第44話 奪いに来たぜ、聖女サマ
「おめでとうございます!」
水上都市イスラ・レウス。神殿に聳える大きな聖樹フィロスが、その白い花びらを一斉に青空へ舞い上げる。
街の頂上にある神殿から港へ続く街路の脇に、多くの住民が集まっていた。弾けんばかりの笑顔を向けた先、神官長と海軍大佐を伴ってゆっくりと階段を降りてくる聖女の姿があった。
綺麗に結い上げられた青い髪は白いヴェールに覆い隠され、風に飛ばされないように頭には真珠とサファイアをあしらった銀色のティアラが乗せられている。
手に持つのは、薄い桃色の花とフィロスの花を合わせた華やかなブーケ。ヴェールに隠されて見えないが、いつもよりもしっかりと化粧までされている。
これが何でもない日なら、美しいドレスを身に纏い、綺麗に化粧をした自分に気分が上がったことだろう。
けれど今日は違う。
結婚式だ。メルヴィオラの望まぬ、ヴァーシオン王家との結婚式。
知らない間にヴァーシオンとの話がトントン拍子に決まっており、気付けばメルヴィオラは今ウエディングドレスを着て、港に停泊しているヴァーシオンの船に向かって神殿の長い階段を下っているのだ。
おかしい。
パトリックは自分と神官長を信じろと言ってくれたはずなのに、なぜメルヴィオラの望まない結婚話を相談もせず決めてしまったのだろう。
逃げ出したいのは山々なのに一人ではイスラ・レウスから出ることも叶わず、願い続けた海賊の手も未だメルヴィオラには届いていない。悲しくて、悔しくて。そばに控えるパトリックをヴェール越しに睨み付けても、彼はいつものように穏やかに微笑み返すだけだった。
「裏切り者」
「心外ですね。私も神官長も、あなたのことを思って事を進めたまでですよ」
「嫌だって、言ったじゃない」
「大丈夫。あなたはきっと幸せになれます」
「私は……っ」
「この期に及んで、まだ駄々をこねるとは……大人げない。メルヴィオラ。神殿を離れることになっても、聖女であることを忘れぬように。その言動、立ち振る舞いには常に気をつけるよう心がけなさい」
歩みを止めて振り返った神官長が、相も変わらず厳しい口調で苦言を呈する。
「神官長様……。でもっ」
「おてんばのあなたの相手に、彼は申し分ないと判断した」
その時、ひときわ大きな歓声が上がった。階段の下を見れば、船から降りてくるヴァーシオン国の要人の姿が見える。その顔までは遠くて確認できないが、黒い衣装に黒いマントが翻る姿にメルヴィオラの背筋がぞくりと震えた。
まるで
そばに控えている従者たちも、只者ではない雰囲気が漂っている。一人は騎士だろうか。式典であると言うのに背にはゴツい大剣を背負っており、遠目で見ても鍛え抜かれ過ぎた筋肉がありありとわかる。メルヴィオラなど、片手でひねり潰されてしまいそうだ。
もう一人はフードを目深に被っており、その容姿がまったくわからない。魔道士のようにも見えて、今にも怪しげな術で死者などを喚び出してしまいそうな雰囲気がある。
「メルヴィオラ様?」
すっかり震えてしまった足が、それ以上先に進むことを拒んで立ち止まる。パトリックの声に、前を進む神官長が不審げにメルヴィオラを振り返った。
「神官長様。……パトリック」
足の震えが全身にまで伝わって、手に握るブーケがおかしいくらいにバサバサと揺れる。
ヴァーシオンの王子は階段の下にまで来ていて、メルヴィオラが自由になれる時間はもうわずかしか残されていない。階段を降りてしまえば、メルヴィオラはもうラギウスのものにはなれないのだ。
「……っ、ごめんなさい! 私、やっぱりラギウスじゃなきゃ嫌っ!」
はじめて、聖女としての役割を放棄した。
手にしたブーケを放り投げて、くるりと身を翻す。ドレスの長い
逃げられる場所なんて限られてる。きっとまたすぐにパトリックが見つけにくるのだろう。それでもそのわずかな時間に、もしかしたらラギウスが迎えに来てくれるかもしれない。一度は奪った
――そう、一縷の望みをかけて走り出した瞬間。
「メーファ、出番」
「はーい」
懐かしい声が聞こえたかと思うと、ヴェールを吹き飛ばすほどの風が吹き抜けて。
「きゃっ!」
まるで意思を持ったような風の塊に体当たりされたメルヴィオラの体が、階段の上から小石のように弾き飛ばされた。
わぁっと、群衆の悲鳴が上がる。
驚きに見開いた視界に、どこまでも青い空と、フィロスの花びらを巻き込んでひらりと舞い上がっていくヴェールが見えた。それを覆い隠してメルヴィオラの赤い瞳に映ったのは――あの旅で見た、吸い込まれそうなほどに深く美しいマリンブルー。
「奪いに来たぜ、聖女サマ」
そう言った海賊は、メルヴィオラを横抱きにしたまま、憎らしいほどに清々しく笑っていた。
「……っ!? ラギウス……っ」
「おう。ちょっと準備に手間取ったが、ちゃんと迎えに来てやったぜ」
「え? えっ!? ちょっと待って……ヴァーシオンの王子って……」
「あ。ソレ、俺。言ってなかったっけ?」
「聞いてないわよっ!」
「そっか? 悪ぃ」
悪びれもなく笑うラギウスに、怒りなのか喜びなのかわからない感情があふれてくる。言いたいことはたくさんあるのに、どれから伝えればいいのかわからない。
ずっと待っていたとか。迎えに来るのが遅いとか。馬鹿とか、嫌いとか、待たされすぎてこぼした愚痴なんかもいっぱいある。
でも一番は、言葉よりも直接体に響くラギウスの熱がいい。体を抱きしめる腕の力も、触れ合う肌から伝わる体温も、鼓膜を震わせる声音も。ラギウスの存在を、体ぜんぶで感じていたい。そう思うと、自然と涙がこぼれ落ちた。
「やっぱり、お前は極上の宝だな。今まで見たどんなものより、お前が一番綺麗だ」
「ばっ、ばか! 何言って……」
「特に今日のお前は、他の誰にも見せたくねぇ」
ふっと影が落ちたかと思うと、くちびるに懐かしいぬくもりが落ちる。戯れるように軽く啄んで、触れて。離れるかと思えば、予想外に深く絡みついて
待ち望んだぬくもりに溺れていたいのはメルヴィオラだって同じだが、今は日中で公衆の面前。しかも見通しのよい階段の上だ。次第に冷静さを取り戻すメルヴィオラの耳には、はやし立てる人々の声や口笛が届いてきて。
「ちょ……っと! 人前っ!」
「別に俺は構わねぇよ」
もう何度やったかわからないやりとりに、不本意ながらもメルヴィオラの胸がじんわりとあたたかくなる。
本当に迎えに来てくれた。目の前にいるのは本物のラギウスだ。喜びにさざめく鼓動がうるさくて、ついラギウスのペースに呑まれそうになってしまったが……。
「まったく、君はどこでもサカりすぎだ。少しは自重しろ。恥ずかしい」
「あらン、だいじょうぶよぅ。アタシが背中で隠してあげるわぁ」
「でも気をつけた方がいいよ。お兄さんがすっごい形相でコッチ睨んでるからね」
次々に聞こえた懐かしい声に顔を向ければ、そこには船で旅をした仲間たちの姿があった。
厳つい騎士はイーゴンで、怪しい魔術師だと思っていたのはセラスだ。メーファはいつも通り宙にふわふわと浮いていて、その少し後ろではパトリックが見たこともなほど険しい表情を浮かべて剣の柄に手をかけている。
「皆……来てたのね!」
「ラギウスが羽目を外さないかと目付役で来たが……。すまない。手遅れだった」
「何が手遅れだ、セラス。これでいいんだよ。俺たちはコイツを奪いに来たんだからな」
「略奪ではない。正式に婚姻の手続きを踏みに来たんだ」
「面倒くせぇな。細かいことはお前に任せる。行くぞ、ヴィオラ!」
「えっ、行くって何!? ちょっと待って……!」
そう言うや否や、ラギウスはメルヴィオラを抱き上げたまま階段を一気に駆け下りていく。棚引くドレスの
青空にひらひらと舞い上がるフィロスの花。
階段の上で、呆れたように笑う仲間たち。
街路を走り抜けていくラギウスとメルヴィオラに、祝福のフラワーシャワーが降り注ぐ。
「……ラギウス」
胸いっぱいにあふれる思いは言葉だけでは足りなくて、それはよろこびの結晶として瞳からぽろぽろとこぼれ落ちた。
「好きよ。……だいすき」
そっと頬にくちづけると、驚いたようにマリンブルーが揺らめく。もう狼の耳も尻尾もないけれど、メルヴィオラにはピンッと驚いたように跳ね上がる、かわいい耳が見えたような気がした。
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