第22話 はにーとーすと

 強い雨が降り注ぎ、あらゆる物が濡れていくある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』では雨仁がステンドグラスの向こうで降る雨を静かに眺めていた。


「今日の雨は結構強いな。まあ風はそんなに強くないようだから、嵐って程じゃないけど」

「嵐になるとお客様に来て頂くどころではないですからね」

「そうですね。ですが、それでもお客様に来て頂けたなら本当にありがたいですし、全力でおもてなしをさせてもらいます。それが私達の成すべき事ですから」

「ですね。そういえば、嵐の前の静けさっていう言葉がありますけど、実際嵐の前って結構静かなんですかね?」


 夕雨の問いかけに対して雨月は笑みを浮かべながら答える。


「はい。嵐の前の静けさという言葉は台風の気象状況が由来であると言われています。台風が陸地に接近すると、その進行方向に副低気圧という物が発生し、暴風雨が一時的におさまって静かになったように感じる。そしてその後に激しい雨風に急変するといった状態から嵐の前の静けさという言葉が生まれたようですよ」

「そうなんですね。因みに、その副低気圧というのはどういった物なんですか?」

「低気圧その物や台風が通過する際に地形の影響で二次的に生じる低気圧の事です。そして低気圧というのは大気中で周囲に比べて相対的に気圧の低い部分を指す言葉で、気圧の差によって中心から周りに向けて風が吹き出す高気圧に対して低気圧は風が中心に向けて吹き込むのでその風の影響で上昇気流が発生します。そのため、雲が発生しやすくなり、曇りや雨になりやすいのだそうです」

「なるほど……」

「低気圧の際にめまいや片頭痛を起こすという方も少なくないですが、この不調は耳の中にある内耳という物が気圧の変化を感じ取る事で起きている物のようで、その際は耳を揉んだり引っ張ったりするなどして耳を解す事で改善されるそうですよ」

「それで困ってる人はいっぱいいますもんね。私達は特にそういう状態にはなりませんけど、体調が悪くならないわけではないですから季節の変わり目には気を付けながら毎日を過ごさないといけませんね」


 夕雨の言葉に三人が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、黒い傘を持ったスーツ姿の男性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「あ、はい……っと、いてて……」

「頭を押さえているという事は……もしかして頭痛ですか?」

「はい……昔から雨の日は頭痛に悩まされてて、もう慣れっこではあるんですが、やはりこの痛みというのが少し辛くて……」


 男性は傘を傘立てに置くと、軽く耳を引っ張った。そして多少落ち着いた様子で息をつくと、カウンター席の一つに座った。


「はあ……これでどうにかなったな」

「やっぱり耳をマッサージすると痛みが和らぐんですね。ちょうど今その話をしていたところだったんです」

「ああ、そうだったんですね。まあこの低気圧よりも辛い事があったのでこの程度の痛みは自分的には大した事はないですが……」

「辛い事、ですか?」


 男性は表情を暗くしながら頷く。


「……私は台場だいば風斗ふうとというのですが、ここ最近ある理由があって交際していた女性から別れを告げられたんです」

「理由……」

「私は昔からあまり心を震わされるという感覚を味わった事がなくて、他の人が絶景や美術品を見て感動していても私は別に感動しないんです。なので、デートで展覧会などに行って感想を言い合っても彼女と私の間には温度差が出来てしまって、そんな冷たい人だと思わなかったと言われてつい先日別れを告げられました」

「無感動か……雨月さん、そういうのって珍しくないのか?」

「ないわけではないです。そしてそれは何らかの疾患が原因となっているのですが、後天的であればストレス性の精神的な疾患等が原因ですし、先天的であれば失感情症という物が関連している可能性があります。もっとも、私はお医者さんではないので断言は出来ませんが」


 雨月の言葉を聞いた後、風斗は表情を暗くしたままでメニューをパラパラ捲った。そしてある名前を目にした瞬間、その目は懐かしそうな物に変わった。


「はにーとーすと……」

「はい。そちらになさいますか?」

「……そうですね。あと、こうちゃをお願いします」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そしてその様子に風斗はほうと声を漏らした。


「これはスゴい……こんなに速く動ける人がいるんだな」

「この二人に関してはまた特別だけどな。ところで、どうしてはにーとーすとにしたんだ?」

「何か思い入れでもあるのですか?」

「……昔から好きなんだ、ハニートーストが。亡くなった母との思い出の味でもあるから……」


 風斗が哀しげな笑みを浮かべる中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして数分後、風斗の目の前には二枚のハニートーストが載せられた皿と紅茶が注がれたカップが置かれた。


「はにーとーすと、そしてこうちゃ。お待たせいたしました」

「良い香りだ……表面も程よくしっとりとしているし、とても食欲をそそる色もしているな……」

「まずは喜んでもらえたみたいですね。では、ごゆっくりどうぞ」

「はい。それでは、いただきます」


 手を合わせながら言うと、風斗は添えられたフォークを手に取り、ハニートーストを一口サイズに切り取ってそのまま口に運んだ。


「……美味しい。しっかりとはちみつの味もするけれどベタッと甘いわけじゃないから食べていて嫌な感じはしないし、どこか安心するような優しい味がする……」

「ふふ、そうですよね。さて、台場さんのお悩みですが、まずはその無感動の原因を探るのが良いと思います」

「……そうですね。昔から自分はそういうものなんだと思ってそのままにしてきましたし、周りには気付かれないように気を付けてきましたがそろそろそれも難しくなってきましたから」

「はい。ただ、私から見た感想に過ぎませんが、台場さんはしっかりと感動が出来る方だと思いますよ」

「え?」


 風斗が驚く中、雨月は笑みを浮かべる。


「感動とは何かを見た時にそれに対して心を動かされる事を言う事が多いです。ですが、先程の台場さんのように美味しいと感じてそれが思わず口に出る事も感動の一つだと私は思います。そうでなければ感想すら言葉として出てきませんから」

「それだけでも感動……」

「お付き合いされていた方はより多くの言葉を用いて感想を言い合いたかったのだと思いますが、言葉を尽くして話す事だけが全てではありません。物足りなく感じられてもたった一言の言葉だけでもしっかりとした感想ですし、それが心を動かされた証になります」

「何も言われないよりは何か一つでも言われた方が良いですしね。たとえそれが良い事でも悪い事でも」

「はい。なので、もし今後何かを感じた際にはまずはそれを口にし、感じなかった場合はお相手の言葉を聞いて自分の意見を言ってみるのも良いと思いますよ」


 雨月が笑みを浮かべながら言うと、風斗は軽く俯いた。そして程なくして上げられた顔はどこか晴れやかな物だった。


「そうですね。口に出した言葉すべてが良い方に行くわけではないですが、これまでは軽く相槌を打つくらいだったのでそうするだけでも何か変わるかもしれません。皆さん、ありがとうございます」

「どういたしまして」

「あ、せっかくなのでオルガンの演奏を聞いてもらいましょうか。プロには劣りますが、色々な人に感想を貰いたいですから」

「そうですね。台場さん、お願い出来ますか?」

「はい、もちろんです」


 風斗が頷きながら答えた後、夕雨は軽く後片付けをしてからオルガンに向かった。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』の店内には夕雨が奏でるオルガンの音色が響き、雨月達と共に風斗が穏やかな表情でそれを静かに聞いていた。

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