第47話 れもんびすけっと

 しとしと降る雨が地面を濡らし、風に乗った雨粒が体を冷やしていくある日、雨の日限定で開店をしているカフェ、『かふぇ・れいん』の店内では雀部ささべ朱飛あかとがのんびりとコーヒーを啜っていた。


「……やはりここのコーヒーは格別だな。味に深みやコクがあって、回を重ねる毎にその良さが体に染みていくようだ」

「お褒め頂きありがとうございます」

「それにしても、今日は神音いさねさん達が急に来れなくなって残念ですね」

「本当に悔しがっていたよ。だが、前から取材の申し込みをしていた作家の先生が受けてくれると言っていたからそれも仕方ない。それに、早く終わったら来るとも言っていたし、それを待つとしよう」

「そうですね。さて、もう12月に入ったわけですが、世の中では12という数字がよく使われているのはご存じですか?」


 雨月の言葉に夕雨はハッとした様子を見せる。


「そういえば、一年は十二ヶ月ですけど、干支も十二支ですし、星座も十二星座ですね」

「イエス・キリストの使徒も十二人でギリシア神話のオリンポスの神々も十二神、仏教が説く苦しみの元となるされるものも十二縁起だったか……たしかに私達の周りには12という数字が溢れているようだな」

「はい。一年が十二ヶ月なのは一年に月が地球をほぼ十二回転して地球からは月の満ち欠けが十二回繰り返される事に関連していますが、古代の人々は自然を観察していく内にこの事象を認識して、12という数字を特別なものとしていったのだと言われています。

そしてその内に12という数字はあらゆる物に使われだし、今日に至るまでにも色々なところで使われているようです。先程色々な例を挙げて頂きましたが、他にも音楽の世界において1オクターブなどの音程を均等な周波数比で分割した音律、平均律も12平均律が一般的であり、昔の英国などでは10進数ではなく12進数が使われていましたし、数字を英語などにした際に12以降は特定の表現が用いられます」

「あ、ほんとだ……」

「そういえば、前に12というのは極めて便利で綺麗な数字であるという話を聞いた事があるな。12は2でも3でも割る事が出来、一時間を表現するのも60進数が使われているから5を含めた1~6のどの数字でも割る事が出来てわかりやすく、図形を表現する際も正三角形を重ねていく事で出来る正12角形は一つの円の中に存在していて直交する対称軸を有する形になっているから様々な表現にも便利な物なんだそうだ」

「そうですね。世の中には様々な不思議がありますが、こういった身近なものの中にも不思議はあるわけですし、そういったものにも興味を向けながら毎日を生きていきたいですね」


 雨月の言葉を聞いて夕雨達が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、龍川神音と虎杖いたどり神也が和装の老人を連れて中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。おや、龍川さんと虎杖さんでしたか」

「二人が柿川かきかわ先生を連れているという事は……そういう事か」

「はい。取材中にここの必要性を感じたのでお連れしました」

「そうか……柿川先生、初めまして。私は雀部朱飛、この二人の上司です」

「そ、そうか……それで、ここはどこなんだ? なんだか私には落ち着かないところなんだが……」

「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた人達が雨によって導かれるカフェですよ」

「そしてそこに連れてきてもらったという事は、私は傍目から見てもそういう風に見えたという事か……」


 柿川と呼ばれた老人は小さくため息をつくと、カウンター席の一つに座った。


「……私は柿川咲哉さくや、小説家をしている」

「柿川先生は今回一般投稿小説サイトのコンテストに覆面作家として参加されていて、その文体や表現にどのくらいの人が気づくかという企画に挑戦しているところなんです。それで龍川さんと一緒にその挑戦についての取材をしに行っていたんですが……」

「その話題になった時に柿川先生の表情が曇り始めたのでここにお連れしたんです。ここに来ればきっと元気になると思って」

「なるほど……柿川さん、何があったんですか? まさか誰も気づかないとか……」

「いや、気づいた者はいた。だが、気づいた者は皆が私の作品をただの模造品だの文体だけ真似た素人の出来だの言い始め、異世界転生やら悪役令嬢やら今流行っているという種類の作品を無理やり押し付けてくるだけで誰も私がただの偽者だと思っているのだよ」

「そんな事が……」

「たしかにそういうのが流行りだというのは聞いていましたが、まさか先生程の方の作品の真贋に気づかない上に心ない言葉を投げ掛けてくるとはな……これはそのサイトの運営者達も思っていなかっただろうな」


 朱飛の言葉に咲哉は静かに頷く。


「本当にそうだったようで自分達が悪くはないのにわざわざ謝りに来てくれたよ。その事も申し訳なくてな……はあ、本当にどうしたものか」

「まさか柿川先生が正体を隠して作品を投稿しているとは思わないものね……それに、私も少し調べた感じだとそういう小説投稿サイトって別に読書家ばかりがやっているわけじゃなく、作家になって一発当てようという人や流行ってるからやってみようという人もいるようだから」

「敷居が低いからこそ色々な人が入ってきて、中にはマナーが悪い人がいるわけですからね。柿川先生が辛くなるのも仕方ないですよ」

「そうですね……ふむ、そういえば今朝からちょうどよい物を試作していましたね」


 雨月の言葉を聞いて夕雨は笑みを浮かべながら頷く。


「あ、私もそれ思ってました。皆さん、お代は良いのでちょっと召し上がってみませんか?」

「ここの試作品……それは是非食べてみたいです」

「自分も食べてみたいです」

「私もご相伴に預かろうか。先生も良ければ是非」

「あ、ああ……けれど、ちょうど良いものとは一体……?」

「それは出来てからのお楽しみです。それでは、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 夕雨と雨月は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そしてそのコンビネーションと速さに咲哉は目を丸くした。


「な、なんだこれは……! 今日まで色々な物を見て来たつもりだが、ここまでの連携は見た事がない……!」

「これがここの楽しみの一つなんですよ、柿川先生」

「本当に小説の中の出来事みたいですよね」

「先生、ここからも何かインスピレーションが沸いてきませんか?」

「沸いてくるとも! だが……これを小説にしてしまうのもなんだか違う気もするな。何か……何か良い方法は……!」


 咲哉が頭を悩ませる中で夕雨と雨月は作業を続けていき、約十分後、四人の目の前にはほんのり黄色いビスケットが幾つも載せられた皿とホカホカと湯気をあげる紅茶が注がれたカップが置かれた。


「れもんびすけっと、そしてこうちゃ。お待たせ致しました」

「レモン……ああ、この色はレモンの色だったのね」

「はい。レモンを結構使っていますし、ちょっとした理由から牛乳を使ってないので普段のビスケットとはまた違った味わいになっていると思いますよ」

「そうか……では、早速頂くとしよう」

「そうですね。では」

『いただきます』


 四人は手を合わせながら言うと、目の前に置かれた皿からビスケットを一枚取り、それを口に運んだ。


「……美味しい! ずっしりはしてるけど、レモンの爽やかさでさっぱりとしていてとても食べやすいわ!」

「ただ甘いんじゃなく酸味もあるからこその食べやすさですね」

「紅茶にも合うしな……先生、どうですか?」

「ああ、本当に美味しいよ。しかし、これがちょうど良いというのは本当に何故なんだ……?」

「このれもんびすけっとは夕雨さんがとある本から見つけて、他の方のレシピも参考にしながら作ったものなんです。皆さんはシャーロック・ホームズという探偵はご存じですよね?」


 その問いかけに四人は頷く。


「それはもちろん」

「作中に出てくるキャラクターがこういうビスケットを焼いていて、当時は牛乳にバクテリアやそれを殺すための殺菌剤が入っていて中々飲まれなかったというところを踏襲して今回は牛乳を使ってないんです」

「なるほど……」

「シャーロック・ホームズを生み出したアーサー・コナン・ドイルは歴史小説家として名を残そうとしたものの、シャーロック・ホームズシリーズの人気がどうしても高く、新作を熱望する声が多かったと聞きます。

 柿川さんは書きたい物よりも他の物を求められているわけではありませんが、企画用のご自身の新作を贋作扱いされた上に流行りの物を無理に勧められています。だからこそ少しだけアーサー・コナン・ドイルの気持ちがわかるのではないですか?」

「……そうだな。本当の自分を認めてもらえない辛さは私にもわかるよ。ドイルの成功を知って同じようにミステリーを書き始めた者達が多かったと聞いた事があるし、今の流行りも同じようなんだろうなと思うよ」


 咲哉が頷く中、夕雨は微笑みながら口を開いた。


「だからといって、柿川さんまでそれに手を出す事はないと思います。今は本物だとわかられてないようですけど、ネタバラシの時に柿川さんに対して不躾な態度を取った人達の顔が真っ青になるのを楽しみにしてても良いと思いますしね」

「あははっ、ちょっと性格悪いやり方だけど、それはたしかに爽快でしょうね」

「それかその流行り物に手を出して柿川さんの新境地を見せつけるのも良いと思います。ですが、この先どのような道を選ぶかは柿川さん次第ですよ」

「……ふふ、そうだね。ただ悲観的になるよりも今後の事を考えた方が実に生産的で楽しそうだからね。ここで美味しい物を頂きながら皆の意見も聞きたいのだが……良いかね?」


 咲哉の問いかけに全員が笑みを浮かべながら頷いた。そして雨がしとしと降り続ける中で『かふぇ・れいん』の店内では咲哉達が話し合う声がしばらく響いていた。

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