呼吸の仕方
空さんを見送った後、わたしは当初の予定通り堤防の隙間から砂浜へ足を進めた。踏み荒らす人が減った砂浜は潮の満ち引きで出来た模様のまま足跡も殆どない。
泳ぐ事の出来ない海水浴場なんてそんなものなのだろうけれど、わたしは人の居ない砂浜こそが好きだった。視界に入るのは海と空だけ。人の影がなく、自分だけがここに居るという感覚。
自分が分からないから、相手に合わせて自分を変える。相手に取ってこうあって欲しいという気持ちを読み取って、それを仮面として接する。わたしは、常にそうして生活している。
本当のわたし、なんてそんなものはない。だから、本音を言うなら自分以外の他者と一緒に居る事はとても息苦しさを感じている。とても、疲れるのだ。それは、両親に対してもそうだ。両親の望む優しく親切な娘という仮面をずっと着けている。高校も福祉課を選んだのは両親の望む福祉を志し、優しい娘を演じるためだ。実際はわたしには優しさなんて無い。無関心なのだ、何事も。
「…進路、どうしようかな…」
担任との面談では、やはり進学を勧められた。曲がりなりにも学年トップ三位以内に入り続けている成績を持つ以上それは避けられないとは思っていた。
やりたい事も、進みたい方向も全くないから進学先すら選べないんだよなぁ。学力的には都会の大きな大学とかで無ければどこでも行けるとは言われているけれど…。ウチの病院もそんなにお金ある訳じゃないし、無闇な進学は望ましくないよね。
砂浜の砂を踏んでキュッキュッと音をたてながら駅とは逆方向、河口の方へゆっくりと歩いていく。陸地側は海の家が途切れ、松の防風林が広がる。防波堤を挟んでこちら側には浜木綿が群生していて白い花が揺れている。
潮の香り、松葉の触れ合う音、目に映る海と空。頭の芯が冷たく落ち着いていくのが分かる。
父の病院を継ぐのであれば、医大を目指すべきではあるのだろうけれど、父は自分の代で病院は畳むつもりだと言っていた。ならば、掛かる学費を考えても医大はない。母と同じ看護師になって病院を助けるという事も考えたけれど、それも父が病院を畳むつもりなら意味はないだろう。学校の専攻で医学を学んではいるし、医学系に進む選択は先生方にも候補のひとつとして提案されている。
先生方の提案といえば、理数系の大学も勧められている。数学の成績が飛び抜けて高いせいだろう。
でも、やっぱり就職した方がいいかな。家に負担は掛けたくない。そうなると先生方を説得しなければいけない。先生方から目標が見つからないなら進学してから見つければいい、という説得が始まるのも目に見えているし、おそらく両親も同じように勧めて来るのだろうなと予測はつく。
宿題以外の勉強を一切やらずにこの成績で、いつもいつも「宝の持腐れ」と先生方に揶揄されて来たけれど、夢中になれるものもない状態でどんな勉強が身につくのか教えてもらいたいくらいだ。知らない事を知る事自体は好きだ。でも、それから先の興味が続かない。そんなわたしが進学なんてしても何も実りはしない。
「ふぅー………」
深く、呼吸をする。
身体に空気を行き渡らせるイメージで、深呼吸。考え込むとついつい息を止めがちなわたしは、意識的に呼吸をする。
昔、誰かが教えてくれた呼吸の仕方。人間の体は繊維で出来ているから、息を吸う時に、指先までその繊維を震わせるイメージで空気を行き渡らせると意識が広がるから落ち着くと教わった。誰に教わったのか、ぼんやりとしか思い出せないけれど、確かにこうすると気持ちが落ち着いて思考がクリアになる。
ほんと、誰だったんだっけな…。誰か、親しい人だったような気がする。
『あすなちゃんは、ちょっと頑張り過ぎだよ』
ふと、ベットの脇に立つわたしと、わたしの頭をポンポンと叩いてくれる男性の姿が脳裏を過ぎる。
「え…?」
今の、なんのイメージ? 今の、誰だろう。会った事のない、人だよね。なんとなく笑うと幼く見える感じがさっき会った空さんに似てた気がする、けど…。
「何かの映画かドラマのシーンとごっちゃになっちゃったかな…」
やっぱり、今日は疲れているのかもしれない。一時間と時間も区切っているし、そろそろ駅の方へ戻ろう。
「あ…れ…?」
踵を返し、駅の方を振り向いた瞬間ぐらりと目眩がしてわたしは砂浜にしゃがみ込んだ。
『かーごめ、かーごーめー。かーごのなーかのとーりーはー…』
意識の遠くで子供たちがかごめかごめを歌っている声が聞こえた気がした。いや、違う。この声はけいちゃんとたくやおにいちゃんの声…。あれ、たくやおにいちゃんって…誰だったっけ?
そこまで考えた所で突き刺すような頭痛がわたしを襲った。激しい痛みと、吐き気。それと、頭を埋め尽くす「思い出すな」という言葉。
思い出すな、思い出すな、思い出すな、思い出すな、思い出すな! 思い出してはいけない。
思考が塗り潰されて息が出来ない。苦しい。これは、なに?
砂浜の砂を握りしめて蹲る。冷や汗が滴って、砂浜を濡らす。そして、目の前が暗く変わって行った。
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