幕間

 これはいつの記憶だっけ。

 そうだ、俺が、色彩鑑識の集まりで、天使のペンを任された日の……。


 ある晴れた春の日、夕方のこと。

 両手で大切に包み込むのは、天使のペン。

 もちろん過剰なまでに包装が施されているけれど、もしも落としてしまったら、壊してしまったら、無くしてしまったら、と思うと気が気じゃねぇ。

 このペンは、世界一大切なんだ。

 時折、布越しにペンの造形を手で感じ取った。理屈じゃなく、すごく綺麗だと感じた。本当に理屈なんてなく。

 天使のペンを見たとき、天から授けられた贈り物のように見えて、すごく不思議な感覚におそわれた。

 つやりとした桜色のキャップは、本物の桜の花びらみたいな繊細さがあった。散ってくる花びら。

 桜の花びらを捕まえようとしていた日々が懐かしい。俺の手の中についに収まったあの花びらはやわらかくて、すべすべとして、次の瞬間また風にあおられてしまったけれど、俺はそれだけで満足した。幼かったからだろうか。そのたったひとひらの花びらが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

 鮮やかな持ち手の部分も、今にも飛び立っていきそうな真っ白いふわふわの羽も、全部、ひどく俺の心を打った。

 「天使」のペンというその名前。

 このペンに何よりもふさわしい。天使が訪れたんじゃないかと思えるほどの、安心感とか幸福感とか、あたたかさ。それが天使のペンにはあった。

 この天使のペンで絵を描いたら。

 一体どんな美しい絵と出会えるんだろう。

 もちろん描く人の技術次第とも言えるけれど、きっと天使のペンを使えるような人は、絵が好きで、ワクワクしながら描ける人のはずだ。

 楽しむ絵に技術なんて関係なくて。

 こんな素晴らしいペンと、そのペンに選ばれる使い手。

 合わさったらどうなるんだろうか。

 描かれた絵が現実になって、世界の一部になって。永遠ではないらしいが、一時でも使い手の絵がこの世のものになる。

 しあわせだ。


 その時、頭上に優しい光が降ってきて。

 影が伸びていくのに気がついた俺は、思わず空を見上げた。天使のペンに気を取られて、上をまったく見ていなかった。

 視線を少し上げただけで、俺の視界は橙に染まった。

 薄い雲から太陽の光がもれ出ている。沈みかけの夕日は、まだとんでもない明るさを秘めていて、一面を優しい橙に染め上げている。

 雲にできた影が立体感を増させていた。

 なんて言うんだろう、この奇妙な光景。光景自体は普通なのに、何か違う感じ。

 絵画の世界に放り込まれたかのごとく。

 決して自分の目以外でこの美しさを味わうことなんてできないんだろう、とはっきり思った。写真だとしても絵だとしても、文章だとしても。俺の力不足かもしれない。

 こんな美しすぎる空を、写真でも全てを写し撮れないような綺麗な空を、絵にできる人なんて絶対にいない。

 そんな完璧な人に天使のペンを渡したいと思いながらも、天使のペンにただの「完璧」は似合わないとも感じた。

 ああ……めちゃくちゃ綺麗だ。儚すぎる。

 絵で残すのが色彩鑑識じゃねーのか。自分の目に映る色を、世界の彩りを、残していける色彩鑑識でありたい。

 あいにく、紙も筆も持ち合わせていない。天使のペンも俺には使えない。どうして今、天使のペンの使い手がここにいないんだ。

 天使のペンを使ってほしいのに。


 西川塁は、ふと、そう願っていた昔のことを思い出した。

 昔と言っても、小学四年生のころの話だ。まだ十数年しか生きていない俺にとっては、三年前ってのはかなり前だが。


「西川ー、掲示物できた?」

「ペン書きがまだ……。下書きはできたぞ」

「オッケーオッケー。わたしの方は完成したよー!」

 夏野は委員会の掲示物を「ジャーン」と効果音付きで見せてきた。

「……いいんじゃね」

「でしょ!?」

 校庭でバレーボールをする生徒たちと校舎の絵。外遊びを勧めるための絵だ。

 正直、校舎の絵の遠近感は……うん、微妙、かもしれない。

 でも生徒たちの表情が、動きが、生き生きとしている。

 色もポップな感じで、明るめの色が見ていて楽しい。

 もちろん天使のペンではないけれど、絵の天才ってわけじゃないけれど、今にも出てきそうだ。


 三年前の俺……天使のペンの使い手を探そうと、意気込んでいた俺に伝えたい。

 三年後、お前は使い手とようやく出会うぞ。

 楽しい絵を、楽しんで描けるやつだ。って。

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