第13話 カトウ
その日、『花水木』は朝から忙しかった。
芳恵は客からの電話に応対しながら、新人の
事務所からほど近いホテルに向かわせたはずなのに、七海はいつまでたってもたどり着けない。
芳恵が電話で何度も案内しても、七海は同じところをぐるぐる回っている。
(スマホを持ってるんだから地図を開いて自力で行けるはずなのに……)
芳恵の期待は、七海が地図アプリを開けても読めないという現実によって裏切られた。
面接の時から、七海はどこかおかしな女だった。
日常会話は普通にできるが、少し複雑なことを言われると、トンチンカンな答えが返ってくる。
それでも七海を採用したのは、胸が大きく容姿が良かったこと、そしてこれから繁忙期に入るタイミングだったからだ。
この業界は年々厳しくなっている。近隣には格安で女を派遣する大型店もできたため、以前ほど女の質にこだわっていられない現状がある。
芳恵が七海との電話にイライラしていると、別の電話が鳴った。
客専用の電話だ。
「七海ちゃん、このまま電話を切らないで、待ってて——」
芳恵が客の電話に出ようとした瞬間、待機室との襖がさっと開いた。
美神は呼び出し音が鳴る電話をすばやく取ると、鼻にかかった声で話し始めた。
「お電話ありがとうございます。『花水木』でございます——ああら、清水さん、お久しぶり!」
最古参の美神は常に事務所の動きに聞き耳を立てている。
芳恵が忙しいのを察知すると、すぐにヘルプとして駆けつけてくれるのだが、ただ手伝ってくれるだけでは済まない。
ネットの書き込みで「地雷」と叩かれている美神は、常に暇を持て余している。
隙あらば客からの電話に出て、自分を売り込もうとする。フリー客ならまだしも、他の女の指名客まで横取りしようとするからタチが悪い。
どうにか七海をホテルに誘導できた芳恵は、電話を切り、美神に向かって手を差し出した。
「美神さん、ありがとうございます。私が代わります」
ところが美神は受話器を渡そうとせず、背を向けたまま猫撫で声で客と話し続ける。
芳恵は美神の背中を睨みつけた。
「早く切り上げて、誰かに仕事を振ってくださいよ」
客が美神に乗らないということは、他に呼びたい女がいるのだろう。
時間を無駄にされて腹が立つが、顔に出してはいけない。芳恵は深呼吸しつつも、感情の高ぶりで汗が吹き出すのを感じた。
四十半ばを過ぎたあたりから汗をかきやすくなり、それがどんどんひどくなっている。
笑っても怒っても感情が動くと顔がのぼせ、汗が滲むのだ。
エアコンをつけようと腰を上げたところで、電話のキャッチ音が鳴った。
(来たっ!)
芳恵は勢いよく美神をはじき飛ばした。
「なにすんのよ!」
転ばされて目を吊り上げる美神から、芳恵は無言で受話器を奪い取った。
電話の相手に詫びて保留にし、すぐに新たにかかってきた電話に出る。
カンが当たった。雪乃から紹介されたカトウだった。
カトウの声には、かすかに西のアクセントが混じっている。
「カトウ様ですか? お待ちしておりました。雪乃様からお話は伺っております。ホテルはお決まりでしょうか?」
美神が「雪乃さんに様付けはおかしいよ!」と電話の相手に聞こえそうな声で怒鳴る。
芳恵は美神の言葉など耳に入れず、ホテル名と部屋番号をメモすると、受話器を握ったままカトウに頭を下げた。
「沙都子ちゃん! 仕事! 急いで!」
待機室の襖を勢いよく開けると、芳恵の剣幕に押された沙都子がそそくさと支度を始めた。
淡い化粧を施した白い肌に粉をはたき、薄い紅を差す。
沙都子を玄関で見送りながら、芳恵は声を潜めて言った。
「沙都子ちゃん、すっごく大事なお客様だから、しっかりね!」
沙都子は固い表情で「はい」と頭を下げ、外へ出て行った。
芳恵も緊張していた。雪乃から紹介された客に粗相があってはならないと、祈るような気持ちだった。
その日、仕事を終えた新人の七海は、またしても事務所に戻れなかった。
今自分がどこにいるのかわからないと電話で泣き出し、芳恵は呆れるしかなかった。
「ちょっと待っててね、今迎えに行くから」
芳恵は客専用の電話番を美神に任せ、町中を走り回って七海を探し始めた。
七海には次の仕事も決まっている。早く『商品』をお客様の元に届けなければならない。
——七海をホテルに送り届けた芳恵が、汗だくで店に戻ったのは夕刻だった。
事務室には、仕事を終えた女たちの姿はなく、美神が一人でスマホをいじっているだけだった。
「野々花ちゃんと沙都子ちゃんは直帰だってさ」
物憂げな声で美神が言う。
「沙都子ちゃんもですか?」
「一時間の延長が入ったから、店に戻るのが遅くなるって。落としは振り込みでいいんでしょ?」
「……はい」
カトウは沙都子を気に入ったらしく、時間を延長してくれた。
それは沙都子の成績になる喜ばしいことだが、芳恵は沙都子から早くカトウの様子を聞きたかった。
期待と緊張が入り混じり、気が抜けたような心持ちだった。
翌週、カトウから再び電話があった。
沙都子を指名したのだ。それは沙都子にとって初めての指名だった。
新規客からの指名、さらにロングコースという条件で、沙都子の点数は加算される。
月に一本のショート指名しかない美神の成績を、沙都子はこの一本で抜いてしまった。
その後も、カトウは沙都子の出勤のたびに彼女を指名した。
カトウに呼ばれるうちに、沙都子には少しずつ変化が現れた。
いつも部屋の隅で一人で本を読んでいた沙都子が、他の女たちの会話に加わるようになったのだ。
口に手を当て、小さく笑う姿が時折見られるようになった。
(……もしかして)
化粧も少しずつ濃くなり、さみしげだった顔には華やかさが加わっていく。
(やっぱりそうだ!)
芳恵は膝を打ち、心の中で叫んだ。
(あのカトウさんが、沙都子ちゃんが会いたがっていた人なんだ! 雪乃さんは沙都子ちゃんのために探してくれたんだ!)
沙都子は次第に他の客からも指名を取れるようになり、売上が上がっていった。
芳恵は喜びつつも、どこか不思議な気持ちが拭えなかった。
(探していた男と会えたのに、どうして沙都子ちゃんはまだ店にいるんだろう……?)
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