第41話 勝手にいくなんて許さないわ

「ヴィオラっ!? どこ行くの!」


 イーゴンが止めるのも聞かずに、メルヴィオラは巨木の根にぽっかりと空いた空洞へと近付いていた。奥の見えない空洞は既に海水で満たされており、今もなお足元を冷たく濡らしている。


「ラギウスを連れ戻しにいくわ」

「海水に満たされた中へどうやって行く? 考えもなしに行動するのはラギウス一人でじゅうぶんだ。そんなところまで似ないでくれ」


 語気を強めるセラスだが、そこにはメルヴィオラを心配する気持ちが滲み出ている。それはイーゴンやパトリックも同じで、メルヴィオラが一人で空洞へ入ることを良しとはしなかった。

 けれどただ一人、メーファだけが銀色の瞳を細めて静かにメルヴィオラを見つめている。メルヴィオラの中に宿る聖女の力を、見極めているようでもあった。


「お姉さん……たぶん、大丈夫だと思う」

「メーファまでなんてこと言うのよ! ヴィオラを死地へ送り出すつもり!?」

「その死地から、ラギウスを連れ戻してくれるんでしょ。たぶん、お姉さんじゃないと見つけられないと思う」


 死地という言葉を口にしてしまった自分に、イーゴンが青ざめた顔で口元を覆った。知らずと忍び寄っていた諦念ていねんを追い払うように頭を振って、メルヴィオラとメーファを交互に見る。二人の顔に、諦めの色はまだ浮かんではいない。


「お姉さんとルーテリエルを繋ぐ細い糸みたいなものを感じるよ。お姉さんはどう? 何か感じてる?」

「うん……たぶん、言ってることはわかる気がするわ」

「そうは言っても、水の中だぞ? メルヴィオラが目覚めたということは、ルーテリエルも魔石から解放されたのだろうが……依然としてこの地にはまだ魔物が蔓延っている。そんな中、ましてや海中にひとりで行くなど」

「あぁん、もう! セラスうるさい!」


 なおも延々と喋り続けようとしていたセラスを、メルヴィオラが一喝する。まさかメルヴィオラがそう言うとは誰も思っていなかったようで、セラスをはじめ皆が一瞬ぽかんと口を開けて呆然としてしまった。


「心配してくれるのは嬉しいけど、私は大丈夫だから! それに今は一秒でも時間が惜しいの。早くラギウスを助けに行かなくちゃ」

「それは……そうだが」

「ラギウスを連れて、絶対に戻ってくるわ。今なら私、行けそうな気がする」

「そのセリフには心配しかないんだが……」


 最後にそう呟くも、セラスはもうメルヴィオラを止めることはしなかった。

 憂いの消えない表情で、でもみんな黙ってメルヴィオラを送り出そうとしている。信じてくれるその思いを胸に、メルヴィオラも自身の感覚を信じるしかないと、覚悟を決めて――微笑んだ。


「行ってきます!」


 ぱしゃんと足元の水を弾いて、メルヴィオラは空洞の中へ歩を進める。すると中に溜まっていた海水が両脇に高く跳ね上がり、まるで獲物を引き込むようにして暗い水底へとメルヴィオラを連れていってしまった。



 ***



 こぽ……。

 こぽりと、泡の弾ける音がする。

 ゆっくり瞼を開けると、少し暗い青に染まった世界がメルヴィオラを包んでいた。揺蕩う真珠の粒がぱちんと弾けて、淡い光の粒子を海中に漂わせていく。

 陽光は届かないのに、何の光に反応しているのか。弾けた真珠の粒子は青い海にきらきらと光を反射させながら、波に揺蕩い右へ左へ流されて。やがてそれは細い撚糸よりいとのように一本に纏まって、暗い海底へと伸びていく。


 この先に、ラギウスがいると確信した。そう思えば体は軽やかに動き、メルヴィオラはまるで人魚にでもなってしまったかのように海中を滑らかに泳いでいく。

 海中なのに、呼吸は普通にできていた。視界の端に見える魔物も、こちらまで襲ってくることはない。不思議だとは思ったが、その理由を深く考えるまでもなかった。

 四カ所の聖地に残されていた力が、体の中でひとつに纏まっているのを感じる。おそらくはそれが、海中でメルヴィオラが生きていられる答えなのだろう。


 でも、何かが足りない。

 そう思った瞬間、メルヴィオラは唐突に理解した。

 ルーテリエルの残した力の残滓は、もうひとつあるのだと。



 ――かえして。かえして。わたしを、かえして。



 海底へ近付くたびに、体の中に響く声が強くなる。

 どんどんと暗くなる海の中、光を放つのは真珠の撚糸よりいとと……海底でチカチカと白く光る魔法具の灯りだ。その光をしるべにして辿り着いた先に、一本の古びた樹が立っていた。

 枯れた枝にぶら下がっているのは、金色の宝冠。ひとつだけはめ込まれていた赤い宝石は砕け散って、その残骸が樹の根元に落ちていた。


 否。

 落ちているのは宝石ではない。それは血だ。赤く棚引く鮮血が、樹の根元を赤く染め上げていた。


『ラギウスっ!』


 思わず叫んだ声は音にならず、それは海中を漂う血の糸を揺らすだけだった。


 ラギウスは樹に背を預けるようにして座り込んでおり、メルヴィオラが何度揺すっても目を開けることはなかった。

 触れた頬が冷たい。海水の冷たさなのか、失われていく命のせいなのかはわからない。呼びかけることができず、歯がゆい思いに今度は体を強く抱きしめれば、力のないラギウスの頭がことんとメルヴィオラの肩に寄りかかった。


『だめよ……。勝手にいくなんて許さないわ』


 強く抱きしめて、メルヴィオラは祈る。ここに最後の力が眠っているのなら、この樹はフィロスだ。フィロスならば、メルヴィオラの祈りが届くはず。


 帰りたいのなら、奪わないでと。

 いとしい人をうしなうかなしみを、あなたは誰よりも知っているはずだと。

 そう強く、声なき声が届くように心から願う。


 はらはらとこぼれ落ちる、メルヴィオラの真珠。海に溶けて、ほどけて、小さな光の粒子となり、それは枯れ木の細い枝に引き寄せられるようにして絡みついていく。


 まるでフィロスの花だ。

 そう思った瞬間――枝を飾る光の粒子が一斉に花開く。


 暗い海底を照らすように、涙を白いフィロスの花へ変えて。

 海底にひっそりと立っていた最後の樹が、永い時を経て初めての花を咲かせた。



 ――ありがとう。


 声がする。

 それがルーテリエルだと確信して顔を上げると、メルヴィオラの前に淡く光を放つ美しいフィロスの樹が立っていた。


 ――ありがとう、「あなた」。もうひとりの「わたし」。


 海流が、まるで風のようにフィロスの花を揺らしていく。届くはずのない花の香りと一緒に、体の中へ最後の力のかけらが流れ込んでくるのがわかった。

 やさしくて。せつなくて。少しだけ苦しい。

 心の奥を震わせる不思議な力を感じて、メルヴィオラは無意識に目を閉じた。何をすべきか、体の方が知っている。


『生きて』


 音のないささやきは、静かに重ねられたくちびるの奥に消えていく。


 生きて。

 生きて。

 死なないで。


 抱きしめる体も、重ねたくちびるも、ただただ冷たいだけだ。けれどメルヴィオラは信じている。自分に宿ったルーテリエルの力を。涙より強い癒やしを、たったひとり、愛するひとにだけ与えられることを。


 青い海の中、揺蕩う真珠と白いフィロスの花びらに包まれて、メルヴィオラは命を吹き込むようにくちづける。深く、長く。死なないでと、強く願いを込めながら。



 どれくらいそうしていたのだろう。

 長いようで、一瞬だったかもしれない。

 

 ふと、波が揺らぐのを感じた。

 かと思うと、ぐっと背中と後頭部に腕が回され、メルヴィオラはくちづけを続けたままの状態で抱きすくめられてしまった。

 誰に、と考えるまでもない。見開いた視界に映るいとしいマリンブルーが、メルヴィオラを確かに、しっかりと見つめ返していた。


『ラギ……』


 声を発そうとして、再び、今度はラギウスの方から強くくちづけられた。

 波に揺られるがまま、抱きしめ合って海に溶けていく。そんな錯覚をするほどに、重ねたくちびるはあまく優しく、あたたかかった。


 海底で咲くフィロスの樹が、海に漂う二人を祝福するように花びらを散らしていく。ルーテリエルをこの地に留めていた枷は、もうない。体を封じていた魔石は壊れ、帰りたいと嘆いて花をつけるフィロスの樹は役目を終えた。

 それでも最後に青空が見たいと願うように、海底の樹はみるみるうちに成長し、メルヴィオラたちを絡め取りながら海上へとその枝をいっぱいに広げたのだった。

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