第5話 裏引き

 芳恵よしえの朝は早い。

 六時前には起き、家の玄関周りやトイレの掃除を済ませる。

 それが終わると、朝食の支度をしながら、自分と高校生の次女の二人分の弁当を作る。


 北浦和から徒歩十分の場所に中古の家を買ったのは今から三年前。

 大学を出て堅いところに就職した長女の彩花あやかが、入社二年目でローンを組んでくれたおかげだ。

 家の名義は彩花だが、月々のローンを払っているのは芳恵だった。


 七時過ぎ、彩花が起きてきた。

 彩花の顔は、驚くほど父親に似ている。


(女形になりそうな優男)


 芳恵の母親は、義理の息子である裕之ひろゆきをそう評した。

 酒もタバコもやらず、賭け事もしない大人しい男だった。

 子どもを叱ることもなければ、自ら進んで相手をしてやることもなかった。


 裕之はリーマンショック後に勤めていた会社をリストラされた。

 その後、再就職がうまくいかず、「家族を養う自信がなくなった。離婚したい」と言い出した。

 一緒に頑張ろうと芳恵がいくら励ましても、その甲斐なく裕之は実家に帰っていった。

 裕之は今も親の年金を頼りに、なかば引きこもりのように過ごしているらしい。


 ——離婚して十年以上が経つ。

 芳恵と子どもたちの間で、裕之の話題が出ることもなくなった。


 近所迷惑にならないように、芳恵が洗濯機を回すのは七時過ぎ。

 彩花の朝食を用意してから、高校生の次女を起こしに二階に上がる。


 高校生の美穂みほを起こすのは毎朝骨が折れた。

 美穂は子どもの頃から朝が弱く、放っておくといつまでも寝ている子だった。

 美穂を起こしながら、隣の部屋の主も気になる。


 隣の部屋は大学生の長男、浩平こうへいの部屋だ。

 芳恵は何日も浩平と顔を合わせていない。

 バイトを終えた浩平が帰るのはいつも深夜だ。

 気にはなるが、早寝の芳恵は起きて待っていることができない。

 浩平がいつ起きて、いつ大学に行っているのか——芳恵は把握できずにいた。


 急いで洗濯物を干して、八時には家を出る。

 早足で駅に向かいながら、芳恵は「今の家に引っ越せてよかった」としみじみ思った。


 以前住んでいた2DKのアパートは、芳恵と子ども三人が住むには窮屈すぎた。

 自分の家を持ち、子どもたちそれぞれに部屋を与えるのは芳恵の長年の夢だった。

 電話番とはいえ、風俗店に勤めていることは子どもたちには言えない。

 だからこそ、身を引き締めて懸命に働こうと決めていた。


 京浜東北線の田端駅で山手線に乗り換え、O駅に着くのが九時。

花水木はなみずき』の開店は十時だが、女たちが来る前に事務所の掃除を済ませておきたい。

 開店前に電話をかけてくる客も逃したくない。

 芳恵は電車を降りると、小走りで事務所に向かった。


 事務所が入っているマンションに入り、エレベーターを待っていると、後ろから声をかけられた。


「おはようございます」


 同業者のマナブだった。

 マナブはパーカーにジーンズ姿で、愛想よく笑っている。


「よかったらどうぞ」


 マナブは手にしたコンビニの袋から菓子パンを取り出し、芳恵に差し出した。

 背丈は芳恵と変わらない百六十センチほどだが、肩幅が広くがっしりとした体型だ。


 マナブの店『クラブ アクア』の事務所も『花水木』と同じマンションにある。

 風俗店に部屋を貸してくれる物件は限られているため、自然と同じマンションに同業者が集まっていた。


「うち、今日の出勤二人しかいないんですよ。またお世話になるかもしれません」


 マナブは困った顔をしながら言った。

 四十は過ぎているようだが、丸顔に大きな目が印象的で、どこか童顔だ。


「二人ですか。またずいぶんとお休みが多いんですね」


 女は商品だ。

 店に置いておく品物がなければ、開店休業も同然だ。


「裏引きしてた子がいて、その子に辞めてもらったら、仲良かった子も一緒に辞めちゃったんです……」


 マナブの話を聞いた瞬間、芳恵はハッとした。


(そうか! そういうことか!)


 沙都子さとこに全く指名がこないのは、そのせいだったのか——。

 芳恵は合点がいったと同時に、一気に頭に血が上った。

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