第2話 宿泊客:ヨウ子② ホテルへ~タクシー、出迎えの犬、ホテル到着


「うはは、まぁねぇ、エビラさんきついから」


 やっと来たタクシーの運転手は、ヨウ子の話を聞いて、おかしそうに笑った。

 商店の店主、親分猫、エビラさん。彼女はタクシーを呼んでくれた。


「電話に出ない? どうせ飲みに行ってるんだろ」


 そう言って、知り合いらしいタクシー会社の社長の携帯電話に連絡してくれた。

 詐欺と聞いて、顔面蒼白になっているヨウ子に、「そんなこと言って、泊まるとこどうすんの。このへん知り合いいないんだろ。もうバスないよ。オーナー替わって、今は真面目にやってるから、大丈夫だろ。行け」と命じた。

 親切な人だ。それは間違いない。だが、怖い。あと、言い方。


「それで、詐欺って、本当ですか」


 運転手は片手を額にあて、「ああうん、そうですねぇ」と言った。

 飲みに行っていると聞いて、酔っぱらった運転手が来るんじゃないかと、そっちの心配でも青ざめていたけれど、来た運転手は普通の、お酒のにおいのしない、普通のおじさんだった。


「けっこうあこぎにやっててねぇ、霊水とか、パワースポットとか。芸能人も宣伝入って、老後の資金とかかなり入れちゃった人もいたから、わりと騒ぎになって、記者さんとか、被害者の家族の人とか、俺も相当ホテルまで運んだよ。ちょっとした特需みたいになってねぇ。長続きはしなかったけど」

「今は?」

「今は、オーナー替わって、知る人ぞ知るホテルみたいになってるから、ぜんぜん人は来ないね。当時の連中とはすっぱり縁を切って、クリーンにやってるよ。そういうところはね」


 そう聞いても、やはり不安は残る。

 あのおばあさんもグルだったのだろうか、とまで思える。記憶の中のあの手の感触が、罠にかけたねずみを愛でる猫の手つきのように思えた。

 泣きっ面にハチということばは、こういう時のために、昔の人が言い残してくれたのか。


「まぁでも、どのみちこの辺、泊まる所なんてないから、ホテルに行くしかないよ。ホテルには連絡してるんでしょ?」

「はい」

「じゃあ、やっぱり行くしかないな」


 運転手は額に手をあてて言った。この人の癖みたいだ。なんだかお手上げ……降参しているみたい。

 タクシーはするすると道を進み、空はどんどん茜色から薄闇色に変わっていく。

 秋の日はつるべ落とし。店に入ったときは、まだ薄く日が残っていたのに、あっという間に消えていく。


「お客さん、森の手前でおろすね」


 急に言われた。


「え?」

「ホテルの下に森があるんだよ。そこの入口でおろすから」

「え……、ホテルまで、行ってもらえないんですか」

「うん、森までだな、どうしても」


 どうして?

 もの問いたげなヨウ子の顔を、バックミラー越しに見て、運転手は言った。


「まぁ、がんばって」

 答えずに、そう言った。



 言ったとおり、森の入口でヨウ子を下ろすと、タクシーはUターンして行ってしまった。

 丘の下からのびていた道は、ここで途切れ、舗装されていない土の道に変わっている。車が一台ぎりぎり通れそうな道幅。道は森の途中で大きく曲がり、先が見通せない。森のなかは一足先に闇夜がおりたように暗い。

 ここを抜ければホテルがあるとわかっていても、たったひとりで、辺りも暗いこの状況だと、ひたすら心細い。


「帰ろうかな……」


 ヨウ子は小さく首を回し、タクシーの去ったほうを振り返った。

 さっきの運転手や商店のほうに、心が引かれた。いまタクシー会社に電話したら、あのタクシーの運転手は、引き返して来てくれるんじゃないだろうか。

 何かが走ってくる音が聞こえたのは、そのときだった。

 森のなかから、一頭のボーダーコリーが走り出て来た。

 利発そうな顔だ。それに、つやつやした毛並み。健康的で、よく手入れされている。

 犬はきらきらした目でヨウ子を見つめ、まっすぐ走ってきた。ヨウ子の元まで来て、足元でぐるぐる回る。喜びを抑えきれない、という様子で。

 まるで、長いあいだ待ちわびていた、飼い主に出会えたような。


「え、なに、なに?」


 ヨウ子は思わず笑顔になった。

 嬉しい。犬は好きだ。それに、こんなに歓迎してくれるなんて。

 ずいぶん人なつっこい……いや、人いうより、この犬は、ヨウ子になついているのだ。ヨウ子のことが大好きなのだ。

 ヨウ子は犬を撫でた。犬は、もっと撫でて、というように、手に頭を押しつけてくる。ヨウ子を見つめる、愛情にあふれた目。好きにならざるを得ない、そんな犬だった。

 ヨウ子は犬を撫でながら、首輪の字を読んだ。「竪琴ホテル」と書かれている。


「ホテルの犬なの?」


 では、この犬が迎えに来るから、森の入口でおろされたのだろうか。

 犬は、ウォン、と吠えた。くるりと体の向きを変え、森の入口を向いた。ヨウ子をふり返り、森の入口をまた向く。何度もそうする。催促するように。

 その一生懸命さに、なんだか笑ってしまった。


「わかったよ。行こうか」


 丘の下に下りても、泊まる所はない。詐欺ということばには怯むけれど、オーナーが替わっているなら、大丈夫だろう。それなら、1泊だけしてみよう。

 犬が鼻先で、更にヨウ子の手をつつく。犬のあとについて、ヨウ子は歩き出した。



 近くで見たら、ホテルは、思ったより大きかった。

 いや、思ったより小さい気がした。大きくはない気がした。

 べったりした白い壁のホテルで、窓が長四角の穴みたいに空いているだけだから、感覚がつかめない。感覚が狂う。たぶん3~4階建てだろうか。5~6階建てかもしれない。

 巨大だ。いや、小さい。感覚がつかめない。遠近法が、世界がおかしい。そうだ。そのとおり。ここは変だ。何かがおかしい。人の頭をぼんやりさせるガスが、その辺から噴き出て、いる、みたいだ。

 一体、いつの間に森を抜けたんだろう?

 気がついたら、ホテルの入口に立っていた。


 あのボーダーコリーは、どこにもいなかった。森のなかで、自分をずっと先導し、時々振り返って、しんぼう強く待ってくれていた犬。

 ずっと一緒にいたのに、もう仕事を終えて、さっさと犬小屋へ帰ったんだろうか。なんだか薄情だ。

 それにしても、一体いつ離れて行ったんだろうか。ヨウ子は覚えていない。森を歩いていたのが、どのくらいの時間だったかもわからない。どうやって歩いてきたのかも。

 強い風が吹き、背中を押した。

 中へ入った。


 ロビーには、誰もいなかった。

 外側と同じ、白い壁の室内に、円形の絨毯が敷かれ、ソファとテーブルの応接セットが2組並んでいる。その奥にカウンターがあった。

 カウンターに向かって右手側、フロアの広がる先の壁際に、上へのびる階段が見える。フロアの正面奥には両開きのドア。

 よく掃除された床の上に、星明かりのようにランプの光がきらめいている。


「まぁまぁ、ようこそいらっしゃいました」


 奥のドアが開いて、銀色のお盆を持った女性が出て来た。

 年は40代半ばだろうか。長い豊かな栗色の髪を、頭の後ろでおだんごにまとめている。茶色のクラシックなブラウスに、ゆったりしたパンツ。ふとんの声。


「お出迎えが遅れて、失礼いたしました。平ヨウ子さまですね。お待ちしておりました。わたくし今季の担当でございます、秋と申します。よろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそ、お願いします」


 優雅なお辞儀と、取って付けたようなお辞儀。

 女性は、お盆に銀色のカトラリーをのせていた。


「さぁ、どうぞ、こちらにおかけになってください。お疲れになったでしょう。今、歓迎のお菓子とお飲み物をご用意しますから」

「お菓子?」


 お菓子と聞いて、先程までの、狂った時計のような気持ちが、パッと吹き飛んだ。

 お菓子は大好きだ。そういえばおなかもすいている。エビラさんのお店では、結局おそろしくて、何も買えなかった。何か買ったら、叩かれそうな気がして。


「お菓子は、アップルケーキとモンブラン、シフォンケーキ、プリンの四種類がございますが、どれになさいますか? もちろん、四つともお召し上がりになっても結構ですよ。お飲み物は、紅茶、コーヒー、ハーブティー、緑茶、ほうじ茶など揃えております。冷たいお水や果物ジュース、スポーツドリンクもございます」

「そんなにあるんですか?」


 なんて幸せ。


「はい。お飲みものに関して、少しだけ付け加えますと、本日のお勧めは紅茶です。ちょうど今朝、おいしいアッサムが入りました。けれどハーブティーも、紅茶と同じくらいお勧めのブレンドがありますので、もしよろしければ、一杯ずつお持ちすることも可能ですが」

「それでお願いします」


 飛びついた。

 女性はアーモンドの目をほそめ、にこっと笑った。


「かしこまりました。お菓子は、四つともお召し上がりに?」

「はい!」

「かしこまりました」


 通じ合う、笑顔と笑顔。

 女性は、「それでは、すぐにご用意いたします」と言った。

 そして思い出したように振り返り、ヨウ子を見て訊いた。にこっと笑って。


「平さま。シフォンケーキに生クリームを、たっぷり添えてもよろしいですか?」


 もちろんだ。

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