第9話 おひさまあんぱん

 雨が静かに降り続け、傘を差した人々が街中を歩いていくある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内では雨仁と雨花が紅茶が入ったカップを持ちながら一息ついていた。


「はあー……良いお味ですねぇ……」

「いつも思うけど、夕雨さんが作る料理と雨月さんが淹れる飲み物の味って本当に美味いな。天雨さんが作る物の方が美味いけど、二人の味はなんだかホッとする感じがするな」

「それはよかったです」

「ですね。雨仁君も一週間前よりは表情も柔らかくなってきた気がするし、少しずつ私達にも心を開き始めてくれてるのかな」


 夕雨の言葉を聞き、雨仁は紅茶を一口飲んでから小さく息をついた。


「ここまで色々気を遣ってくれたり適度な距離感を保ってくれたりしていたら邪険には出来ないっていうだけだ。まあここに来る客を含めて悪い人じゃないのはわかるし、こっちもその気持ちには応えていくつもりだけどな」

「それだけでも十分だよ。雨花ちゃんはどう? 少しずつでも自分に自信はついてきた?」

「私は……まだ自分に自信は持てていません。自信がついたと言える程の成功を納めていませんし、まだ私が進むべきだと思える道も見つかっていませんから」

「そっか……」

「ですが、ここでの生活は楽しいですし、今は夕雨さんと雨月さんに色々教えてもらいながら雨仁さんと一緒に頑張っている毎日がとても充実しているように感じます。雨仁さんも少しぶっきらぼうではありますが優しいですし……」

「そうですか。ふふ、これは将来仲睦まじい様子で支え合うお二人の姿を多くのお客様がご覧になるかもしれませんね」

「というと?」


 雨花が不思議そうに言うと、夕雨はクスクス笑ってからそれに答えた。


「私達は別に夫婦どころか恋人同士ですらないけど、二人はそうなるかもしれないねって事」

「こ、恋人……!?」

「……何を突拍子もないことを言ってるんだか。人間と女神の恋なんてそうそうないんじゃないのか?」

「神話的に見れば神が神以外と恋に落ちるというのはそう珍しい事でもありませんよ。ギリシア神話のオリオンさんとアルテミスさんもそうですしね」

「まあ二人もいずれはお互い以外の誰かと恋に落ちるとか縁が結ばれるとかあると思うけど、私は少なくとも二人がお似合いだと思うよ。お互いに相手の辛さはわかってる同士だし、二人だってお互いの事は嫌いじゃないでしょ?」


 夕雨の言葉を聞き、雨仁と雨花は顔を見合わせた。


「……まあ色々頑張ろうとしている姿はちゃんと評価してるし、容姿も優れている方だと思う」

「私も雨仁さんの凛とした姿はかっこいいと思いますし、頼りになる人だなと思います。ただ、やっぱり恋という物についてはまだわからないです」

「俺の場合はわからないというのもあるが、今はそれにかまけている暇はないってところだな。ここに世話になると決めた以上はここでの仕事については真面目に取り組みたいし、死んだ祖父さんに顔向け出来ないような自分になりたいと思わないからな」

「そっか。まあでも私も恋なんてした事がないんだけどね。だから、この件は一番雨月さんが詳しいかもよ。なにせ縁結びを司る上に自分が人間だったら私のご先祖様と恋に落ちてたなんて言ってたしね」

「それだけ美しく芯のある方でしたからね。ただ、夕雨さんも同じくらい素敵な女性だと思ってますよ」

「ありがとうございます、雨月さん。さてと、そろそろ色々な物の下拵えを再開しないと……」


 夕雨が両腕を上に上げながら体を伸ばしていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、茶色の傘を持った男性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「はい……あれ?」

「どうかされましたか?」


 夕雨が不思議そうに言うと、男性は軽く首を傾げた後に少し自信なさげに夕雨に話しかけた。


「あの……勘違いだったら申し訳ないんですけど、もしかして虹林先輩ですか?」

「はい、私は虹林ですけど……あれ、そういえばなんだか見覚えがあるような……?」

「僕ですよ。高校の時に同じ家庭科部だった樫山かしやま晴太せいたです」

「樫山……あっ、あの一年後輩だった樫山君!? わぁ、懐かしいなぁ……元気だった?」

「はい、虹林先輩もお元気そうでよかったです」


 晴太は嬉しそうな顔をしながら傘を傘立てに置いていたが、雨月や雨仁達を見ると、表情を少し暗くしながら夕雨に話しかけた。


「こちらはもしかして……ご主人とお子さん達ですか?」

「ううん、違うよ。でも、私にとっては大切な家族かな」

「そ、そうですか……」

「樫山君はどう? ここに来られた辺り、だいぶ大きな悩みがあるようだけど……」

「え? どういう事ですか?」


 晴太が不思議そうに聞くと、夕雨は微笑みながら答えた。


「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人達が雨によって導かれてくるカフェなんだよ。それで私は雨月さんと一緒にここを受け継いでて、今は雨仁君と雨花ちゃんも加えた四人で生活しながらお店を頑張ってるんだ」

「押し潰されそうな程に……もしかして虹林先輩もそうだったんですか?」

「うん、前に勤めてた会社の件でちょっとね。それで、樫山君はどうしたの?」

「……僕は仕事と家庭の件で悩んでるんです」


 晴太が更に表情を曇らせると、夕雨と雨月は顔を見合わせ、向き直ってから雨月は晴太に話しかけた。


「お仕事は何をされているんですか?」

「パティシエです。専門学校を卒業してからフランスに渡って、そこで修行を重ねて今は著名なパティシエの方のお店で修行を兼ねて働いています」

「家庭科部だった頃からお菓子作りは本当に得意だったからね。でも、それが悩みって事はお店の人とうまくいってないとか?」

「いえ、お店の方はとても良くしてくれますし、修行もやる気を持って臨んでます。ただ、妻や娘はそんな状態をよく思ってないというかカッコ悪いと思っているみたいで、早く自分の店を出せだのいつまでも他人の世話になってるなんてみっともないだの言い出して、それをオーナー達にも相談出来ずにいる内に失敗も多くなっていて……」

「他所様の家庭の話ではあるけど、その二人は本当に勝手な事を言うもんだな」

「そうですね、私もそう思います」


 雨仁と雨花が怒りを見せると、晴太は少しだけ嬉しそうな顔をしながら会釈をしてからメニューをパラパラと捲った。そしてある名前を見つけると、目を丸くしながら夕雨の事を見た。


「虹林先輩、これって……」

「ああ、おひさまあんぱんの事? 樫山君が考えてる通り、高校時代に樫山君が考案したあんパンを私なりにアレンジした物だよ。本当は本人の了解を得た上でやるべきだけど、高校の時の樫山君は携帯電話を持ってなかったから連絡先を知らなかったんだよね」

「そうでしたね……あの、これとほっとみるくをお願いしても良いですか?」

「うん、了解。よっし、それじゃあやりましょうか、雨月さん」

「はい、夕雨さん」


 二人は頷き合うと、作業を始めた。そしてその人並み外れたスピードとコンビネーションに晴太が驚いていると、それを見ていた雨仁が晴太に話しかけた。


「やっぱり驚くか、夕雨さん達のこの作業風景は」

「そ、それはそうだよ。だって、虹林先輩は高校時代から作業はテキパキとこなしてたけど、こんなに速くはなかったし、まったくぶつからなかったり持ち場が被らなかったりするなんて無かったから……」

「夕雨さんは雨月さんと出会った事で人生が大きく変わったみたいですし、お互いに信頼し合えるからこそここまでの事が出来るそうです」

「お互いに信頼感し合えるからこそ……」

「店のスタッフやオーナーに迷惑をかけたくない気持ちはわかる。けれど、何も話さずにただ失敗を重ねる方が店側的には明らかに迷惑だろうし、自分がどうして修行を続けているのか家族に言わなかったらまったく伝わらないだろう。だから、まずは言葉にして伝えてみろ。そうしないと前には進めないし、何も始まらないだろうからな」

「言葉にして伝える、か……」


 晴太がポツリと呟く中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして作業開始から数十分後、晴太の目の前には太陽の焼き印が押されたあんパンが載せられた皿とホカホカと湯気を上げるホットミルクが置かれた。


「おひさまあんぱん、そしてほっとみるく。お待たせしました」

「太陽の焼き印が押されてる……これも高校時代に僕がこうしてみたいって言った物ですよね?」

「うん、そうだよ。さあ、食べてみて」

「はい。それじゃあ……いただきます」


 晴太は手を合わせながら言うと、おひさまあんぱんを手に取り、大きく口を開けながらそのままかぶりついた。


「……美味しい! シナモンの香りとピリッとした風味があんことバッチリ合っていて本当に美味しいです! 生地もしっかりとしていますし、こんなに美味しい物を作れるなんて流石虹林先輩です」

「でも、これは元々樫山君が考案したんだよ。ただ甘いんじゃなく何かピリッとした物が入った方が塩キャラメルみたいに引き立て合って美味しいんじゃないかって言ってたのを私は自分なりに再現しただけ。結局、何が良いか決まらずにアイデアだけになってたからね」

「そうでしたね。でも、僕が作りたかったのは本当にこんな感じなんです。それに今出会えるなんて……」


 晴太はおひさまあんぱんを見ていたが、その目には涙が溜まり出し、その涙は頬を伝い始めた。


「……僕、もう妻や娘とはやっていけないと思ってるんです。あの二人はパティシエという仕事よりもそれによって生まれる収益にしか興味がないみたいですし、こういうのを作りたいと言ったり実際に作ってみたりしてもろくに感想すら言ってくれなくてどうして僕はこんな人達と生活してるんだろうとずっと思ってました」

「そうだったんだ……」

「今だから言えますけど、僕は高校時代からずっと虹林先輩の事が好きでした。いつも明るくて部活動は真面目に取り組むその姿は本当に素敵でしたから」

「樫山君……ありがとう、でもその気持ちには応えられないな」

「わかってます。ご結婚はされてないようですけど、虹林先輩には先輩なりの人生があるようですから」


 晴太は目を軽く擦った後、太陽のような笑みを浮かべた。


「僕、オーナー達に現状について話してみます。そして家族にも自分の考えについて話します。たぶん家族はわかってくれないと思いますが、その時はその時です」

「そうだね。連絡先を後で渡すからまた何か困った事があったら遠慮無く相談して。もちろん、ここにまた来て話してくれても良いから」

「はい、そうします。虹林先輩、そして皆さん。本当にありがとうございます」


 晴太の嬉しそうな顔に四人は安心したような表情を浮かべた。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』では晴太がおひさまあんぱんやほっとみるくを味わいながら夕雨と昔話に花を咲かせ、雨月は微笑みながら雨仁達と共にその話を静かに聞いていた。

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