第62話 はーぶてぃー

 雨が静かに降り続け、鼻や手を赤くした人々が足早に街を歩いていくある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内には神名美子とノエル・ヴィレールの姿があった。


「はあ……やっぱりここで食べる三色大福と緑茶の味は染みますね。ノエルちゃん、どうかな?」

「はい、あまり大福やお茶は頂いた事がなかったんですが、すっかり大好きになっちゃいました」

「それは良かったです。ノエルさんはお正月にはスイスに一度帰られるのですか?」

「そのつもりです。ここに初めて来た日の帰りにお母さん達に一度帰ってみたいって話をしたら良いよって言ってもらえたので。その時は皆さんもご招待したいんですが……美子さんは神社で巫女さんのお仕事が、夕雨さんと雨月さんはここでのお仕事や里帰りがありますもんね」

「うん。お正月に雨が降るかは本当に神のみぞ知る事だけど、少なくとも元日は年神様がいらっしゃるはずだから開けるつもりだよ」

「それに合わせて他の雨を司る神々が雨を降らせそうな気はしますが、そこまでの強い雨にはならないと思いますし、心配はいりませんよ」


 それを聞いた美子は安心した様子で息をついた。


「それはよかったです。ウチもここに来るお客さんや地域の人達が時々お参りに来てくれるのでお正月には多くの参拝客がいらっしゃると予想してましたから」

「今年は今年でいっぱい新しいお客さんも来てくれたからね。その人達が参拝客として来た後はここもその人達がそのまま来てくれたりしてね」

「ふふ、その時にはしっかりおもてなしをしなければなりませんね。さて、このもてなすという言葉ですが、漢字で書くと持て成しと書き、お客様にご馳走を出したりする際に使う言葉ですが、他にも取り計らうといった意味があるんですよ」

「取り計らう……でも、やっぱりこのもてなすという言葉は相手ありきの言葉なんですね」

「そうですね。ただ、もてなすという言葉には態度や振る舞いという意味もあり、源氏物語ではそれを含めて様々な意味でこのもてなすという言葉が使われているようです」

「なるほど……もてなすという言葉はこれまで来てくれたお客様に対して何かお出しするという意味でしか使って来なかったですけど、今のお話を聞いていたらもっと他の言葉についても知りたくなってきますね」

「言葉の中には今は使われていない死語というものもありますし、古語もまた違った味わいがあります。そういった様々な言葉を学び、それをしっかりと使っていくというのもまた楽しいかもしれませんね」


 雨月の言葉に三人が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、茶色の傘を持った男性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「は、はい……ずいぶんオシャレなカフェだけど、こんなところにカフェがあるなんて職場の人達は話してなかった気がするな」

「ここは特別なカフェなので見つけられないのも仕方ないですよ」

「特別なカフェ?」

「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた方々が雨によって導かれてくるカフェみたいなんです。お兄さんも何か辛い気持ちを抱えているんじゃないですか?」

「辛い気持ち……」


 男性は暗い表情で頷くと、傘を傘立てに置いてからノエル達とは少し離した席に座った。


「俺は黒田成一せいいち、会社員として勤めているんですが、そこが結構なブラック企業で……」

「あー……なるほど。私も前は会社員として勤めてましたけど、そこが本当に酷かったので気持ちはよくわかりますよ」

「そうだったんですね……自分が勤めているところも中々で、同期で入社した奴らも心を病んでどんどんいなくなっていきましたし、自分もそうなるんじゃないかと思ったら本当に怖くなって……」

「気づいたらここに着いていた、という事ですね」


 美子の言葉に成一は暗い表情で頷くと、メニューをパラパラと捲った。そしてある名前を見つけた瞬間にその手は止まった。


「はーぶてぃー……」

「はい。その日によって使用している物は違いますが、そちらになさいますか?」

「はい……ストレスの軽減にはハーブティーが良いと聞いたのでちょっと試してみたくなって。あと……このものくろーるをお願いします」

「畏まりました。お二人はどうなさいますか?」


 雨月の問いかけに美子とノエルは揃って頷いた。


「私達もお願いします」

「どんなハーブティーが出てくるのか気になりますし」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業を始めた。そしてその光景を美子が楽しそうに見る中、成一と共にノエルは驚いた顔をしていた。


「す、スゴいな……」

「私、前は一緒に作業をさせてもらっていたからまだ遅くしてもらっていたみたいですけど、夕雨さん達だけで作業をするとこんなに速いんですね……」

「そうですね。因みに、神様達にとっても速い方ではあるそうですが、驚くことというよりは純粋に楽しい芸のような物だそうですよ」

「かみ……さま……?」

「申し遅れました。私、この近くの神社で巫女をしている神名美子といいます。そして今作業をしている雨月さんはその神社の元祭神で夕雨さんは雨月さんと一体化した元人間の半神半人なんです」

「そ、そうなのか……普通に聞いたら信じられない話だけれど、このスピードやコンビネーションを見るに本当の事なんだろうな……」


 成一が驚く中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして作業開始から数分後、三人の目の前には数切れのものくろーるが載せられた皿とハーブティーが淹れられたカップが置かれた。


「ものくろーる、そしてはーぶてぃー。お待たせ致しました」

「わあ、良い香り……」

「作業中は変わった香りがするなと思いましたけど、こうしてお茶になると本当に良い香りですね」

「そうかな……作業中もなんだか安心するような香りがした気がするんだが……」

「え?」

「悪い香りじゃなかったですけど、安心するような香りという程ではなかった気がするんですが……」


 美子とノエルがわけがわからないといった様子で首を傾げていると、その姿を見ながら雨月はクスクス笑った。


「それは使ったハーブの一つに関係がありますよ」

「ハーブ……そういえば何を使ってるんですか?」

「今日のハーブはカモミールとバレリアンだよ。バレリアンはセイヨウカノコソウっていう和名を持つオミナエシ科のハーブで、ドライハーブにすると人によっては臭いと感じるくらいの香りを部屋中に広げてしまうんだけど、その効能を必要としてる人からすれば本当に良い香りに感じられるみたいだよ」

「睡眠障害の改善に効果があるそうですよ。黒田さん、最近眠れない時はありませんでしたか?」


 黒田はハッとしながら何度も頷いた。


「あ、あります……! それもしょっちゅうで何か手を打たないといけないと思っていました……!」

「あ、だから黒田さんには安心するような香りに感じられたんですね」

「それだけ黒田さんは苦しんでいた事になりますし、本当に大変だったんですね……」

「そうですね。では、どうぞごゆっくり」

「はい。それじゃあ……」

『いただきます』


 三人は声を揃えて言うと、カップの持ち手を優しく持ち、中のハーブティーを静かに飲んだ。


「……はあ、美味しい……」

「ほんのり苦味がありますけど、スッキリとしていて飲みやすい感じですね」

「温度も熱すぎない……あぁ、癒されていく……」

「喜んで頂けてなによりです。さて、黒田さんのお悩みですが、やはりその会社を辞める事にし、転職を考えるのが一番だと思います」

「そうですよね。ただ、辞めようと思ってもこれまで気力すら沸かなかったですし、その事を切り出そうとしても辞めさせないとする圧を上司からかけられて言い出せなかったんですよね……」


 カップを置いた黒田が暗い表情を浮かべると、夕雨は優しい笑みを浮かべた。


「たしかにそういう上司がいると辞めるのは大変ですよね。でも、一歩踏み出す勇気もやっぱり大切ですよ。辞めてさえしまえばその上司とも会う機会は格段に減りますし、その勇気があれば今度こそ良い会社に巡り会えますよ」

「一歩踏み出す勇気が……そうですね、辞めた後の転職活動も大変ですが、このままブラック企業で働き続けるのに比べたら絶対にマシだと思いますし、辞表をその上司に投げつけるくらいの勇気を出して辞めてきます!」

「投げつけるのは流石によくありませんが、その意気ですよ、黒田さん。吉報をお待ちしています」

「はい!」


 成一が嬉しそうに言うと、夕雨達は安心したように微笑んだ。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』の店内では成一や美子達がものくろーるを食べながらカモミールとバレリアンのブレンドハーブティーの味を楽しみ、夕雨と雨月はその姿を静かに見ていた。

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