第10話 気配りの男
どこかホッとしながら芳恵は仕事に戻った。
客からの電話を受けて、女達をホテルに派遣する。
『花水木』は店を構えて十年以上になる老舗だ。
客たちも長年利用してくれる常連が多く、無理難題を言ってこない良客が多い。
それでも時折、女の好みを細かく注文してくる客がいる。芳恵は受話器を握りながらうんざりした。
——胸が大きくて、淫らな女。
要するに、望みはそんなとこだろうに。
うるさい客には、野々花、いずみ、香奈など指名数の多い女に任せておけば間違いはなかった。
たとえ容姿が客の注文と違っていても、まず苦情はこない。
電話番時代から、芳恵の指名の取れる女達への信頼は絶大だった。
特に頼りにしているのは野々花だ。
芳恵は客たちから、野々花への賛辞を様々に聞かされた。
『控えめで聞き上手』
『話題が豊富で頭の回転が早い』
『気さくで、ひょうきん』
『育ちのよさそうな上品な奥様』
一人の女性に対する誉め言葉とは思えないほどバラバラで、まるで違う人間のことを言われているようだった。
不思議に思う芳恵に先代の雪乃は笑って教えてくれた。
『野々花ちゃんは、お客様によって自分を変えてるのよ』
若いうちは、ただ服を脱いで足を広げれば金になる。
だが、三十過ぎても同じ金額を稼ぐには工夫が必要だ。
野々花は、男たちが何を求めて風俗遊びをするのか、どんな女に会いたがっているのかを瞬時に見抜き、相手に応じて自分を演じているのだという。
それを聞き、芳恵は心底関心した。
どんな世界にもプロはいるものだ。
野々花を知って、この仕事を侮ってはいけないと考えを改めた。
(沙都子ちゃんは、風俗に向いていないだけなのかもしれない)
芳恵は遅い昼食を広げながら思った。
だからといって不幸なわけではない。
むしろ他に金を稼ぐ道を探した方が、沙都子のためになるだろう。
夕刻になり長谷川についていた
長谷川から差し入れのケーキ持参だ。
女達がケーキを選んだり、皿だフォークだとはしゃぎ始める。
その中で、美神がこっそり芳恵に手招きしてきた。
「なんです?」
美神は顔をしかめて首を振った。黙れと、口の前に指を一本立てる。
仕方がない。
芳恵は美神の手招きに応じて、狭い納戸へと入った。
納戸には女達の私物が詰まった棚や、上着やコスプレ用の衣装がかかったハンガーラックが置かれている。
女二人が狭い納戸に入ると、自然と身を寄せる格好となった。
美神は芳恵にそっと白い封筒を寄越して、重大な秘密を告げるように低くささやいた。
「長谷川さんから。芳恵ちゃんに渡してくれって」
芳恵は、ハッとなった。
これには沙都子のことが書かれているのではないか。
なぜ長谷川が芳恵の勧めを断ってまで沙都子を呼ばなかったのか、この封筒の中に答えがあるのかもしれない……。
芳恵は封筒に手を伸ばした。
ところが美神はサッと封筒を引っ込めた。
(なんだ⁉)
イラッとした。
顔を上げると、厚化粧でも隠せない目元や口元の深いシワが、イヤでも目に入ってくる。
安っぽい香水のきつい匂いも鼻につく。
芳恵は嫌悪が顔に出ないように気をつけながら、視線を逸らした。
締め切った納戸は暑苦しく、首筋に汗が浮かんでくるのがわかる。
美神は封筒をヒラヒラさせた。
「これ、なんなの?」
美神の声は小さいが、非難するような口調だ。
「なんでもありません」
芳恵は封筒を受け取ろうと再び手を伸ばしたが、美神はそれもかわし、封筒を頭上に掲げた。
「教えてよ。なんなのよ」
四十五を過ぎたあたりから、芳恵は汗をかきやすくなっていた。
手の甲にも汗が滲む。その手を伸ばして、芳恵は美神から封筒を引ったくろうとした。
美神は取られまいと、今度は封筒を後ろ手に隠す。
「読ませてよ。私の事が書いてあるんでしょ?」
「誰がおまえのことなんか、気にすんだよ‼」
芳恵はつい、大声を出してしまった。
美神が呆気にとられたように芳恵を見つめている。
芳恵は落ち着こうと、深呼吸した。
「渡して下さい」
「中身、教えてよ」
「知りません。雪乃さん宛です」
雪乃の名を聞いた途端、美神はしぶしぶ封筒を芳恵に渡した。
封筒を受け取った芳恵はすぐにエプロンの前ポケットに入れ、ポケットを両手で抑えながら納戸を出ようとする。
ところが美神は芳恵の前に立ちはだかり、通せんぼをしてきた。
(まだ、なんかあるのか!)
芳恵はまたイライラしてきた。
「ねえ、長谷川さんってさあ、雪乃ママが働いてたソープに通ってた時って、まだ三十代で、独身だったんだよ」
美神がひそひそ話を始めた。
「ってことはさ、今の奥さんと結婚する前からの馴染みってことよね」
そんなことは、どうでもいい。
芳恵は早くここから出て、封筒の中身を見たかった。
「こういうのって、奥さんが知ったらショックだよね。結婚しても長谷川さんは、ずうっと雪乃ママと付き合ってんだからさ」
「おまえには関係ないだろ! とっとと、どけよ‼︎」
ついまた、大きな声を出してしまった。
美神はピタッと黙り、道をあける。
芳恵は前ポケットをおさえたまま、足早に納戸を出た。
待機室では女達がお通夜のように静かにケーキを突っついている。
ポカンとした顔でこっちを見ていた結衣は、芳恵と目が合うと慌てて目を逸らし、ガツガツとケーキを食べ始める。
芳恵は構わず、部屋を大股で通り抜けて事務室に入った。
冷房を強めにして畳に座る。
ティッシュで首筋の汗を拭きながら、周囲を見回す。
伺っている者がいないとわかると、背中を丸めて隠すようにしながら、封筒を前ポケットから取り出した。
——なぜ沙都子に指名が来ないのか、いよいよその謎が解ける時がきたのだ。
芳恵は慎重に封をちぎった。
少しちぎったところで、手をとめる。
内容によっては雪乃にも見てもらわなければならない。
芳恵は引き出しからハサミを取り出した。
きれいに封を切る。
そっと中を取り出す。
……商品券が五枚入っていた。
入っていたのは、それだけ。
どっと疲れがやってくる。
芳恵は肩を落とした。
『お勧めに従わず、すみません』の意味なのか。
なるほど。
長谷川が気遣いの細やかな男だということだけはわかった。
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