第23話 えくれあ

 雨が激しく降り、窓に滝のような雫が流れていくある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』では夕雨が奏でるオルガンの音色を音川奏と樫山晴太の二人が穏やかな表情で聞いていた。


「ふふっ……本当に夕雨さんの演奏は素晴らしいわね。この演奏自体がお店のBGMとして機能しているし、観客の心を震わせたり穏やかにしたりしてくれる。本当ならオルガンの奏者として色々な人に紹介したいくらい」

「わかります。そして出してもらえる美味しいお菓子や飲み物の数々も素晴らしいですし、ここに導かれて本当に良かったと思います」

「そう言って頂けて嬉しいです。そういえば、先程お話をして頂きましたが、樫山さんは奥様と離婚なさった後、何か生活は変わりましたか?」

「……はい。ここに初めて来た日の帰りに妻と娘の二人に自分の気持ちを話したんですが、やっぱりわかってはもらえなくて……なので、すっぱり縁を切りました。向こうも僕との生活には飽き飽きしていたようで他に相手がいる事を明らかにしながら晴れ晴れとした顔で離婚届に判を押してきました。お互いに連絡先を消した後、その相手の家に揃って引っ越していきましたよ」

「まあそんな相手とは縁を切って正解だな。どんなに不幸になってもここには導かれなさそうだし、今後もあんたとは会わなそうだな」

「それで良いしそれが良いよ。それに、共通の友達も彼女達の最近の素行は目に余ると言っていたし、向こうが望んでも何も教えないと約束してくれた。だから、心から安心してるよ」


 晴太が微笑みながら言っていると、夕雨の演奏は余韻を残しながら終わりを告げ、椅子から立ち上がった夕雨には惜しみ無い拍手が送られた。


「素晴らしい演奏でしたよ、夕雨さん」

「ありがとうございます。最近弾く機会を増やしたからか指の動きも滑らかになってきましたし、調律の甲斐もあって音の響き方なんかも良い感じです」

「夕雨さんが演奏する姿は本当に綺麗ですよね。見ているこちらも何か楽器の演奏をしてみようかと思ってしまう程です」

「良いんじゃない? 一緒に鍵盤楽器を演奏したいけど、置き場所の問題も出てきちゃうし、個人的には笛がオススメかな」

「笛……そういえば、笛って横笛と縦笛があるけど、構え方以外にも何か違いってあるのか?」


 雨仁の疑問に対して雨月は微笑みながら答える。


「吹き口の位置など色々な違いがあるようですよ。縦笛は吹き口が楽器の最端にあり、横笛は楽器の端よりにあります。そして構造上、縦笛は低音を得意としていて横笛は高音を得意としているようですよ」

「そういう違いもあるんですね」

「それに補足すると、横笛って結構吹くのにコツが必要ですけど、日本古来から吹かれてる笛って横笛が多いんですよね」

「篠笛や龍笛、神楽笛などがそうですね。他にも能笛やみさと笛、中国が明と呼ばれていた時代に伝わった明笛や朝鮮半島から伝わって狛笛とも呼ばれた高麗笛、そして田楽笛など様々です。西洋などで言えばフルートもありますね」

「もちろん笛じゃなくても良いよ。色々な楽器を知って、自分に合ってそうな選んでみて。相談なら幾らでも乗るからね」

「はい、ありがとうございます。私も夕雨さんと一緒に演奏をしてみたいですし、知識も深めたいですから色々な楽器を学んでみます」


 雨花の言葉に全員が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、一人の女性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「あ、はい……」


 女性は傘を傘立てに置いてカウンター席に座ろうとしたが、夕雨が演奏していたオルガンを見つけると、そのまま近づいた。


「オルガン……表面や鍵盤もしっかりと磨かれているし、ホコリなんかも一切付いてない。音も……」


 女性が鍵盤を叩くと澄んだ音が鳴り、その音に女性は目を閉じながら穏やかな表情を浮かべた。


「良い音……調律もしっかりとされている証拠。ここまでしっかりと手入れされているオルガンに出会えるなんて思わなかったなぁ」


 女性は嬉しそうに呟いていたが、途端にハッとすると夕雨達に対して慌てて頭を下げた。


「す、すみません……! 楽器を見るとつい反応してしまって……!」

「大丈夫ですよ。もしかして音楽家の方ですか?」

「いえ、奏でる方じゃなく作る方です。私は相楽さがら桜良さくら、今度この辺りで楽器の工房を始める予定で、どんな街なのかを見に来たんです」

「楽器を作る方……ピアニストの私やオルガンを弾く夕雨さんからすれば何度もお世話になりそうね。雨花さんもこれからはそうなるかもしれないし」

「そうですね。さて、ここに来られたという事は相楽さんは何かお悩みを抱えているという事ですよね?」

「悩み……ですか?」


 桜良が不思議そうにしていると、晴太は笑みを浮かべながら答えた。


「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人が雨によって導かれてくるカフェみたいなんです。僕や音川さんもそうだったんですよ」

「そうだったんですね……たしかにここに来るまでは辛くなっていたので合っているかもしれません」


 桜良は哀しそうに俯いた後、カウンター席に座った。


「今もお話したように私は今度工房を開く予定で、それは問題ないんです。ただ、両親からはとても反対されていて、それが本当に辛いんです」

「何故ご両親は反対されているのですか?」

「両親はそもそもそんな音楽というものが好きじゃなくて、それよりは勉強して医学を志したり出馬して議員になれと言う方なんです。それ以外の生き方は甘えとすら言い放つくらいで、そのせいか私と友達になってくれる人は全然いませんでした」

「……ほんと勝手な事を言う奴っていうのはどこにでもいるんだな。それならそんな親なんてもう見限ってしまえば良いのに」

「そう出来れば良いんだけど……いくら私が内緒で引っ越したり家庭の事を知らない友達を作ったりしても探偵なんかを雇ってすぐに居所を突き止めたりその友達に対して圧をかけて離れさせたりして、それが嫌なら自分達の言う事を聞けと言い続けるの」

「まあここはそういう人には絶対に嗅ぎ付ける事が出来ないところなので問題はないですけど、それはたしかに困りましたね」


 桜良は暗い表情で頷き、メニューをパラパラと捲った。そしてある名前を見つけると、その表情は少しだけ明るくなった。


「えくれあ……」

「はい、お好きなのですか?」

「はい。スーパーで売っているような物しか食べた事はないんですが、テストで良い点を獲ったご褒美として自分で買って食べていたのがとても印象に残っているんです。あとは……ほっとこーひーをお願いします」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そしてその作業風景を桜良が目を輝かせながら見ていると、その姿を晴太はボーッと見ていた。


「……なんというか、本当に純粋な人なんだろうなぁ」

「私も良い人だと思いますよ。年齢も近そうですし、樫山さんがアプローチをかけてみたらどうかしら?」

「……え?」

「あ、たしかに。樫山さんはちょうど離婚なされたばかりですし、誰かに気兼ねする必要もありませんからね」

「問題は相手の親だろうけどな。まあ無理強いはしないけど、気になるなら色々話してみても良いと思うぞ」

「う、うん……」


 晴太が照れながら答える中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして十数分後、桜良の目の前には小さなエクレアが二つ乗せられた皿とコーヒーが注がれたカップが置かれた。


「えくれあ、そしてほっとこーひー。お待たせ致しました」

「美味しそう……エクレアをコーティングしているチョコもツヤツヤとしていて照明を反射して輝いているし、形自体も本当に綺麗……」

「まず見た目は気に入ってもらえたみたいですね。それではごゆっくりどうぞ」

「はい。それじゃあ……いただきます」


 桜良は手を合わせながら言うと、エクレアを一つ手に取り、そのまま口に運んだ。


「……はあ、美味しい……」

「因みに、今回は中のクリームはカスタードクリームとミルククリームにしましたけど、チョコクリームやマロンクリームなんかに変える事も出来ますよ」

「そうなんですね……チョコも甘さと苦さのバランスがしっかりとしていますし、生地も本当にふわふわしていて中のクリームも滑らかで美味しい。こんなに美味しいエクレアが食べられるなんて思わなかったです」

「味も食感もしっかりと研究していますから。さて、相楽さんのお悩みですが……まずご両親の説得は難しいと考えても良いと思います」

「……ですよね」


 桜良が哀しそうに俯く中、雨月は静かに頷いた。


「はい。お話を聞く限りでは他者からの意見を取り入れる気がないように思えますし、相楽さんが楽器製作の面で功績をあげたとしてもそれを認めないか自分達の良いように扱おうとするように感じます。悲しいですが、そういった方は現代には少なくないです」

「だけど、私達は貴女に負けてほしくない。貴女みたいに素敵な人には悔いのない人生を送ってほしいですから」

「同感だな。とりあえずまた何かあったらここに来れば良い」

「そうですね。私達もお話を聞きますし、ここなら色々な方がいらっしゃるので良い意見を貰えるかと思います」

「皆さん……」


 桜良は驚いた様子で夕雨達を見回した後、嬉しそうに笑いながら頷いた。


「はい、そうさせてもらいます。私だってこのまま辛さを抱えたままではいけないと思っていますし、両親の良いなりになんてなりたくないですから」

「そうですね。ご商売を始めた際は私や夕雨さんもお邪魔しますね」

「僕も楽器の事はあまりよくわからないですけどお邪魔させてもらいます。せっかくここで出会えたからにはその縁を簡単には手放したくないですし」

「はい、お待ちしていますね」


 桜良は心から幸せそうな笑みを浮かべた。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』では夕雨や雨花が桜良と楽器や音楽についての話に花を咲かせ、雨月や雨仁はその話を静かに聞いていた。

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