第56話 ほうれんそうまふぃん

 雨がポツポツと降り、多くの水溜まりが出来上がっていくある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内では天野あまの虎河たいが武田たけだ五月さつきの二人が静かに飲み物を飲んでいた。


「ふう……やっぱり温かい物は落ち着くなぁ」

「そうですね。すみません、夕雨さん、雨月さん。せっかく来られたのに白湯をお願いしちゃって」

「いえ、構いませんよ。お子さん、たしか男の子でしたよね?」

「はい。お二人に話を聞いてもらったからか喧嘩中だった両親にも現状を素直に話せて、仲直りもする事が出来ました。それで、今日はお二人にお礼を言いたくて無理を言って両親に来てもらって今は様子を見てもらってます。名前もお二人の名前に入っている雨を入れて奏雨かなうにしました」

「ふふっ、なんだか嬉しいです。天野さんは最近はお仕事どうですか? プロジェクトのリーダーを任されていたようですけど……」


 虎河は嬉しそうな顔で頷く。


「ばっちりうまくいきましたよ。チームのみんなで一丸となれた事でプロジェクトも成功して、チームのみんなとは飲みに行く仲にもなりました。それでそれを報告するためにここに来たんですけど……まさか同じようにお礼を言いに来た人と偶然出会うとは思ってなくて少し驚いてます」

「私もです。私はまたしばらく来られないかもしれませんが、これからよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。そういえば、武田さんは好きな食べ物ってありますか?」

「色々ありますけど、ここで食べたからか柏餅は大好きになりました。天野さんはどうですか?」

「私は笹団子です。あ、そういえば……あの時に上杉謙信の話を雨月さんから聞きましたけど、上杉謙信って好きな食べ物とかあったんですか?」


 虎河の問い掛けに雨月は微笑みながら答える。


「はい。越後の龍として知られる上杉謙信ですが、梅干しが好物だったそうで、お酒の肴もほとんどが梅干しだったと言われています」

「へえ、梅干し……理由ってあるんですかね?」

「明確な理由は定かではありませんが、梅干しに含まれているクエン酸には強力な殺菌効果があり、お米の腐敗を防ぐ効能もある上に兵糧ひょうろうとしてお米を携行する時にも他の武将が焼き味噌を添える中で上杉謙信は梅干しを添えていたそうですし、好物であると同時に栄養価を理解した上で好んで食べていたのかもしれませんね」

「なるほど……」

「そして上杉謙信が率いた越後軍は出陣前にお立ち飯と呼ばれた炊き立ての白米を用意し、他にも新鮮な魚などを用意して軍兵達に贅沢な食事をさせていましたが、自分の普段の食生活は極めて質素だったそうです。朝夕は汁物と惣菜がそれぞれ一品だけの一汁一菜いちじゅういちさいを基本として、不自由に慣れるのも武人の修養と考えて野菜や魚が無くとも満足し、お酒も好物であっても深酒まではしようとしなかったようですよ」

「上杉謙信ってすごい人だったんですね……」

「そうですね。そこまでしろとは言いませんが、その姿勢から学べる事はありますし、そういった先人達の人生は私達の生活を変えてくれる機会にはなるかもしれませんね」


 雨月の言葉に三人が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、黒い傘を持った一人の男性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「あ……は、はい。こんなところにカフェなんてあったかな……」

「ここは特別なカフェみたいですからね」

「特別なカフェ……?」

「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人達が雨に導かれてくるカフェみたいなんです。実際、私達もそうでしたよ」

「押し潰されそうな程に……はは、俺もそんなに追い詰められてたのか」


 男性は自嘲するように笑うと、傘を傘立てに置き、カウンター席に座った。


「……俺は戦場せんば光也みつや。この近くの会社で会社員をしています」

「奇遇ですね、私も近くの会社で会社員をしてますよ」

「そうだったのか。お互い大変だな」

「ええ、本当に。それで戦場さんの悩みは何ですか?」

「……会社で最近うまくいってなくてな。自分では頑張っているつもりなんだが、その頑張りが結果を伴わなくてな……」

「なるほど……努力をしていてもそれが実を結ばないとなるとたしかに辛いですよね」


 光也は暗い表情で頷くと、メニューをパラパラ捲り始めた。そしてあるページでその手を止めると、そこに書かれていた名前を口にした。


「ほうれんそうまふぃん……?」

「はい。その名前の通り、ほうれん草を使ったマフィンです。名前的には少し抵抗があるかもしれませんけど、鉄分も摂れるのでおすすめですよ」

「そう、ですか……それじゃあそれとほっとこーひーをお願いします」

「畏まりました。お二人はどうなさいますか?」

「それじゃあ私もせっかくだから食べてみたいです。飲み物は……私もほっとこーひーで」

「私も頂いてみたいですが……お医者さんから産後しばらくは油や砂糖を使ったものは出来るだけ控えるようにって言われてて……」


 五月が残念そうに言うと、夕雨は微笑みながら口を開いた。


「大丈夫ですよ。このほうれんそうまふぃんは油を使わずに作ってますし、ほうれん草に含まれてる鉄分や葉酸は産後のお母さんには必要な栄養素みたいですから」

「たしかにそう言われました。それじゃあ私もお願いします。後、白湯もお願いします」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業を始めた。そしてその作業風景に光也が驚いていると、それを見た五月と虎河はクスクス笑い始めた。


「やっぱり最初は驚きますよね」

「ええ。この人並み外れた速度と見事なコンビネーションがお二人のスゴいところみたいですから」

「た、たしかにこの速度とコンビネーションはスゴいな……」

「見習いたいところですよね。あ、そうだ……武田さん、こうして隣り合えたのも何かの縁ですし、何か手伝える事があったら遠慮なく言ってくださいね」

「天野さん……はい、せっかくのお申し出なのでお言葉に甘えさせてもらいます」


 五月が嬉しそうに言い、虎河が微笑みながら頷く中、夕雨と雨月は作業を続けながら二人に微笑ましそうな視線を向けていた。作業開始から十数分後、三人の目の前には薄い緑色のマフィンが載せられた皿とカップに注がれたコーヒー、そして白湯が入ったカップがそれぞれ置かれた。


「ほうれんそうまふぃん、そしてほっとこーひーとさゆ。お待たせ致しました」

「これがほうれんそうまふぃん……ほうれん草が入っているだけあってちゃんと緑色してるな……」

「見た目だけなら抹茶のマフィンみたいですね」

「たしかに……」

「ふふ。では、どうぞごゆっくり」

「はい。それじゃあ……」

『いただきます』


 三人は声を揃えて言うと、添えられたフォークを手に持ち、ほうれんそうまふぃんを一口サイズに切り取ってそのまま口に運んだ。


「……美味しいな、これ。少しほうれん草の苦味はあるけど全然気にならない程度だし、なんかほんのりコクのある味がする」

「細かく刻んだほうれん草と豆乳を混ぜてますからね。因みに、鉄分は動物性タンパク質と一緒に摂った方がきちんと体に吸収されるみたいなので五月さんの分は豆乳の代わりに牛乳を使ってますよ」

「夕雨さん……ありがとうございます」

「どういたしまして。戦場さん、元気は出ましたか?」

「あ……はい、少し食べたからかなんだかさっきよりは元気が出た気がします」

「それならばよかったです。さて、戦場さんのお悩みですが……こればかりは戦場さんのこれからの努力次第という事になりますね」


 雨月の言葉を聞いて光也は再び表情を暗くする。


「やっぱりそうですよね……」

「はい。ですが、頑張っている姿というのはきっと誰かが見ているはずです。今は結果が伴わなくともそれを評価してくれる方は現れるはずですし、その頑張りは戦場さんの力にもなるはずですよ」

「雨月さんの言う通りですよ、戦場さん。だから、腐らずにこれからもお互いに頑張っていきましょう。別の会社の人間ではありますが、話くらいなら聞けますから」

「私もこれからしばらくは中々来られないかもしれませんが、またお会い出来た時にはお話を聞きますよ」

「皆さん……そうですね、ダメだと考えて燻っているだけよりは誰かが見ていてくれると考えて頑張った方が良いですよね。俺、もう少し頑張ってみようと思います」

「その意気ですよ、戦場さん」


 雨月の言葉に光也は嬉しそうに頷いた。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』の店内では光也と虎河がお互いの苦労を話す中で五月はそれをニコニコしながら聞いており、夕雨と雨月も時折話に参加しながら三人の様子を静かに見守っていた。

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