碧い海
大堂津駅は無人駅で、実はホームから直接海水浴場へ抜けられる小道がある。わたしは隣の駅に住んでるから地元とは言えないけれど、地元の人の生活道だ。
ホームの横の少しだけ開いているフェンスの隙間を抜けて海岸の方へ抜ける。貝殻を模した小さなステージの裏を抜けて行けば、もうそこは海だ。
「今日も碧いなぁ」
防波堤の向こう側に見える太陽の光を反射するその水面はエメラルドグリーンの綺麗な色彩を湛える。
夏が終わり、これから日差しが弱くなると透明度が下がってこんなに綺麗な海には見えなくなる。この色彩の海を見る事が出来るのは今の時期が最後で、また夏が来るまでお預けになる。
空の蒼さと海の碧さ、それを区切る水平線。この光景を眺めるのがわたしはとても大好きで、気持ちが落ち着かない時は見に来ていた。その中でも、やはり夏の海は別格だ。
砂浜へ抜けられる防波堤の隙間へ向かう途中で、その先の防波堤に座っている男の人が居ることに気付いた。海の方を見て、なにかを書いているようだ。
一体、何をやっているんだろう?
お盆を過ぎると海月が沢山出るこの海水浴場は、九月に入ると人が寄り付かなくなる。それなのに先客が居たことに驚く。
邪魔しない様に後ろ側から抜けて防波堤は飛び降りようかな。少し先まで行けば飛び降りられる高さになっているし。
防波堤を挟んで陸地側にある海の家の前を通り抜けて、その男の人の後ろを通り抜ける為に彼の背後に差し掛かる。その時に彼が書いているものをチラッと見てみた。
青い、空?
水彩画を描いているようだけど、その青い色彩の表現に目を奪われた。こんなに綺麗な青を表現している絵は見た事がない。いや、厳密に言うならわたしがこんなに好きな青の表現を見た事がない、か。
色々と美しい風景を描き出した絵画は沢山見てきたし、その色彩の表現の美しさはそれぞれの評価を得ていたし、相対評価するならこの絵はその水準とは違う。単純にわたしが好きな色彩表現なんだ。
後ろを通り過ぎようと思っていたのに、思わず足が止まってしまっていた。
絵を描いているその男性はわたしに気付く事もなく、空を見ながら絵の具をパレットに出して色を混ぜ合わせていた。
凄いなぁ…。白と青と紺を混ぜてる? あ、赤を少し入れた。この空を塗るのに赤入れるんだ。どんなニュアンスになるんだろう。
「うーん…違うな。変えよう」
男性は、独り言を呟いて、スケッチブックを捲って真っ白なページに鉛筆を走らせ始めた。水平線と、小さな島、見えている陸地の輪郭だけがあっという間に描かれていく。
「はっや…」
迷いなく描き出されていく早さに思わず声を出してしまって慌てて口を塞ぐ。
それは遅かった様で、スケッチブックを持った男性は振り向いてわたしをその視界に収めていた。
黒縁メガネを掛けた、幼さを感じさせる面立ちのその男性はとても驚いたのかピタリと動きを止めた。前髪が長く顔が分かりづらいが、そんなに年上という訳ではないだろう。多少は崩した喋り方で大丈夫そうだ。
「驚かせてしまってすいません。絵が少し見えて、そのまま見入ってしまってました」
動きが完全に固まってしまっている男性にわたしは謝る。勝手に見てしまったのはわたしなのだし、謝るべきはわたしだ。
「…いや、こちらこそ驚いて申し訳ない。………絵が、お好きなのですか?」
落ち着いた話し方が見た目とギャップがある。思ったより年上なのかも知れない。もっと態度を変えないと。
「はい。母が絵を描くのが好きな影響で、子供の頃から絵画を見るのが好きなんです」
「…そうなんですね。私は藤井空と申します。本来はイラストレーターで、趣味でこの様な水彩画や油絵を描いています」
にこり、と口角を上げる藤井空さんは、また年齢が分からなくなるような幼い笑顔をわたしに向けてきた。
でも、イラストレーターという事は、やはり絵を描くことを生業にしている人なのだ。あれだけ迷わず線を描けるのも当然なのだろう。
「もし、ご興味がありましたら、宮崎市若草通りの画廊で小さな個展をやっておりますのでいらして下さい」
空さんは鞄の中からチケットを取り出すとわたしに手渡した。
「是非、お母様とご一緒にどうぞ。それでは、私はこれからまた宮崎市に戻らねばならないのでそろそろ失礼しますね」
慌てて荷物を片付け始めた空さんを見て、もしかして邪魔してしまっただろうかと後悔する。本当ならもっと描く予定だったのかも知れない。
居た堪れなさを感じつつ貰ったチケットに目を移すと、ギャラリー秋桜と記載されていてわたしは更に驚いた。ギャラリー秋桜は二階が画廊で、一階が画材店になっているのだが、その画材店は母の行きつけで小学生の頃から良く行っていた店だった。
「個展、秋桜でご開催なさるんですね」
良く知る店での開催という事で、急に親近感を感じてしまった。
「………私に絵を教えてくれた方からご紹介頂いてそれからの縁です。いつも良くして頂いているんですよ」
少し寂しそうに彼は微笑む。
なにか事情があるのだろうか…? あまり踏み込むのは良くないし、聞くのはやめておこう。
「そうだったんですね。空さんはこちらがご出身なんですか? 秋桜までの移動は大変ですよね」
ここ、日南市から秋桜のある宮崎市までは車でも汽車でも移動時間が二時間くらいかかるから大変だろう。そういう意味で問い掛ける。
「出身は東京です」
「はい?」
日南市か宮崎市か、どちらの出身なのだろうかと考えていたわたしの予想の斜め上を行く返答に思わず大人向けの対応が崩れてしまった。
「今日も東京から来て、ここを見た後に宮崎に戻ろうと思っていたのですが、夢中になり過ぎました…。声を掛けて頂けて助かりました。ありがとうございます」
東京からなんでこんな片田舎で個展を開くのか、宮崎空港から道中乗り換えないと来れないこの辺鄙な場所になんでわざわざ来てるのか、など、色々な疑問が出て来たが慌てている彼を見てその疑問は飲み込む事にした。
「いえ…。宮崎までお気をつけて」
そして、わたしは愕然とした気持ちのまま彼を見送った。
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