第40話 連れていってやるよ
宝冠に触れた瞬間、ラギウスの中に女の声が響き渡った。
青い海を揺蕩う、海と同じ色の髪をした女。ルーテリエルだ。
海へ投げ捨てられた宝冠は、いつか祖国へ帰ることを夢見て、海底に祈りの種を撒く。それは一本の樹となって、花をつけるように真珠の涙をこぼした。
真珠に込められたルーテリエルの思いは海を漂い、無作為に命を選んだ。それは真珠を食べた魚を介して、人の中へ宿り、新たな聖女を生む。
願いが届かずとも、何度でもくりかえし、くりかえし。聖女の寿命が尽きれば、また海底の樹が涙を流す。そうして生まれる聖女は、けれどもルーテリエルの思いとは裏腹にイスラ・レウスで管理され、再び癒やしの力を与えるための道具になってしまった。
それでも魔石に残った思いは、永遠に続く。
くりかえし、くりかえし。聖女を生んでは、ただひたすらに願う。
聖女たちが祈花の儀式で見る彼女は、魔石に残されたルーテリエルの願いの残滓だったのだ。
「ラギウスっ!」
緊迫したパトリックの声に、ラギウスがハッと目を見開いた。
海の紺碧を映す視界に飛び散る鮮血。目を奪うような赤が自分の血であることを、ラギウスは自身の体に走る激痛で知った。
「がは……っ」
あと少し。手を伸ばせば剣の刃が届く距離で、ラギウスの体は蔓のように伸びた木の枝によって捕らえられていた。触手のように蠢く枝は枯れているとは思えないほど柔軟性に富み、そのうちの一本がラギウスの腹部を貫いている。せり上げる嘔気に咳き込めば、口から大量の血が吐き出された。
「ラギウス、無事か!? 返事をしろっ」
炎の剣を振るうパトリックも、今はウミヘビの魔物によってその場に足止めをされている状態だ。視界の端にちらりと見えた光景も襲い来る魔物の影によって覆い隠されてしまい、現状を把握できない焦りにパトリックの炎が精細さを欠く。その隙を突いて飛びかかった一匹の魔物が、パトリックの右肩に鋭く喰らい付いた。
「くっ!」
肉が裂けるのも構わずに、魔物を鷲掴みにして強引に肩から引き剥がす。辺りに満ちる二人分の血のにおいに興奮した魔物が、声なのか震動なのかわからない音を立てて騒ぎ出した。
「……るせぇ、な」
「ラギウス!」
かすかに拾った声は弱かったが、まだ諦めの色には染まっていない。
「リッキー、作戦変更だ。振り返ったら、そのまま一気に地上へ戻れ」
「何だと!? 君はどうするつもりだ!」
「もちろん俺も逃げるさ。……コイツを、叩っ切ったあとでなっ!」
ラギウスの剣の切っ先が、わずかに宝冠の赤い宝石に触れた。
呪われた魔法具を葬るために作られたのが、ラギウスの持つ
体を拘束していた枝の力がかすかに緩んだ瞬間に、ラギウスが動く。体を捕らえる枝すべてを切り落とす必要はない。ラギウスが自由にするべきは、
「俺を待ってたわりには、随分な仕打ちじゃねぇか」
腹を貫かれた激痛に汗を滲ませながら、それでも口元に浮かぶ微笑は消えない。
「連れていってやるよ。お前の帰りたい、ヴァーシオンへ」
まるで恋人にむけた甘いささやきだ。
宝冠を見つめるマリンブルーに憐れみや恐れと言った感情はなく、ただどこまでも優しくて。そのまなざしに触れた赤い宝石が、目を覚ましたようにキラリと光を反射した瞬間。
ラギウスの持つ
***
ずっとせき止められていた水が、暴力的な速さで押し寄せてくるような感覚だった。渇いた心に染み渡る優しいさざなみなどではない。それはまるで、すべてを飲み込んで荒れ狂う洪水といってもいいほどだ。
かなしみも、憎しみも。つらく苦しい記憶も、全部剥ぎ取って連れていく。体に、心に纏わり付いていた黒い靄を失って、ずっと捕らわれていた闇の中から本当の姿が剥き出しになる。
頬に触れた清浄な水の感触に意識をぐんっと引き寄せられ、メルヴィオラはベッドから転がり落ちる勢いで飛び起きた。
「ラギウスっ!」
ぐらりと傾ぐ体を支えてくれたのはセラスだ。メルヴィオラがいきなり飛び起きたので、何かあったのかと険しい顔を向けてくる。
けれどメルヴィオラは、詳しく説明することができなかった。
時間がないことも、行かなければいけないことも理解しているのに、その理由がメルヴィオラの中には見つからない。ただ体の奥で、何かがメルヴィオラを急かしている。
「セラス。ラギウスが……っ。私、行かなくちゃ!」
「待て! どこに行くつもりだ!」
「わからない。……でもっ、呼ばれてる気がする」
「そんな曖昧な感覚で、君をノルバドの遺跡へやるわけにはいかない。私はラギウスから、君を任されているんだ」
メルヴィオラが原因不明の焦りを覚える傍ら、セラスも肌をちくちくと刺すような嫌な気配を感じている。けれども非戦闘員のセラスでは、メルヴィオラを連れて魔物の蔓延る遺跡を奥へ進むことはできないのだ。
せめてメーファが残ってくれていればとも思ったが、同じ精霊の末路に彼自身も思うところがあったのだろう。今回ばかりは自分から率先して、ノルバドの遺跡へ同行すると告げたのだった。
「せめて外を見せて。甲板に出てもいいわよね?」
それくらいならとセラスが先に甲板に出たところで、見計らったかのようにメーファの声が頭上から降り注いだ。
「あっ、セラス! お姉さんは!? 精霊の波動が変わったから、もしかしてと思って来てみたんだけど」
「メーファ!?」
「お姉さん、起きてるよね!? 今すぐ連れていきたいんだけど、いい?」
「待て。一体何が……」
「説明してる時間がもったいないよ。二人まとめて連れていくから、僕の手につかまって!」
しゅるりと白い風が絡みついたかと思うと、メーファの幼い体が
眼下に広がるのは黒い大樹と、その根を張り巡らせて地を固めたノルバドの遺跡。空から見下ろせば、それが変形した巨大な一本の樹であることはメルヴィオラにもわかった。
とてつもなく大きな樹だ。葉の一枚もない枝には、闇から生まれたような鳥の影がびっしりと群がっている。それらは近付くメルヴィオラたちを見て一斉に襲いかかってきたが、メーファの風によってあっけなく細切れにされてしまった。
その残骸がはらはらと落ちる先、大樹の根元にイーゴンと――横たわるパトリックの姿が見えた。
「ヴィオラ!」
「イーゴン、お兄さんの様子は? まだ意識は戻らないの?」
「肩の噛み傷が呪いも含んでるみたいで……右腕のほとんどが壊死しかけてるのよ。うっすら目は開けるけど、意識は曖昧だわ」
右肩に巻かれた布は既に血でぐっしょり濡れている。治療の際に袖を破いたのか、剥き出しになったパトリックの右腕は肘の辺りまで黒く変色していた。
傷付いたパトリックを目にすると、祈るまでもなくメルヴィオラの瞳が涙に濡れる。こぼれ落ちた
一瞬飲み込めないのではと心配したが、どうやら口に入れた瞬間に真珠は溶けていったようだ。苦しげに眉を顰めるパトリックの表情はすぐに和らぎ、黒色に変化していた腕も波が引くように元通りに戻っていく。
四カ所の聖地に残されたルーテリエルの力をすべて取り戻しただけあって、メルヴィオラの癒やしの力は今までよりもはるかに強くなっている。治癒にかかる時間も短く、パトリックの肩には傷跡ひとつ残っていない。それに澱んだ空気すら浄化しているようで、魔物たちは一定の距離を置いてこちら側へは近付くことができないようだった。
「……メル……ヴィ、オラ様……っ!」
うっすらと目を開けたかと思うと、パトリックが物凄い勢いで飛び起きた。案の定ぐらりと傾いた体を、イーゴンが咄嗟に受け止めて支えてやる。
「急に動いちゃだめよン。傷はヴィオラが治してくれたけど、体力は消耗してるはずだから」
「……私だけか?」
「え?」
「戻ったのは、私だけか? ラギウスは……」
「巨木の根から大量の海水が溢れ出したかと思ったら、一緒にお兄さんが飛び出してきたんだよ。でも……ラギウスは、ここにはいない。――中で何があったの?」
訊ねておきながら、それがいい内容ではないことをメーファ自身も何となく察していた。一緒に降りたパトリックが呪いの傷を受けて戻ってきたのだ。青ざめているパトリックの様子からもそれが伝わって、メルヴィオラは無意識にスカートの裾をぎゅっと握りしめてしまった。
「宝冠の魔石をラギウスが砕くのを見た。それと同時に海底の空間が壊れ、私たちは波に……」
途中まで、ラギウスと一緒に地上を目指して走っていたはずだと、パトリックは朦朧とする意識の中でかすかな記憶を手繰り寄せる。迫り来る波に追いつかれないように、なおも襲いかかる魔物を薙ぎ払いながら、ただひたすらに走る。
互いに深手を負っていたが、重傷なのは腹に穴の開いたラギウスの方だ。それなのに彼は魔狼の身体能力を最大限に引き出して、パトリックを肩に担ぎ上げたかと思うと一気に木の根を駆け上がったのだ。
そして気付けば、戻った地上にはパトリック一人しかいない。
ラギウスは――波に飲まれてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます