第18話 たるとたたん

 強い雨が降り続け、肌寒い風も相まって身体が芯から冷えるある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内ではカウンター席に座った我那覇がなは湊音みなとがのんびりとした顔でさんぴん茶を啜っていた。


「あちりーん……やっぱりさんぴん茶を飲むと心も身体もホッとするなぁ……」

「沖縄の冬は寒くとも15℃を下回らないと聞きますからね。こちらの冬は中々厳しいですよね?」

「はい……冬になった瞬間にもう凍えるかと思いましたよ。だから、歳末から新年にかけて帰省した時は帰ってきたんだと思って涙が出そうになりましたよ」

「夏頃はホームシックにかかってましたしね。そういえば、お父さんとはそれからどうなりました?」

「面と向かってちゃんと話しました。親父が言うには春にはもう戻ってくると思っていたから冬まで続いた事は驚きだったし、そこまで頑張れるなら自分も応援すると言ってくれましたし、ここの話を肴に酒も一緒に飲みました」

「大人はどこかの話でも酒の肴に出来るんだな……」

「それはその人によると思いますが……」


 雨花が苦笑いを浮かべる中、雨月はクスクス笑った。


「やはりこのかふぇの事を聞いてお父様達は驚かれたでしょうね」

「はい。冬瓜とうが漬けとさんぴん茶を出してもらえたと話したら本当に驚いていましたし、いつか俺が世話になったお礼を言いたいから来てみたいとも言っていました。その時は紹介しますね」

「はい、楽しみにしてますね。その時は沖縄の色々な料理についても教えてもらおうかな」

「沖縄の料理……イメージはゴーヤチャンプルーくらいしかないけど、そもそもゴーヤってどんな野菜なんだ?」


 雨仁の疑問に対して雨月は微笑みながら答える。


「ゴーヤは苦瓜という名前の野菜で、別名は蔓茘枝つるれいしといいます。因みに、沖縄ではゴーヤーと呼ばれますが、これは沖縄の言葉であるうちなーぐちには音引きという物があるからのようです」

「音引き?」

「ゴーヤをゴーヤーと呼ぶように語尾を伸ばす事です。この音引き一つでうちなーぐちは少し変わり、物や人を表す普通名詞は語尾を伸ばす事が多いようです」

「例えば、ちゅらかーぎと言えば美貌になって、ちゅらかーぎーと言えば美人になります。後、シークヮーサーもその音引きがあって語尾が伸びている感じですね」

「シークヮーサーもそうだったのか……」

「ふふ、他所の地方の事を知っていくと驚く事が多いですよね。因みに、ゴーヤーというのは沖縄本島の方言で、ゴーヤは八重山地方の方言のようでして、八重山地方は石垣島や西表島いりおもてじまなどが有名ですね。そしてゴーヤにはカリウムや葉酸、ビタミンCなどが含まれており、あの苦味の元はモモルデシンというビタミンCが豊富な成分なのですが、熱を加えすぎるとビタミンCが壊れてしまうのでゴーヤチャンプルーなどにする際は手早い作業が要求されるようです」

「料理って結構そういうところがありますからね。でも、それを含めて楽しいものだし、雨仁君と雨花ちゃんにもその楽しさがわかるようにこれからも丁寧に教えてあげるね」


 夕雨の言葉に雨仁と雨花が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、黒の三つ編みの女性が水色の傘を持って中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「あ、はい……こんなお洒落な雰囲気のカフェに入った事無いから、ちょっと緊張するな……」

「自分の家に帰ってきたのと同じくらいゆっくりしてもらって大丈夫ですよ」

「は、はい……」


 女性は緊張した様子で答えた後、傘を傘立てに置き、湊音の隣の席に座った。


「お隣失礼しますね」

「あ、はい……ん? なんだかフルーティーな香りがするような……」

「ああ、たぶんリンゴの香りだと思います。出てくる前、故郷の青森から送られてきたリンゴを切ったりしてきたので」

「なるほど、青森のご出身なのですね。山形もリンゴが有名だと聞くので、そちらの可能性もあるかなと思っていました」

「東北地方ってリンゴの栽培に適してるらしいですしね。良いなぁ……産地まで行って採れて間もないリンゴを使って料理するの」


 夕雨がうっとりとしながら言う中、女性は哀しそうな笑みを浮かべながら俯き、その姿を見た湊音は声をかけた。


「もしかして、何か本当に辛い事でもありましたか?」

「え?」

「だいぶ哀しそうな顔をしてましたし、ここに来られたって事は何かあった事になるみたいですし」

「あの……それってどういう……」

「いきなり言われても信じられないかもしれませんけど、ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人達が雨によって導かれてくるカフェなんです。だから、遠慮なく話してもらって大丈夫ですよ」


 女性は驚いた様子だったが、やがて安心したように息をつくと、ポツリポツリと話し始めた。


「……私、津軽つがる千雪ちゆきというのですが、実は故郷に許嫁がいるんです。いえ、正確にはいるみたいなんです」

「いるみたいというと……」

「大学進学を機にこちらに出てきたんですが、つい先日、父さん達から許嫁がいるから一度会うために帰ってこいと言われたんです。そんなの寝耳に水でしたし、相手がどんな人か気になるから聞いてみたら、実家が同じくリンゴ農家を営んでいる小学生の時の同級生で、当時から乱暴者として有名だった上に一度リンゴ病にかかった際に休み明けに私を指差しながらリンゴの食べ過ぎでリンゴ病になったリンゴ女だと言ってバカにしてきた人なので許嫁だと言われても本当に嫌で……」

「うわぁ……たしかにそれは嫌ですね」

「はい……そして何よりもタチが悪いのは父さん達の前では誠実そうな顔を見せて、本当は女癖が悪い上に実家を継ぐつもりもなくてガラの悪い人達との関係がある事なんです。向こうに残ってる友達がそれを教えてくれたんですが、それを聞いた瞬間に私の人生は終わったなと思ってしまって、それからは生きる意味すら見失ってしまったんです」

「そういう事ですか……」


 雨月の言葉に千雪は頷くと、メニューをパラパラと捲り始めた。そしてある名前を見ると、暗かった表情が少しだけ明るくなった。


「たるとたたん……!」

「フランスの伝統菓子ですね。そちらになさいますか?」

「はい。アップルパイも好きなんですが、タルトタタンも好きで、送られてきたリンゴもその内タルトタタンにして食べようかと思ってたんです。それと後は……あ、あっぷるてぃーもある。飲み物はあっぷるてぃーでお願いします」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そして、その作業風景に千雪が驚いていると、雨仁は千雪に話しかけた。


「許嫁が嫌ならこっちで恋人を作って、許嫁なんていらないって言えば良いんじゃないか?」

「それが出来れば良いんだけどね……私って結構目立たない方なのか中々異性から声をかけられる事がなくて、向こうでも告白された事すらないんだ」

「けれど、恋人を見つけられたら許嫁はいらないとご両親には言えますよね」

「まあね……許嫁と言っても、父さんがお酒の席で相手のお父さんとその場のノリで決めた感じみたいだから、別に破談になっても困らないと思うけど、問題はその相手が勝手に怒って何をするかわからない事なんだよね」


 千雪がため息をつく中、湊音はそんな千雪の事を見ていた。そして作業開始から数十分後、千雪のの目の前にはタルトタタンが載せられた皿とアップルティーが淹れられたカップが置かれた。


「たるとたたん、そしてあっぷるてぃー。お待たせ致しました」

「わぁ、美味しそう……それに、少し離れててもわかるくらいにリンゴの良い香りがしてくるし、食べる前からワクワクが止まらないなぁ……」

「ふふっ、そういう事ってありますよね」

「それでは、どうぞごゆっくり」

「はい。それじゃあ……いただきます」


 千雪は手を合わせながら言うと、添えられたフォークを手に取り、一口サイズに切り取ってからゆっくり口に運んだ。


「……はあ、美味しい。リンゴの芳醇な風味が口の中いっぱいに広がるし、甘味もしっかりとしていて本当に美味しい。これ、使ってるリンゴはもしかして紅玉ですか?」

「大正解。リンゴって品種によってお菓子に向いてる物から普通に食べた方が美味しいもの、アップルティーにした方が良いものまであるから楽しいんですよね」

「なので、あっぷるてぃーには王林を使っていますよ。さて、津軽さんのお悩みですが、これは先程お話されていたようにこちらで恋人を作ってご両親に許嫁の件を破談にしてもらうのが一番だと思いますよ」

「そうなんですが、許嫁が勝手に怒って何かをしてくるリスクを背負ってまで恋人になってくれる人なんて……」


 千雪が表情を暗くする中、湊音は軽く手を上げた。


「それなら、俺が彼氏役をしますか?」

「え?」

「津軽さんは自分の事を目立たない方だと言っていましたけど、俺は津軽さんは本当にちゅらかーぎーだと思ってますし、これでも沖縄空手をしてたのでいざという時には守れます。それに……役とはいえ、津軽さんみたいに綺麗な人を恋人に出来たら良いなと思えるので」

「そんな事……でも、そう言ってもらえて嬉しいです。他になってくれそうな人はいませんし、お願いしても良いですか?」

「はい、もちろんです。だから、もっと笑ってください。津軽さんがタルトタタンを見つけた時のあの笑顔、本当に素敵でしたから」


 湊音が白い歯を見せながら笑うと、千雪は途端に顔を赤くしながら軽く俯いた。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』では湊音と千雪が笑みを浮かべながら話をしており、夕雨達はそんな幸せそうな二人を静かに見ていた。

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