第3話 風俗嬢に惚れた写真屋

 芳恵よしえが『花水木はなみずき』に面接に来たのは十年前、三十八歳のときだった。

 もちろん最初は、風俗嬢として面接に臨んだ。


 当時の芳恵は、北関東から出てきたばかりの野暮ったい小太りな女だった。

 今の芳恵の年齢だったら採用は難しかっただろう。

 だが三十八歳なら、客には三十歳と偽って売り出すことができる。四十代や五十代が主力のこの店では、芳恵は「若い嬢」として通った。

 多少容姿に難があったとしても、戦力になるだろうと、当時の『花水木』のママ・雪乃ゆきのは判断したのだ。


 ところが、ネットに上げるための写真撮影が始まると、カメラマンの松田は芳恵の下着姿を見るなり渋い顔をした。


「そのお腹のキズ、雪乃ママは知ってるの?」


 松田は芳恵のキャミソールから透けて見えるキズ跡を指し、冷たく言い放った。


 松田は雪乃が吉原のソープに勤めていた頃の客で、雪乃に惚れていた。

 もう客は取らないと袖にされても、松田は雪乃から離れなかった。

「雪乃の役に立ちたい」という一心で、素人カメラマンだった松田は駅前にスタジオを構え、雪乃の店の女たちに破格の値段で写真を撮ってくれるようになった。


 他の店の女であれば、タトゥーがあろうと大きな傷跡があろうと、松田が指摘することはなかった。

 だが、雪乃が運営する『花水木』の女に関しては別だった。

 松田は、自分も店の経営に関わっているかのような気分でいた。

 雪乃の店に勤める嬢が写真撮影に来るたびに、松田は仔細に女を検分し、その内容を逐一雪乃に報告した。


「挨拶がなっていない」

「靴を揃えない」

「香水がきつい」

「下着が安っぽい」

「ムダ毛の処理が雑だ」


 ——当然、芳恵のお腹のキズ跡も松田によって雪乃に知られることとなった。


 芳恵は帝王切開で三人の子どもを産んでいた。

 だが、事情があって風俗店に勤める決心をしたときも、世間知らずな芳恵には「体に傷のある女は客前に出られない」という発想はなかった。


 松田からの報告を受けた雪乃は、芳恵を事務室に呼び、他の女たちに聞かれないよう小声で謝罪した。


「本当に、ごめんなさいね」


 雪乃は心苦しそうな顔をしながら、芳恵を雇うことはできないと告げた。


「私の知り合いのママに頼んであげようか? ここよりは、だいぶ安いお店になってしまうけど……」


 芳恵はうなだれた。

 体が小刻みに震えてくる。自分の無知が恥ずかしかった。

 お金の問題も頭をよぎる。


(お母さん、いい仕事見つけたから大丈夫だよ。心配しないで)


 そう子どもたちを安心させたばかりだった。

 黒く重たい何かに頭を押さえつけられるような感覚で、芳恵は顔を上げることができなかった。


「電話番として、働いてみる?」


 突然、雪乃の声が降ってきた。


 顔を上げると、源氏名通りの白く細い、柔和な顔が笑っている。

 額の中央にあるホクロが、どこか神々しく見えた。


 芳恵は深く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 そう言おうとしたが、喉の奥が詰まり、言葉にならなかった。


 ——それから十年。

 今では「芳恵ママ」と呼ばれて店を仕切るようになったが、いまだに新人の初撮影には緊張する。


 芳恵にとっては苦い思い出のある口やかましい松田だが、沙都子に関しては何も言ってこなかった。

 あの松田の目から見ても、沙都子には非の打ち所がなかったのだ。


 芳恵は気がかりがなくなり、安堵した。


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