけど、綾瀬はどうもそうではないのだ。曰く、藤田くんと話すのは心が疲れる、らしい。お互い少し、捻くれてる部分があるから。ついややこしい言い方をしてしまう癖があるのかも。それなら疲れるのは心じゃなくて頭じゃない?なんて聞いたら、綾瀬は困ったように笑ったから、それから俺は綾瀬が話したくなさそうなときは素直に話すのをやめることにしている。綾瀬が嫌がることはしたくないからね。

「僕は、世間一般の愛の方が信じられるよ」

 ぽつり。と、頭の中からそのまま出てきたような言葉にはどこか寂しさが含まれているような気がした。

「今日は同じ話を続けたい日なんだね」

「ただの気分さ。愛という話題は人間が常に悩み今でも考え続けていることだし、僕はそういうのが好きだって、君も知っているだろう?」

「そうだね。いつもよりたくさん会話ができて嬉しいよ」

 手の指の爪を切り終われば、次は足の指の爪を切れと、綾瀬は俺をソファからおろした。この体勢は好きじゃない。俺の方が綾瀬より下みたいで気に食わない。俺は綾瀬を愛してるから関係は対等だけど、そうじゃなければ綾瀬の方が下のはずなのに、この体勢は逆転してるみたいに感じるから。

 難しい話は得意じゃない。そういうのは綾瀬の担当だ。哲学だとか宗教だとか、そういう不確かで不透明で回りくどくて面倒臭いのが綾瀬は好きなんだ。俺は好きじゃないどころか苦手まであるけど、楽しそうに話しているところを見るのが好きだから、大人しく聞き専にでもなろう。

「僕は君のことが好きだ」

「うん、知ってるよ」

「そして君は僕のことが好きだ」

「もちろんさ」

「だけどこの好きに含まれている気持ちは全く違うものだ」

 知ってる。そんなこと知ってるさ。当たり前じゃないか。全く同じ感情なんてのはこの世に存在しないんだから。

 相槌を打つだけの俺を見て、俺が聞き専になろうとしていることがわかったらしい綾瀬は目を合わせることなく話を続けた。

「僕は君のソレに愛と名前を付けなかったって話はもうしたけど、つまりはそういうことさ」

「俺は難しい話が得意じゃないって知ってるだろ」

「簡単に言えば、僕は君を愛してないってことさ」

「は?」

 は?どういうことだ。綾瀬は、俺を、愛してない、?

 理解ができない。愛と名付けた感情が、行為が、俺と違ったって、綾瀬は俺を愛してくれていると信じて疑わなかったのに。相思相愛だと思っていたのに。

「何か勘違いしているようだけど、別に嫌いとは言ってないよ」

「………」

「僕は君の親友さ。君がどう思ってるかは知らないけどね。親友に愛してるなんて、そんな感情は普通持ち合わせていないんだよ」

「俺がおかしいって言いたいの?」

「そんなんじゃないさ」

 今日で三回目、やれやれというように肩をすくめる綾瀬。それはもう癖だね。そしてその仕草をするときは、俺を馬鹿にしている時だ。腹は立たない。愛がないと決まったわけではないから。

「さっきも言っただろう?君のソレはただの執着だって」

「だから何だっていうのさ」

「勘違いだよ。思い込みとも言うね」

 俺が丁寧に切り揃えた、お手本のような形の爪を携えた人差し指が鼻先に触れる。ほら、ちゃんと切っておいて良かっただろ。

「もし僕が愛と名前を付けるなら、それはきっと綺麗な感情にしたいね」

「俺のは汚いってことかい」

「ああそうさ。君の愛はドロドロで汚くて、僕じゃなきゃ目も当てられないよ」

 会話の主導権を握っているからか、いつもより饒舌な綾瀬が眩しい。どこか自慢げなその様子は幼い子供のようだった。

 僕じゃなきゃ目も当てられない、か。つまり綾瀬は平気ってわけで、そしてそれはつまり綾瀬にとって俺は特別ってことだ。いや、俺にとって綾瀬が特別なのか?まあそんなことはどうでもいいか。特別って事実が嬉しいから、そんなのは些細なことだ。

「恋人だったり夫婦だったり、そういう関係の間に発生する感情を、世間一般では愛と呼ぶんだ。藤田くんはずれているからね」

「恋愛感情じゃなくたって、愛と呼んでいいに決まってる」

「決めつけは悪いことなんじゃなかったのかい?」

「欠点を認めてこそ愛だろう」

 揚げ足を取られたみたいで少しムッとして言い返すと、綾瀬は何故だか俺の頭を唐突に撫で始めた。

「…何してるの?」

「藤田くんの愛を理解しようと思って。あんなに言っといてだけど、僕はまだ愛と名付けたいと思ったものに出会えてないからね」

 うーーん、撫でるだけじゃダメなのかな、とか。抱きしめるのはさすがにやりすぎ?とか。ぼそぼそひとりごとを言いながら、全く似てない俺の真似をする綾瀬が面白くて、つい笑いが漏れる。

「別のものに同じ名前を付けようとするからすれ違うのさ」

「何の解決にもなってないんじゃない?」

「別にいいだろうよ。きっと世間じゃ、藤田くんのその愛を僕が受け入れることを愛と呼ぶんだろうからさ」

「全く難解だね」

「それは特大ブーメランってやつかい?」

 そう言ってまた綾瀬は鼻で笑った。うん、やっぱり、綾瀬は俺のことを馬鹿にしている時が一番良い顔をする。そしてきっと俺も、そんな綾瀬の欠点を認め愛する時が一番良い顔をしているんだろう。

 俺たちはこれでいい。これが俺たちでいい。いつかきっと、綾瀬も気付いてくれる。俺たちの間にある感情こそが愛と名付けるに相応しい綺麗なものだって。恋人だとか夫婦だとか、そんな関係ではないけど。ただの親友と言ってしまえばそれで終わる関係だけど、でも、俺は確かに綾瀬を愛しているから。

「ふふ、今日は良い日だね」

「記念日にでもするかい?」

「そうだね。今日は俺たちが愛を確かめ合った記念日にしようか」

「君は相変わらず言語化が下手くそだね」

「そう?でも、それを認めてこそ愛だからね」

 自己愛にも適用されるんだね、と一言呟いてから、綾瀬はゲームを再開した。タンタンと、指が画面を叩く音だけが鳴る。うん、やっぱり今日は良い日だ。

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