第7話 みるふぃーゆ
霙が静かに降り注ぎ、地面がぐちゃぐちゃになっていくある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内では夕雨が弾くオルガンの音色が響いていた。
「……良い音色ですね」
「……同感だな。一日一回手入れをしてるのは見てたけど、演奏しているのを見るのは初めてだし、演奏してる姿は料理をしてる時の姿とはまた違った感じなんだな」
「優雅で綺麗ですよね。夕雨さんは演奏をしている時も姿には気を付けているようで、いつも背筋はピンとしていて指先にも意識を向けているようですよ」
「オルガンの演奏を仕事にしても良いくらいお上手ですよね。もちろん、そう簡単にはいかないのはわかっていますが、多くの観客の前で演奏をする夕雨さんのお姿も見てみたいです」
「機会を設ければ大丈夫だろうけど……まあそれはおいおいだな」
三人が話す中、夕雨は演奏を続けた。そして数分後、夕雨が演奏を終えると、雨月達は揃って拍手を送った。
「素晴らしい演奏でしたよ、夕雨さん」
「ありがとうございます。でも、こうしてまた弾くようになったからにはもっと頑張りたいですね。そうすれば来てくれるお客さんの事をもっと楽しませられますから」
「今でも十分スゴいのに……やっぱり夕雨さんの向上心の高さはちゃんと見習わないといけませんね」
「ありがとう、雨花ちゃん。因みに、オルガンって古代ギリシア語の言葉が由来なんだけど、どんな言葉だと思う?」
「古代ギリシア語……楽器は音楽を奏でる道具だから道具とかか? けど、他の楽器だってそうだからこれだけがそんな名前になるとは考えづらいか……」
雨仁が自信なさげに言うと、夕雨は微笑みながら首を横に振った。
「ううん、大正解だよ」
「えっ、そうなんですか? 雨仁さん、スゴいです……!」
「道具や器官を意味するオルガノンっていう言葉が由来で、オルガンは紀元前三世紀にクテシビオスっていう人が作った水オルガンが今のオルガンの原型になってるんだって」
「水オルガン?」
「水オルガンは水を使って空気圧を発生させる事で空気を循環させて音を出す物だから、ポンプを動かす人が奏者の他に必要だったみたい。でも、式典や闘技場なんかで頻繁に演奏された事で広まって、色々な改良を経て今のオルガンになったんだって。それで中世に入るまでのオルガンは持ち運びが出来る程の大きさだったみたいだけど、中世に入ってからは教会みたいなところで演奏するような大きなオルガンも作るようになって、音域も広がった事から足用の鍵盤もつけるようになったってピアノの先生から教わったなぁ……」
「手だけじゃなく足でも演奏するのか……ん、そういえばピアノにも足で踏むような何かがあったような……」
雨仁が顎に手を当てていると、夕雨は微笑んだままで頷いた。
「ああ、三本のペダルの話だね。あれはそれぞれ右側のラウドペダル、左側のソフトペダルって感じに名前がついていて、ラウドペダルは音の伸びを良くする効果が、ソフトペダルはその逆で響きを弱める効果があるんだけど、真ん中のペダルはグランドピアノとアップライトピアノで名前が変わるんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。グランドピアノだとソステヌートペダルって言って、踏んだ時点で鍵盤を押していた音だけを鍵盤から手を離しても鳴らし続ける事が出来て、アップライトピアノだとマフラーピアノっていう名前の音量をとっても小さくしたりペダルを右か左にずらす事でペダルを踏みっぱなしにした状態に出来るんだ」
「あれにはそんな機能があったのか……」
「因みに、アップライトピアノとグランドピアノにはそれぞれの特徴があるんだけど……まあそれはまた次の機会に話すよ。話しても良いんだけど、長くなっちゃうしね」
夕雨の言葉に対して三人が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、白色の傘を持った長い黒髪の女性が中へと入ってきた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
「あ、はい……って、もしかして虹林さん?」
「え……もしかして音川奏先生ですか!? わあ、お久しぶりです!」
「夕雨さん、もしやピアノを教わっていた方ですか?」
「はい。奏先生はプロのピアニストでありながらもピアノ教室を開いたり音大で時々講師をしたりしているスゴい人で、奏先生が演奏する姿は本当に綺麗なんですよ」
「貴女だっていつも一生懸命に練習していたし、調理師の専門学校に行くって決めて教室を辞めるまで休む事なく教室に通って、コンクールでも良い成績を修めていたじゃない。ああ、本当に懐かしいわね」
奏は嬉しそうな顔をしていたが、すぐにその表情は曇り、傘を傘立てに置く中で夕雨は心配そうな顔をした。
「奏先生……もしかして何か辛い出来事があったんじゃないですか?」
「……やっぱりこんなに暗くなってるとわかるわよね」
「それもあるんですが、ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人達が雨によって導かれてくるカフェなんです。だから、奏先生もそうだと思ったんですよ」
「そんなカフェが……まあ人に話せない事でもないし、聞いてもらおうかしらね。久しぶりに会ってする話でもないんだけどね」
奏は哀しそうに笑った後、静かに話し始めた。
「虹林さんが言っていたように私はピアニストとして色々なところでコンサートをしながら教室や音大での臨時講師も続けているの。でも、最近私の演奏は求められてないんじゃないかと思うようになったのよ」
「求められてないって……そんな事ないですよ」
「貴女はそう言ってくれるけど、そう思わない人もいるのよ。演奏中に居眠りをされたりこっちは真面目にやりたいのに私語をされたりするとやっぱりやる気もなくなるし、自分のやり方は求められてないって気持ちになるのよね」
「奏先生……」
「……私、もう辞めた方が良いのかしらね」
奏は哀しそうに言い、メニューをパラパラと捲っていたが、ある名前を見つけた瞬間にその目に光が戻った。
「みるふぃーゆ……」
「はい、先生が大好きなお菓子です。教室を辞めてから先生にお会いする機会はありませんでしたけど、いつか先生に食べてもらいたいと思って自分が思う先生好みのミルフィーユを模索し続けていたんです。是非、食べてみてもらえませんか?」
「虹林さん……ええ、そうさせてもらうわ。飲み物は……こうちゃにしようかしらね」
「畏まりました。では、夕雨さん」
「はい、雨月さん」
二人は頷き合うと、作業を始めた。そして人並外れた速度とコンビネーションに奏は口元を隠しながら驚いた。
「虹林さん……何年も会わない内にこんな事が出来るようになったのね」
「ちょっとした事情こそありますけど、夕雨さんは辛い現実を乗り越えて雨月さんと一緒に頑張ってきたみたいなんです」
「そしてここで同じように押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人達を助けてきた。だから、アンタの事だって夕雨さんはきっと助けてくれる。それだけは信じて良いと思う」
「……ええ、そうね。教え子を信じなくて何が先生かって話だものね」
奏が笑いながら言う中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして十数分後、奏の目の前にはミルフィーユが載せられた皿と紅茶が注がれたカップが置かれた。
「みるふぃーゆ、そしてこうちゃ。お待たせしました、先生」
「美味しそう……こんなに美味しそうな物を作れるなんてスゴいわ、虹林さん」
「実際に食べてどれだけ絶品なのかを味わって見てください。夕雨さんもそれを望んでいますから」
「そうですね。それじゃあごゆっくりどうぞ、先生」
「ええ。それじゃあ……いただきます」
奏は手を合わせながら言うと、添えられたフォークを手に取り、ミルフィーユを軽く割った。そしてそれによって鳴る小気味の良い音に口元を綻ばせた後、一口サイズに切ったミルフィーユを口へと運んだ。
「……本当に美味しいわ、虹林さん。パイ生地のサクサク感も心地よいけど、一番嬉しいのはこのクリームね。これ、チーズクリームでしょ?」
「はい。先生がチーズを好きなのを覚えていたので今回はチーズクリームで作ったんです。いつもは生クリームなんですが、今後はお客さんの注文を聞いた時にクリームをどれにするか聞こうと思ってます」
「なるほどね。紅茶との相性も良いし……はあ、気持ちが穏やかになっていくわ」
奏がカップを両手で持ちながら安らいだ顔をする中、夕雨は真剣な顔で話しかけた。
「先生、悲しい事ですけど、先生にとって辛い出来事はこれからもあると思いますし、先生もそれはわかってると思います。でも、だからといって先生自身や先生の演奏が求められてないなんて事はないです。先生から教えてもらえたから私は今でもオルガンを弾いていられますし、先生の演奏を聞いたからこそ教室を続けられました。私、調理師になろうと思う前は先生みたいなピアニストになりたかったんですよ。先生みたいに色々な人の心を震わせたり出来るそんなピアニストに」
「虹林さん……」
「だから、これからもピアニストや先生を続けてください。私だってもっとうまくなりたいですから先生の指導を受けたいですし、私と同じように先生の演奏に心を打たれて頑張ってる人だっているはずですから」
「……虹林さん、本当に成長したわね。あんなに純真無垢な笑顔を浮かべながらピアノを弾いていた貴女がそんなに真剣な顔をしながら私に手を差し伸べてくれるなんて昔の私が知ったら本当に驚くだろうけど、それと同時にとっても喜ぶと思うわ。今の私がそうだもの」
「奏先生……」
奏は夕雨の両手を取ると、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「私、もう少し頑張ってみるわ。こんなに親身になって話を聞いてもらったり励ましてもらったりしたんだもの。ここで辞めるなんて言えないし、もっと続けたいと思えるもの」
「奏先生……!」
「さて、そうと決まれば久しぶりに貴女の演奏を聞きたいわ。今でもオルガンを弾いてるようだし、そのお手並みを拝見させてもらおうかしら」
「あはは……緊張するなぁ。でも、先生の前で弾けるのは本当に嬉しいです。精いっぱい弾きますからそのみるふぃーゆやこうちゃと一緒に楽しんでくださいね、先生」
「ええ。ありがとう、“夕雨さん”。貴女は私にとって本当に自慢の教え子よ」
奏の言葉に夕雨は嬉しそうに笑った後、そのままオルガンの前に置かれた椅子に座り、鍵盤の上に指を置いた。そして外で霙が降り続ける中、『かふぇ・れいん』には夕雨が奏でるオルガンの音色が響き渡り、雨月や奏はそんな夕雨の姿を見ながら静かにその音色を聞いていた。
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