第3話 宿泊客:ヨウ子③ アキヒトとのこと

「おれ、いやだからね」

 アキヒトのあの顔。

 高校野球の、応援している高校の対戦チームを見るときの顔。

 アキヒトは高校野球が好きだ。地元のある高校をひいきにしている。アキヒトは高校のころ野球部で、そのチームに負けた。そのときの一方的な試合展開を、アキヒトは、すごく楽しい映画のあらすじを話すように話す。

「悔しくなかったの?」

 私は尋ねた。負けたらいやなんじゃないだろうか。アキヒトはこう言った。

「悔しいなんて思うはずがないよ。14点も差をつけられたんだぜ。逆に笑えるよ」


 高校三年間、打ち込んでいた野球で、アキヒトが楽しそうに話すのは、その試合のことだけだ。

 アキヒトは三年間、ずっとベンチだった。

 一度、偶然町で出会った野球部の先輩に、アキヒトはものすごくペコペコしていた。先輩は、脚をひらいて、背をそらして立って、何度もアキヒトを小突いていた。

 あのせいで、アキヒトは、自分のチームではなく、相手チームのメンバーみたいになってしまったのかもしれない。気持ちがへんにねじまがってしまった。自分が一員になれなかったチーム、そのチームを負かしてくれた相手に、気持ちがぴったりくっついた。

 だからアキヒトは、いまだにその高校のファンだ。そこを負かした相手は許さない。

 そこは野球の強豪だけれど、だいたいベスト8から16どまりで、てっぺんは取れない。

 だからアキヒトのあの平べったい目を、ヨウ子は何度も見ることになる。

 あの酷薄そうな目。人と両生類がまじりあったみたいな目。それで相手チームのメンバーを眺める。喜んで肩を抱き合う少年達を、飛びまわる蠅でも見るみたいに。

 あの顔を見るたび、いつも思う。この人、こんなに怖い顔をしてたっけ。もっと、優しそうな顔をしてたんじゃなかったっけ。


 大学のとき、アキヒトは同じ学科で、同じレストランのアルバイトをしていた。

 仕事に慣れないヨウ子を、先輩格のアキヒトはフォローしてくれた。料理をテーブルに運ぶのを手伝い、ゴミ出しを代わってくれた。

 ヨウ子の父親は、料理を運んだりしなかった。ゴミ出しなんて、絶対にやらなかった。

 父親と母親は、離婚した方がさっぱりするような状態が、長いこと続いていた。でも、子供も出来て、それなりに長いあいだ夫婦でやってきて、もう人生の残りもそんなにないし、それにここまで続いてしまったから、現状を動かす力も失われている、そんな感じだった。

 ゴミ出しをしてくれる人となら、ああいうふうにはならないよね。

 ヨウ子はそう思って、アキヒトと付き合いはじめた。

 アキヒトのゴミ出しは仕事だ、ということは、失念していた。アキヒトがヨウ子をフォローしたのは、せいぜい3・4回で、ずっと親切にしてくれたわけではないことも忘れていた。その親切は、下心があったからで、アキヒトは手に入れてしまったら、興味を失くすタイプの人間だということにも、気づかなかった。

「男女平等の世の中なんだからさ」

 アキヒトは、平べったい目でそう言った。

 男女平等という言葉が、自分達に関係あるんだと、このとき初めて知った。

「おれ、養うとか無理だからね」


 ヨウ子はただ、職場の愚痴を言っただけだった。

 ベテランの社員が辞めて、その仕事が、ヨウ子に全部ふりかかって来ていた。

 「ヨウ子ちゃんは5年もいて、ベテランだから」

 上司にそう言われても、辞めた社員は、勤続14年だ。おまけにその人の担当していた仕事に、ヨウ子はまったく関わっていなかった。ひととおり引き継ぎは受けたが、分からないことのほうが多かった。それに仕事量も多い。自分とそのベテラン、二人分を一人で回さなければならない。慣れない仕事という点も考えれば、実質三人分だ。

 上司に相談したが、「うまくやって」と、取り合ってもらえない。

 だから、アキヒトに言った。「もう仕事、辞めよっかなあ」と、冗談で。

 スーパーダーリンみたいな回答を望んでいたわけじゃない。「大事なお前をそんなに苦しめる会社なんて辞めろ。俺が養ってやる」みたいな、そんな現実ばなれした回答は。

 そうじゃなくて、「それはひどいね」と言ってほしかった。ありがちな共感が欲しかった。それで満足できる。

 まぁ、正直、少しは、スーパーダーリンみたいなセリフも期待していたけれど、本気にするつもりはなかった。ヨウ子はアキヒトの給料の額を知っている。自分と同じくらいの額。あの給料では、ヨウ子を養えない。ヨウ子も、養ってもらうつもりはない。働くことはイヤじゃないし、お金は貯めておきたい。

 そのくらいのことは、通じていると思っていた。大学を出て、これまで付き合って、同棲もして、2人のあいだには、結婚の話も出ていたのだから。

 だからこれは、幸せな仮想現実を、一瞬味わってみたかっただけ。ちょっと彼氏に甘えてみたかっただけ。

 結婚の話が現実的になっていたのが、まずかったのかもしれない。将来の生活に対する責任が生まれ始めていたのが。いままでのように、大学生の延長のように、気楽に二人で暮らすだけではいかなくなっていた、このタイミングが。

 でも、それがまずいって、どういうことなんだろうか?

「養うとか、ちょっと勘弁してよ」

 平べったい目でそう言われた。

 あのとき、脳天からつま先まで、ビリッと走った直感があった。

 私は敵チームなんだ、と。

 アキヒトは、私のことを好きじゃないんだ。


 その場を笑顔でごまかし、ヨウ子はお風呂に入った。

 タオルに顔を埋めて、ぼろぼろ泣いた。

 狭い家の中だ。変な声を出したら、すぐに気づかれる。だからそんなふうにこらえた。

 アキヒトは、私のことを好きじゃないんだ。

 大学生の時、初めて付き合った男の人だった。男の人と付き合ったら、ああしよう、こうしようと思っていたことを、全部した彼氏だった。それなのに、アキヒトは私のことを好きじゃなかった。

 これだけ付き合って、なんにも残らないことって、あるんだぁ、と思った。

 小・中・高・大学と、なんとか浪人も留年もせず、スムーズに卒業してきた。だから、小・中・高・大学・アキヒトと来て、結婚、出産と、スムーズに進むと思っていた。それを望んでいたわけではなかった。ただなんとなく、そうなってきたように、そうなるだろうと思っていた。違ったことがショックだった。それに、初めての彼氏に舞い上がって、勝手にアキヒトをおしどりのつがいみたいに考えてしまっていたから、ショックだった。

 べつに、アキヒトのほうには、ヨウ子と添い遂げなければいけない義務は、なにも発生していないのだ。人間はおしどりじゃない。少なくとも、アキヒトはそういうスタンスでいる。

 それが分かった。はっきり分かった。


 長湯でないヨウ子が、2時間もお風呂に入っているのは、あきらかに異常だった。顔がグシャグシャになって、風呂場に行ったのもバレていただろう。

 しばらく後、風呂場の曇りガラスに、アキヒトが映った。

「ヨウ子ぉ」

 身構えた。

 身構えたことに、自分でおどろいた。彼氏に対する反応じゃない。

 ともかく、急いで顔を拭いた。真っ赤になった顔を、なんとかしようとした。

 そんなときだった。ドアの向こうから、のんびりした声が聞こえたのは。

「チーカマの残り、どこ?」

 あのとき、やめよう、と思った。

 別れよう、ではない。やめよう、だった。もうやめよう。ぜんぶやめよう。

 ヨウ子もアキヒトも働いているから、買い物も、家事も、ぜんぶ半分ずつやろうね、と二人で決めた。最初のころは、それでうまく回っていた。

 でもいつの間にか、ヨウ子ばかりが、買い物をして帰ってくるようになり、ごはんを作るのも、洗濯をするのも、ヨウ子だけになった。アキヒトはもうゴミ出しをしない。しなくなった。

 それで良いと思っていた。でも、いやになった。

 どこかへ行きたい、と強く思った。ここじゃないどこかへ。

 その三日後、スーパーで、おばあさんから、出来すぎた運命のように、ホテルのカードをもらった。風呂場で泣いてから、カードをもらうまでのあいだ、ヨウ子に親切にしてくれたのは、そのおばあさんだけだった。

 ヨウ子は、会社に辞職願を出し、残っていた有給休暇を無理やり取得して、ここへ来た。

 アキヒトには何も言っていない。

 新幹線のシートに座っているあいだも、その次の特急も、ヨウ子の手は、かたく握られたままだった。


「それはそれは、大変な冒険を……」

 話を聞き終えた秋は、目をまるくして言った。

 ホテルのロビーで、向かい合ってお茶を飲む二人。

 ヨウ子の前には、四種類のお菓子と紅茶、秋の前には紅茶だけ。

 聞き上手な秋は、するすると、糸を巻き取るように話を引き出した。ヨウ子は誰にも言わなかったこれまでのことを、秋に話した。

 話してみれば、ずいぶん思い切ったことをやったような気がした。同時に、ずいぶんささやかな出来事である気も。

 秋は微笑んで言った。

「それでは、もしお相手の方から当方へお電話があっても、お取り次ぎしないようにいたしましょ」

「あ、いえ、それはないです。ホテルのこと、話してないし」

 第一、知っていたとしても、電話をかけてくることはないだろう。

 秋はうなずいて言った。

「承知しました。そもそも、お客様の個人情報にはお答えしませんし、それに、電話もかかりませんからね」

「電話がかからない?」

 変なことを言う。

「はい。ご予約のお電話や、食材の注文といった、ホテルに必要な電話はかかるんですけれども、他はシャットアウトされているんですよ」

 シャットアウト?

「死者と会えるホテルですので、まぁ、ものごとが普通である方が、おかしいということです」

 秋はさらりと言った。

 忘れていた冷や汗が戻ってきた。詐欺ホテル。

「でも、それはその、詐欺だって……」

 うろたえるヨウ子に、秋は言った。

「いいえ。あいにく、本当です。以前のオーナーは、もともとここがそういう場所であったことに注目し、それを商いにしただけなのです。ここはホテルが建つ前も、建ってからも、少しも変わっていません」

 穏やかに笑って、秋は言った。

「平さまは、その目的でお越しになってはいないようですが、もしよろしければ、その死者に会うというところを少し、お話ししましょうか?」

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