第59話 じゃむぱん
雨が静かに降り続け、厚い雲が空を覆うある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内では杓伝紬と風野大志の二人がカウンター席に座って話をしていた。
「雨、中々止まないね。大志君、帰りも傘に入れてもらっても良い? やっぱり折り畳みの傘を家に忘れてきてたみたいだから」
「ああ、わかった。まあ今朝は傘を差さなくても良いくらいの雨ではあったし、紬も油断してたんだろうな」
「あはは、そうだね。まあでも、大志君がそれでも傘を持ってきててくれて助かったよ。本当にありがとうね、大志君」
「どういたしまして」
大志が嬉しそうに笑っていると、それを見た夕雨はクスクス笑った。
「二人ともすっかり仲良くなったね。これは付き合い始めるまでそんなに時間はかからないかなぁ……」
「つ、付き合……!?」
「大志君と、か……ここに大志君が初めて来た時にバスケットボールの試合に誘われたのがきっかけで話す機会も多くなって今では名前で呼ぶようになったわけだし、私は良いんじゃないかなと思うよ。まあ世間一般のカップルみたいな初々しさは無いかもしれないし、私じゃ不満かも──」
「そ、そんな事ない! 紬と話したり一緒にいたりすると本当に楽しいし、今日だって一緒にここに来られたのは本当に嬉しいんだ! だから、だから……!」
大志が手を震わせながら言うと、紬はその手を静かに握った。
「え……」
「ありがとう、大志君。私も大志君と一緒にいると楽しいよ。まあ女子バスケットボール部の子達とかクラスの子達からはだいぶ驚かれたりするかもだけど、その気持ちは嬉しいし、私は大志君と付き合いたいかな」
「ほ、本当か……!」
「うん。という事で、改めてよろしくね、大志君」
「あ、ああ……! こちらこそよろしくな、紬!」
「うん」
大志が嬉しそうな顔をし、紬が笑みを浮かべながら頷いていると、それを見ていた夕雨と雨月はニコニコ笑っていた。
「また一組、新しいカップルが生まれましたね。クリスマスイブ前だし、これは良いタイミングだったのかな」
「そうですね。冬の寒さにも負けない温かな関係になってほしいと思います」
「もちろんです。あ、そういえば……少し前まで今日って天皇誕生日だったんですよね? どうして無くなったんですか?」
「天皇陛下のお代替わりがその理由ですね。天皇誕生日は昭和23年の祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日の一つで、制定当初は昭和天皇のお誕生日であった4月29日でした。そして皇位継承に伴って、平成元年2月に祝日法が改正されて天皇誕生日は12月23日になり、再びお代替わりがあった際に天皇の退位等に関する皇室典範特例法の附則によって祝日法が改正されて現在は2月23日が天皇誕生日になりましたよ」
「じゃあまた天皇陛下がお代替わりをしたら祝日法が改正されて天皇誕生日も変わるって事ですか?」
「その可能性はあると思います。ですが、天皇誕生日をただの祝日だと思わず、これまでの歴史が積み重なって今の天皇誕生日、そして他の祝日があると考えながら過ごしたいですね」
雨月の言葉に三人が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、オレンジ色の傘を持った一人の男性が中へと入ってきた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
「あ、はい……こんな素敵なカフェがあったなんて知らなかったな……」
「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人が雨によって導かれてくるカフェですからね」
「知らないのも無理はないですよ。でも、ここに来られたって事は……貴方も何かそういう気持ちを抱えてるってことですよね?」
「……そうだね。自分ではそこまで気にしていないつもりだったが、そういう事なら本当に気にしていたんだろうな」
男性は小さくため息をつくと、傘を傘立てに置き、紬達と一つ席を離してカウンター席に座った。
「……私は
「へえ、定食屋さん。前に同じようにカフェを経営している人が来た事はありますけど、定食屋さんは初めてです」
「そうか。まあ私も他の定食屋やこういうカフェにはあまり来ないからそういう人も多いのだろう。それで悩みなんだが……私が求めていた料理人というのはなんだったのかわからなくなってきた事なのだろうな」
「料理人がわからない?」
「私は子供の頃、天皇陛下の料理番になりたいと思っていて必死になって料理を勉強をしたよ。ただ、それになるには努力や才能だけじゃどうしようもなくて今は定食屋をやっているんだ。その定食屋の経営も別に悪いわけじゃないし、色々な人に料理を食べてもらえている嬉しさもある。けれど、やはり求めていた形と違っているからか何か物足りなさを感じてしまうんだ。そしてそうしている内にどうして料理人を続けているのかがわからなくなってしまったんだよ」
「なるほど……夕雨さん、雨月さん、何か良い物はありませんか?」
紬の問いかけに夕雨は微笑みながら頷いた。
「一応思い当たるのはあるよ。雨月さんもそうですよね?」
「ええ、もちろん。杓伝さん達はどうしますか?」
「せっかくなので私達もお願いします」
「どんな物か気になるしな」
「畏まりました。では、夕雨さん」
「はい、雨月さん」
二人は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そしてその姿に諒が驚いていると、それを見た紬と大志はクスクス笑った。
「やっぱり驚くよね。夕雨さん達の作業風景って人並外れたスピードと信頼からの連携力で成り立ってるところがあるし」
「たしかにな。でも、どうしていつもあんなに早く料理を作れるんだ? 設備がやっぱり良いものだったりするのかな?」
「夕雨さん達が言うには味にもちゃんと拘ってるけど、色々研究した時短テクニックとそのスピードがあるからたとえ一から作っても普通より早く作って提供出来る物があるんだって」
「なるほど……」
「他にも街のパン屋さんから仕入れたパンとかもあるらしいし、そういう色々な人達の支えもあって夕雨さん達はいつもみたいに私達に色々な物を提供してくれてるんだろうね」
「色々な支え……」
諒がポツリと呟く中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして数分後、三人の目の前には一つのコッペパンが載せられた皿とホカホカ湯気を上げるミルクが注がれたカップが置かれた。
「じゃむぱん、そしてほっとみるく。お待たせ致しました」
「じゃむぱん……結構シンプルな物が出てきましたけど、どうしてこれなんですか?」
「その答えなんだけど……紬ちゃん達は天皇陛下達が何を食べてるか知ってる?」
「え? なんか豪勢な食事をしてるイメージがありますけど……」
「もしかしてこういう物を食べてるんですか?」
紬と大志が驚く中、雨月は静かに頷いた。
「あくまでも一例ですが、朝食にパンと果物、牛乳にジャムを召し上がっていた時があったようで、普段私達が口にしているものとおおよそ変わらない物を召し上がっているようです」
「へえ……そうなんですね」
「意外だよね。さてと、それじゃあどうぞごゆっくり」
「はい。それじゃあ……」
『いただきます』
三人は声を揃えて言うと、じゃむぱんを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「……うん、美味しい! 挟んであるのはシンプルなイチゴジャムなのに甘酸っぱさが絶妙でスゴい食欲が沸いてくる……!」
「たしかにな。こういうジャムパンって小学生とか中学生の時の給食くらいでしか食べる機会はあまりないけど、久し振りに食べるとやっぱり美味いな」
「たしかに……それに、何か特別なジャムを使っているわけでもないのにここまで喜んでもらえている。お二人の腕前は本当にスゴいですね……」
「お褒め頂きありがとうございます。ですが、これはあくまでもお客様に喜んでもらいたいという思いがあるからに過ぎませんよ」
「お客様に喜んでもらいたい……」
「纐纈さんも同じはずです。元々なりたかったものにはなれなくとも自分が作った料理を食べて喜んでくれている人達がいる。その相手が天皇陛下だろうと一般人だろうとそこに差はありません。美味しいものを食べてその喜びを分かち合ってもらい、生活の中の糧にしてもらう。それが私達、料理を作る者が大切にしていくべき事だと思いますよ」
諒は軽く俯いたが、すぐに顔を上げると表情を明るくした。
「そうですよね。食べさせる相手が誰だろうと関係ない。その人が自分の料理を食べて喜び、生活の中の活力にしてくれるならそれ以上に嬉しい事なんてないですよね」
「はい、私達はそう考えていますよ」
「私達はカフェで、纐纈さんは定食屋さん。メインの客層や提供する料理には色々違いはあってもお客さんが喜んでくれるために頑張ろうという思いは同じです。お互いにこれからも頑張っていきましょう」
「はい、もちろんです」
諒が憑き物が取れたような表情で言うと、夕雨達は安心したように微笑んだ。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』では諒が紬達と話をし、夕雨達はその様子を静かに見守っていた。
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