第12話 雪乃
『花水木』のオーナー
雪乃はほっそりとした優しげな顔立ちで、口角を常に上げて柔らかな笑みを浮かべている。
額の中央にあるホクロのせいか、まるで菩薩様のようだと芳恵は感じ、雪乃を心から慕っていた。
芳恵は、家族にはこの仕事のことを話していない。
電話番とはいえ風俗店に関わっていることは、墓場まで持っていく秘密だと思っている。
店の女たちと親しくなっても、内部のことを打ち明けることはできない。
そんな芳恵にとって、仕事上の悩みを話せる相手は雪乃しかいなかった。
月末に雪乃と会うことは、芳恵の楽しみだった。
梅雨入りして肌寒い日が続く六月末。
雪乃は雨の中、いつものように『花水木』にやってきた。
芳恵に向かい、丁寧に頭を下げる。
「今月もお疲れ様でした」
「もう伸ばさないんですか?」
芳恵は雪乃の短く切られた髪に目をやった。
「とってもラクよ」
雪乃は湿気でうねる髪を指に絡ませながら笑う。
「もう元には戻りたくないわ」
店から引退した雪乃は、長かった髪をばっさりと切ってしまった。
芳恵は勿体無いと残念がったが、雪乃は照れたように笑いながらこう言った。
——『十七歳のカルテ』が好きなの。
映画の主演女優と同じ髪型にしようと、前から決めていたらしい。
店のママになった時点で風俗嬢を辞めたのだから、髪を切ろうが染めようが自由なはずだと芳恵は思ったが、そうでもなかったようだ。
長い黒髪は客受けが良いため、雪乃は店の女たちに「髪は伸ばして」「派手な色に染めないように」と注意していた。
『それなのに自分だけ好き勝手するわけにはいかないじゃない』
そう言っていた雪乃は、客につかなくなった後もきちんとネイルをし、化粧をして電話の前に座っていた。
しかし芳恵に代替わりしてからはその必要もなくなり、今では薄化粧にジーパン姿が雪乃の定番になっている。
「芳恵ちゃん、この子、戻しが悪いわね」
雪乃がパソコンの画面を見ながら言う。
画面には沙都子のデータが表示されていた。
(きた、きた)
沙都子は入店して四ヶ月が経つが、いまだ指名数ゼロだった。
ネット指名は来るものの、芳恵は新規客に沙都子をつけるのを止めていた。
「沙都子ちゃんには辞めてもらいます」
芳恵はきっぱりと言った。
辞めてもらうと言っても、本人に直接告げるわけではない。
仕事を与えずに干すのだ。三日も干せば、ほとんどの女は察して自ら辞めていく。
ただし、それは経験者ならの話だが——。
「写真、悪くないのにね」
雪乃は店のホームページを開き、沙都子の写真を眺めた。
「これなんか、松ちゃん、渾身の一枚って感じよ」
松ちゃんとは写真屋の松田のことだ。
松田はパッとしない女には手を抜くが、上玉だと見込んだ女には手間を惜しまない。
「今回は、松田さんの見た目違いでしたね」
「ネット指名は入るんでしょ? だったらこのまま、いてもらいましょうよ」
「雪乃さん、沙都子ちゃんはダメですよ」
芳恵は今井から聞いた沙都子の事情を雪乃に話した。
「私の失敗です。人のことを根掘り葉掘り聞くのが好きじゃないから、面接の時に過去のことを詳しく聞かなかったんです。沙都子ちゃん、三十過ぎてるし、全くの未経験だとは思いませんでした」
「面白い子じゃない。干さなくていいわよ」
雪乃は画面から目を離さず、事も無げに言った。
「本当にこの仕事がイヤだったら、自分から辞めるわよ。三ヶ月もいるんだから、まんざらでもないってことでしょ?」
「沙都子ちゃん、好きになった人を探してるんですよ……他のお客様につけるの、なんか気がひけちゃいます……」
雪乃は口に手を当てて、クスクスと笑い出した。
「ヤダ芳恵ちゃん、そんな話、本気にしてるの?」
芳恵は驚き、眉を寄せた。
「……今井さんが嘘ついてるって、ことですか?」
「さあ、どうかしら」
雪乃はおっとりと笑う。
「沙都子ちゃんが、今井さんに適当なことを言ったんですね!」
雪乃は答えず、パソコンを閉じるとにこりと笑った。
「お仕事はここまで。何か美味しいものでも食べに行きましょう」
翌日の朝、雪乃から電話があった。
「カトウ様というご新規のお客様がいらっしゃるから、沙都子ちゃんにつけてちょうだい」
承知しました、と芳恵は答え、電話を切った。
前の晩、雪乃と飲み歩いたせいで二日酔い気味だった。
頭がぼんやりする中で、沙都子をどう扱うべきかが気にかかる。
芳恵は深く息をつき、店の準備に取り掛かった。
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