第42話 溺れようぜ、ふたりで

 青い海面に、金色の細い波紋が広がっていく。

 妖精の戯れのように、ひとつ、ふたつと水面を彩る波紋と共に、海中からいくつもの真珠の粒が浮かび上がった。

 海面を埋め尽くす真珠の白。きらきらと反射する光を大きく揺らして、今度は白い花を満開に咲かせたフィロスの樹が波を弾いて現れた。ノルバドの遺跡からもよく見えるほどに樹は大きく、海風に乗ってフィロスの香りがパトリックたちのいる場所にまで流れてくる。

 ほのかに甘く、疲れを癒やしてくれるような清浄な香りは遺跡の闇まで浄化して、周辺に蔓延っていた魔物たちが一匹残らず塵と化していく。遺跡の核となっていた黒い巨木も例外でなく、今度はフィロスの樹に力を吸われるかの如く、枝も幹もみるみるうちに萎んで、最後には無残な枯れ木となって果ててしまった。


「うまくいったみたいだね」


 メーファが視線を向ける先、海に聳えるフィロスの樹のそばに抱き合う二人の姿が見える。どこまでくっついているのかはわからないが、とりあえずとても親密そうなので余計な心配は不要だろう。何なら見ているこちらにまで微妙な空気が流れてきたため、「心配して損した」と溜息をついたセラスに続いてメーファたちは先に海賊船へ戻ることにした。


「さみしい?」


 パトリックがまだ海を眺めていると、少し心配げにイーゴンが声をかけてきた。


「さみしい……? そう、だな。……そうかもしれない」


 イスラ・レウスの警護の任に就いてから、パトリックはずっと近くでメルヴィオラを見てきた。聖女というには少し元気すぎるくらいだったが、屈託のない笑顔はとても眩しくて印象的だった。

 聖女の役割に不満を漏らし、神官長に諫められている姿を見たことは何度もある。神殿から抜け出した彼女を探しに行くことも日常茶飯事で、正直最初は振り回されてばかりだった。

 けれど彼女は自分に与えられた聖女の役割を放棄することはなかった。愚痴をこぼすことはあれど、それを役目と受け入れて、「聖女」である自分の価値を貶めないように努めていた。その姿勢に、パトリックは好感を覚えたものだ。


 いつしか護衛対象であるはずのメルヴィオラに、護衛以上の特別な感情を抱いてしまったことはとうの昔に自覚していた。

 それが異性としてなのか、それとも家族に近い親愛の感情なのかは今でもよくわからない。けれどメルヴィオラを聖女としてではなく、ひとりの女性として見ていたことには違いないのだ。


 だから思いを通わせた二人を見ていると、少しだけ息をするのが難しかった。


「メルヴィオラ様は、おそらく最後の聖女になるのだろう?」

「そうねン。ルーテリエルの憂いは取り払われたことだし、きっともう聖女は生まれないと思うわ」


 イスラ・レウスとオルトリスが隠し通してきた、聖女にまつわる過去の悲劇。神官長が秘密を話したことは、きっとオルトリスにも伝わるのだろう。イスラ・レウスは贖罪のつもりで聖女を保護し育ててきたというが、オルトリス王家の考えが神殿と同じであるかどうかは不明だ。


 最後の聖女。しかも、完全にルーテリエルの力をすべて継承した聖女だ。きっと、どの国も諸手を挙げて欲しがるだろう。そのとき二人が何を決断するのか。それを思えば、またパトリックの胸の奥がほんの少しだけ切ない痛みに揺れた。



 ***



 海水は冷たいのに、体はさっきからずっと熱いままだ。抱き合う体も、重ねたままのくちびるも、心の内側でさえあまく痺れる熱に侵されている。

 抱き合ったまま海に沈んで、波に揺らされながら浮上する。重力を感じない水中はふわふわとしていて、まるでメルヴィオラの心のようだ。流されないように繋ぎ止めてくれるラギウスの腕が心地良くて、離れたくないと強くしがみ付けば、応えるように口内をまさぐる舌がより深く絡みついてくる。


 抱きしめる腕の力も、重ね合うくちびるの熱さも。生きているのだと、実感させてくれた。


「ラギウス……、ラギっ」


 自分でも熱に浮かされている自覚はあった。それでも血まみれで動かないラギウスの姿が脳裏にこびり付いていて、抱き合う体に少しでも隙間が空けば途端に不安が押し寄せてくる。


 そんな不安を感じ取ったのか、ラギウスがメルヴィオラの頬を両手で包んで、そのまま額をこつん……と重ね合わせた。

 至近距離で目にしたラギウスの瞳はどこまでも鮮やかなマリンブルーに輝いて、そこにあの恐ろしい死の影はどこにも見当たらない。あるのはただ、熱を孕む愛しい光だけだ。


「ラギ……」


 名前を呼ぶ前に、瞼にくちづけされる。再び視線が絡まったと思えば、今度はひどく優しく触れるだけのキスをされて。


「大丈夫だから、少し落ち着け」


 そう言って、いつものようにニヤリと笑った。


「むしろ、お前のキスで死にそう」

「……っ! なっ、なに……よ! そんなことないもの!」

「激しく求めるお前も好きだが……ひとまず陸に上がらねぇとな。こんな海の中じゃ満足にお前を抱けもしねぇ」

「またっ、すぐそういうことを言うんだから!」

「当たり前だろ。コッチはずっと我慢してんだ。……上がったら覚悟しとけ」


 反論を封じ込めるように深くねっとりとしたキスをされると、急に恥ずかしさが顔を出してくる。さっきまで自分も似たようなキスをしていたくせに、それを思うとラギウスの顔を正面から見ることができなくなってしまう。

 けれど頬を包む両手はまだそこにあって。苦肉の策として視線だけを逸らせば、ラギウスの頭に――ふと違和感を覚えて目を丸くしてしまった。


「……ラギウス、なくなってる」

「あ?」

「狼の耳がなくなってるわ」

「海底のフィロスを祈花きかして、完全な聖女になったってわけか。そういや涙じゃなくても癒やしの力が効いたな」


 ラギウスを死の淵から戻したのは、涙ではなくキスだ。愛する人にだけ効く、癒やしの力。かつてルーテリエルがそうしていたように、メルヴィオラの癒やしの力もラギウスにだけはキスだけで伝わるのだ。

 力をすべて継承したメルヴィオラにはそれがわかるが、改めてラギウスに言うとなれば途端に恥ずかしさが込み上げて言葉にできない。

 癒やしの力が涙であろうとキスであろうと、ラギウスに対してはどちらも効果を発するのだから、改めて言う必要はないだろう。そう思って閉じた唇を、ラギウスの指がすっと煽情的になぞる。


「んじゃ、お前のキスは俺の特権ってことで」

「知ってたの!?」

「さぁな。ただお前とのキスはやけに気持ちがいいから、もしかしたらと思っただけだ。前にした時と全然違う。触れ合えば触れ合うほど、体の奥が優しい熱に満たされる。あまくて、とろけそうだ」


 頬を両側から包まれたまま、至近距離であまくささやかれる。どうにかなってしまいそうな体を必死に反らすと、とん――とメルヴィオラの背にフィロスの樹の幹があたった。

 行き止まりだ。そう思うとすぐにラギウスが覆い被さってきて、メルヴィオラはちょうどいい感じに傾いた幹に仰向けに押し倒されてしまった。


「ちょっと、ラギウス! ここ、海の中!」

「別に構わねぇよ」


 何だか前も似たようなやりとりをした気がする。そう意識を逸らした隙に、また唇を塞がれた。飽くことなく、角度を変えて何度でも。こぼれる吐息すら貪って絡み合う。


「……待って。ホントに落ちて溺れちゃう……!」

「溺れようぜ、ふたりで」


 青い空に、満開のフィロスの花が舞っている。まるで祝福みたいにひらひらと舞う花びらを背に、水の滴る赤髪を掻き上げて笑うラギウスがとても綺麗で――。


「……もう……とっくに溺れてるわよ」

「奇遇だな。俺もだ」


 誘われるがまま瞼を閉じると、ほろりとひとつ涙が落ちる。

 聖女メルヴィオラの赤い瞳からは、もうかなしみではなく喜びの涙しかこぼれなかった。



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