第43話 あなたが幸せを掴む番です

 祈花きかの儀式を終えて聖女が帰還するということで、イスラ・レウスは歓喜の渦に包まれていた。

 式典の最中に魔狼に連れ去られた聖女を皆が心配していたが、神殿の船から神官長と海軍大佐を伴って現れた聖女の姿に人々は涙を流して祝福の花を捧げた。


 白いフラワーシャワーのトンネルをくぐって、神殿へ続く階段を厳かに上っていく。その途中まで来たところで、聖女が眼下の街、そこに集う人々を振り返った。


 傍らに控える神官のひとりが、真珠の詰まった籠を聖女に渡し、それを聖女が人々に向けて投げる。それが歴代聖女たちから続く、祈花きかの旅の終わりを告げる最後の儀式だ。


「聖女様、ばんざーい!」

「メルヴィオラ様、ばんざーい!」


 喜びに笑う人々へ向けて、聖女メルヴィオラは癒やしの涙をやわらかく投げ放つ。陽光を浴びて優しく光る真珠の粒。我先にと手を伸ばす人々の指先で、けれども真珠はふぅわりと形を崩して――白いフィロスの花びらに変化した。


「あなたたちに、祝福を」


 どぉん、と港で空砲が鳴る。

 風に揺れ、イスラ・レウスを舞い上がるフィロスの花びらが光にほどけ、街に、人に降り注ぐ。その甘い香りに、優しいぬくもりに、集まった人々が恍惚とした表情を浮かべてメルヴィオラを見上げた。


 頭に被った白いヴェールが風に攫われ、海のように青い髪がやわらかく揺れる。赤い瞳をかすかに細め、誰もが見惚れるほどの微笑みを浮かべた聖女メルヴィオラは、イスラ・レウスの人々を見つめて声高らかに宣言した。


「聖女メルヴィオラ。ここに帰還致しました」



 ***



 ノルバドの遺跡に眠っていたルーテリエルを解放し、メルヴィオラたちは神官長らが待つシャルバ港へと向かった。ルオスノットへ行く時に停泊した港だ。

 遺跡で何があったのか説明を受けた神官長は、ただ一言「ありがとう」と呟いて、そっとメルヴィオラを抱きしめたのだった。


 パトリックの危惧を神官長も心配しており、メルヴィオラは一旦神殿の船でイスラ・レウスへ戻ることとなった。ルーテリエルの秘密の共有者であるオルトリスとのこともある。今後について話し合う必要があると、難しい顔をしてそう言った。


 だからメルヴィオラはシャルバ港でラギウスと別れて以来、一度も彼に会っていない。連絡の手段もなく不安に顔を曇らせたメルヴィオラに、ラギウスはいつもの調子で「すぐ奪いに行くから待ってろ」とだけ言ったきりだ。


 あれからもう、三ヶ月は経っている。



「浮かない顔ですね」


 神殿の裏手にある崖の上から海を眺めていると、不意に背後から声をかけられた。振り向かなくても、メルヴィオラにはそれが誰だかわかる。神殿を抜け出すたびに、パトリックがこうしてメルヴィオラを探しに来てくれるからだ。


「ちょっと疲れちゃった」


 青い海は夕焼けに染まっていて、水平線の向こうに燃えるような太陽がゆっくりと沈んでいく。初めての恋に盛り上がった、あの恋心のようだ。思いは熱く燃えさかったままなのに、会えない日々と戻りつつある神殿での日常が、メルヴィオラの恋をゆっくり冷まそうとしている。


「イスラ・レウスに戻ってから、いろいろとありましたからね」


 祈花きかの儀式を終えて帰還したあと、神官長はすぐにオルトリスに向けて使者を出した。聖女にまつわる秘密開示の承認と、メルヴィオラが最後の聖女であることを記した文書である。

 予想通りオルトリスは難色を示し、メルヴィオラの今後の待遇も含めた話し合いは今も続いている。


 聖女を手放したくないオルトリスと、聖女を解放したいイスラ・レウス。事の発端が呪われた魔法具にあるため、ヴァーシオンも交えての話し合いになると聞いたのはふた月ほど前だ。もしかしたらラギウスたちに会えるかもしれないと心躍らせたものの、オルトリスで行われた会合には王族のみが出席し、メルヴィオラはイスラ・レウスから出ることも叶わなかった。

 仮に会合に出席できたとしても、が会合に出ることはないことくらいメルヴィオラにもわかっている。けれど当事者としてなら参加しているかもしれないと、そう抱いた淡い期待はあっけなく崩れてしまった。


「そういえば、オルトリス王があなたを妻に迎えるという話はなくなりました」

「当たり前でしょ! 親子ほども年が離れてるのに……それだったらまだ神官長の方がマシだわ」

「それ、神官長様の前で言わないでくださいね」


 厳格な彼のことだ。たとえ冗談でも、メルヴィオラの発言に眉を顰めるに違いない。その顔を思い浮かべると少しおかしくて、メルヴィオラはふっと小さく笑ってしまった。

 神官長はメルヴィオラのためによく動いてくれている。前は厳しすぎる彼を苦手だと思っていたが、自分の未来のためにオルトリスにも働きかけてくれる彼には感謝しかない。父親がいたら、こんな感じなのだろうか。そう思うと、メルヴィオラの胸がほんのりとあたたかい色に染まった。


「あと、オルトリスが今後一切あなたに関与しないと宣言しましたよ」

「え!? 嘘! どうやって?」

「ルーテリエルにおこなった過去の非道を黙認するように、との条件付きですが」

「罪を隠し通すってこと?」

「オルトリスはイスラ・レウスと共に、聖女を有する神聖国として知られていますからね。その名を汚すことの方が問題だと思ったのでしょう」


 確かに癒やしを謳う聖女の涙フィロスが、過去のあやまちから生まれたものだと知られれば、その価値はぐんと下がるだろう。聖女の涙フィロスだけで国の資金を賄っているわけではないが、神聖国としてのイメージが下がるのはオルトリスにとって大きな痛手だ。長い目で見て、寿命のあるメルヴィオラより、国の神聖性の方が重要であると判断したのだ。


「聖女については、イスラ・レウスへ一任されました。神官長様なら、あなたを悪いようにはしないでしょう」

「そう……。あとでちゃんとお礼を言わなくちゃ」

「それと一緒に、早速あなたを妻にしたいと申し出た国があるんですが……」

「いやよ」

「即答ですね」

「だって……わかってるでしょ」


 メルヴィオラが誰を思っているのか、パトリックにはわかっているはずだ。ちゃんと言葉にして伝えたことはないが、おそらく神官長も知っている。

 別れてから三ヶ月。連絡一つも寄越さないけれど、メルヴィオラはいつか必ずラギウスが自分を奪いに来てくれることを信じている。はじめて会った時、メルヴィオラを強引に攫ったように。きっと予想もしない登場で、またメルヴィオラを攫ってくれると信じて、今もずっと待っているのだ。


「それが、ヴァーシオン国でも?」

「ヴァーシオンでも嫌なものは嫌。私は……ラギウスを、待っているんだもの」


 思い切ってそう伝えると、予想外といわんばかりにパトリックの目が驚きに見開かれた。


「メルヴィオラ様。……もしかして、彼から何も聞いていないのですか?」

「何って……? ラギウスたちがヴァーシオン出身だってことは聞いてるわ。国に嫁げば会えるかもしれないけれど……それじゃ、意味がないもの」


 聞けばラギウスたちは王命を受けて呪われた魔法具を回収していたという。王命を受けるくらいなのだから、地位もそれなりにあるだろう。もしかしたら城に詰める騎士なのかもしれない。

 でも、ならば尚更のこと、ヴァーシオンの国へ嫁ぎたくないのだ。別の男の妻になった自分を、近くで見られたくなどない。メルヴィオラが一緒になりたいのは、たったひとりなのだから。


「……何をやっている。一番肝心なことを伝えていないのか。馬鹿か」


 パトリックが何か呟いていたが、思考に耽っていたメルヴィオラにはその言葉を拾うことができなかった。何かあったのかと窺い見れば、「何でもありません」とパトリックが冷静を装って苦笑した。


「メルヴィオラ様」


 一歩後ろに控えていたパトリックが、メルヴィオラの前に進み出た。軍人とは思えないほど綺麗な手で、そっと……壊れ物を扱うようにメルヴィオラの手を取って、その指先に小鳥の啄みに似た優しいくちづけを落とす。


「パトリック!?」

「皆に癒やしと祝福を与えてきた聖女メルヴィオラ。今度はあなたが幸せを掴む番です」


 落日に照らされて、パトリックの金髪が濃い蜂蜜色に輝いている。慈愛に満ちたセレストブルーがかすかに細められ、完成された美貌に美しい笑みが浮かぶ。人々の噂の通り、本当に絵本から飛び出した王子様のようだと思った。


「あなたの幸せを、私も、神官長様も願っています。だからもう少し、信じて待っていてくださいね」


 吹き抜ける海風に戯れて、神殿に咲くフィロスの花びらが舞い上がる。メルヴィオラが未だ踏み出せない世界へ、一足先に進んでいく花びらを見つめていると、ほんの少しだけ羨ましいと思ってしまった。


 潮風のにおいは、ラギウスを思い出させる。そういえばこの場所から旅が始まったのだ。

 太陽の沈んだ海はゆっくりと夜を迎えて、その海面のマリンブルーを闇色に染めていく。ラギウスの瞳と同じ色が塗り替えられていくのを見ていると、メルヴィオラは何だかとても悲しい気持ちになってしまった。



 メルヴィオラがヴァーシオンへ嫁ぐことが正式に決まったのは、それから更に一ヶ月が過ぎたあとだった。




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