第45話 らんぐ・ど・しゃ

 雨が強めに降るある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』では神林陽之助と神林月世の夫婦が穏やかな時間を過ごしていた。


「ふう……やはりここはゆったりと時間が過ぎている感じがして落ち着くな」

「そうですねぇ。そしてここで頂く美味しいお料理やお飲み物も絶品ですし、雨の日の良い楽しみになっていますよね」

「まったくだ。そういえば、今日は勤労感謝の日で世間では祝日だが、ここは雨の日だから変わらずやっているのだね」

「はい。私達の休日は基本的に晴れの日や曇りの日ですから」

「それに、祝日だといつもとは違う時間に皆さんが来てくれる事もありますし、そういうところも楽しみの一つです」

「なるほどなぁ」

「だから、私達もこうしてのんびりさせてもらえるわけですし、お二人の勤労に感謝する日と言っても差し支えないかもしれませんね」


 月世が微笑みながら言うと、雨月も微笑みながら頷いた。


「私達は常に皆さんの勤労に感謝をしていますよ。せっかくなので勤労感謝の日についてお話をしましょうか」

「あ、良いですね。勤労感謝の日といっても、その出来た理由とかはちょっと知らないですし」

「祝日というのは一般的にはお休みという印象になりがちですしね。さて、勤労感謝の日ですが元々今日は別の日、新嘗祭にいなめさいという名前の祭日でした。新嘗祭というのは、その年の収穫に感謝して新穀を神に供え、来年の豊穣を願う行事で、現在でも全国各地で行われていますよ」

「新嘗祭……それが勤労感謝の日に変化したわけですか?」

「変化、というよりは新しく制定されたというのが正しいですね。新嘗祭は宮中の神嘉殿しんかでんという場所に神座しんざ御座ござが11月23日の夕方に神膳を供えて神々をもてなす行事です。そしてその新嘗祭も第二次世界大戦後には国から定められた休日からは切り離され、休日だけが残ったので新しく勤労感謝の日が制定されたのです」

「なるほど……」

「先ほども仰られていたように勤労感謝の日は世間ではただの祝日として扱われがちですが、その名前の通りに日頃の勤労に対して感謝をしながら労う日にしても良いと思いますよ。もちろん、主婦の方も日々家事という名の勤労に励んでおられますからそれを労うというのも良いですしね」


 雨月の言葉に対して陽之助は深く頷いた。


「そうだな。世間の人々は主婦を軽く見ている節があるが、明確に休日が決められている私達と違って不定休且つ就労時間不確定の労働をしてくれているわけだから、その疲れを労うというのは実に大事だな」

「陽之助さんも昔からそこはしっかりとやってくれていましたしね。お仕事で忙しい中でも肩を揉んで下さったり酒の席の付き合いも程々のところで済ませてすぐに帰ってきて下さったり……本当にいつも感謝してばかりでした」

「喧嘩をしなかったわけではないけれどな。けれど、月世が支えてくれたから今の私がいる。月世、これからもよろしくな」

「ええ、こちらこそよろしくお願いします」


 陽之助と月世が微笑み合い、その様子を夕雨と雨月がニコニコ笑いながら見ていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアがゆっくりと開き、黒い傘を持った上品そうな男性と白い傘を持った同じく上品そうな女性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「う、うむ……って、陽之助に月世さん!?」

「ん? おお、表雄あきお麗華うらかさんじゃないか。まさかここで会うとはな」

「それはこっちの台詞だ、陽之助。それよりここは……」


 表雄が周りを見回しながら言っていると、月世はクスクス笑いながら答えた。


「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた方々が雨に導かれてくるカフェですよ」

「押し潰されそうな程に……という事はお二人も?」

「ええ、かつては私達もそうでしたよ。そして今回は二人なわけだが……とりあえず席に座ったらどうだ? そのままいても疲れるだけだろう?」

「……お前に言われなくともそうする」


 表雄と麗華は傘を傘立てに置くと、並んでカウンター席に座った。


「……私は八宮やみや表雄、そして隣は妻の八宮麗華。二人とも陽之助と月世さんとは学生時代からの付き合いなんだ」

「表雄も会社の会長をしていてね、たまにこの四人でゆっくり酒を飲む事もあるんだよ」

「良いですね、そういう関係も。学生時代からの付き合いがあって、お互いに競い合える関係というのは」

「主人は腐れ縁だと言いますけどね」

「腐れ縁も一つの縁ですよ。さて、ここに導かれた理由ですが……」


 雨月の言葉に表雄は表情を暗くする。


「……心当たりはある。息子夫婦と孫達がウチに来るのが面倒だと話していた事だろうな」

「面倒って……そんなに遠いところなんですか?」

「いえ、電車で二駅程度のところですよ。ですが、私達のところへ来て話したり一緒に何かを食べたりするよりも自分達だけで過ごす方が楽だし楽しいと私達がいないところで話しているのを私が偶然聞いてしまって……」

「関係を悪くするまいと思って何も言わなかったのだが、やはりその言葉がどうにも心にダメージを与えていたようでな。どうしてそうなってしまったのだろうと二人で悩む日々を送っているんだよ」

「なるほど……」

「たしかに難しい話ではあるからなぁ」


 月世と陽之助は軽く顎に手を当てていたが、ふと夕雨と雨月に視線を向けた。


「だが、二人なら解決してくれるかもしれないな」

「あはは……完全な解決までは難しいですけど、私達の考えなら言えますよ」

「お料理やお飲み物も出せますしね」

「料理……そういえばここはカフェなのだったな。だが、こういうところは来ないからどういうのが良いのかよくわからないな……」

「なので、お二人にお任せしても良いですか?」

「畏まりました。陽之助さん達はいかが致しますか?」


 雨月の問いかけに陽之助達は微笑みながら頷く。


「私達もそれを頼もうか」

「ふふ、何が出てくるか楽しみですね」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そしてその速度と手際の良さに表雄と麗華は目を丸くした。


「な、なんと……!」

「まあ……こんなに作業がお早い方は初めて見ました……」

「これがこの二人の技だよ、二人とも」

「信じられないかもしれませんが、お二人は元祭神と現半神なのでここまでの速度や息の良さを見せられるんです」

「なんという事だ……」

「長生きというのはしてみるものですね……」


 表雄と麗華が驚く中、夕雨と雨月は作業を続けた。そして十数分後、四人の目の前には薄く丸い焼き菓子が幾つも載せられた皿とホカホカと湯気を上げる紅茶が注がれたカップが置かれた。


「らんぐ・ど・しゃ、そしてこうちゃ。お待たせ致しました」

「ラング・ド・シャ……初めて見るが、クッキーのようだな」

「見た目はそうですね。ラング・ド・シャはフランス語で猫の舌を表すお菓子で、卵黄を使うクッキーと違ってラング・ド・シャは卵白を使うんですよ」

「なるほど……猫の舌なんてなんだか可愛らしいわね」

「そうですね。では、ごゆっくりどうぞ」

「うむ。では……」

『いただきます』


 四人は手を合わせてから声を揃えながら言うと、らんぐ・ど・しゃを一枚掴み、それを口に運んだ。


「……う、美味い……!」

「ええ、本当に。甘さが控えめだけれどちゃんと風味が口の中に広がるし、紅茶との相性も抜群で本当に美味しいです」

「何枚でも食べられてしまいそうな程に軽いから気づいたらこれだけで腹一杯になってしまいそうだな」

「ふふ、そうなってしまったら大変ですね。夕雨さん、雨月さん、また腕を上げられましたね」

「ありがとうございます。さて、表雄さん達のお悩みですが……お子さん夫婦やお孫さんに無理強いは出来ませんし、それも一つの意見として受け止めるしかないと思います」

「……やはりそうか。寂しいがそうするしかないだろうな」


 表雄が寂しげに言う中、夕雨は微笑みながら口を開いた。


「だからこそ、来てくれた時に目一杯楽しい時間にするのが良いと思うんです。それに、面倒だと思っても来たくないとは言っていないわけですしね」

「たしかに……」

「マイナスな事ばかり考えていてそこには気がつきませんでした……」

「お孫さんにも自分だけの時間やご友人と過ごす時間がほしい時もあるでしょうしね。それも一つの成長の時と考えて、来て下さった時には鬱陶しがられない程度にお話をしながら楽しく過ごすのが良いと思います。お互いに関係を悪くしたいわけではないですから」

「……そうだな。寂しさはあるが、それも次に来る時には何をしたり話したりするかを考える楽しみにすれば良いからな」

「そうですね。夕雨さん、雨月さん、本当にありがとうございます」


 麗華が頭を下げ、夕雨と雨月が微笑みながら頷く姿を陽之助と月世は安心した様子で見ていた。そして雨が降り続ける中で『かふぇ・れいん』の店内では神林夫婦と八宮夫婦が思い出話に花を咲かせ、その姿を夕雨と雨月が静かに見守っていた。

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