第37話 あぁ、そういうことか

 かえりたい。

 かえりたい。


 メルヴィオラから涙がこぼれ落ちるたびに、ルーテリエルのせつない叫びが聞こえてくるようだ。

 人を愛し、相当の覚悟を持って人間の世界へ来たはずのルーテリエル。しかし彼女の幸せが長く続くことはなく、愛したひとも精霊としての力も失って、最後は意思すら持たない道具に成り果てる。

 幸せだった頃へ戻りたいと。海へ、祖国へ帰りたいと涙を流すルーテリエル。彼女の力を受け継いで誕生する聖女の瞳が赤いのは、悲しみと絶望に涙を流し続けているからだ。


「魔石に封じられたルーテリエルは、宝冠の形をしていたと記されている。そしてそれを頭に被らされていたのは、親のいない孤児だったと。……その女児らが、聖女のはじまりだ」


 話の凄惨さにラギウスが眉を顰め、イーゴンは口元に手を当てて目を見開いている。パトリックも初めて聞く話のようで、剣の柄を握る手がわずかに震えていた。

 冷静なのはセラスだけだ。とは言っても表情を変えていないだけで、セラス自身も暴露された聖女の成り立ちに驚いているのは間違いない。その証拠に、さっきから何度も眼鏡のブリッジを上げている。


「イスラ・レウスが聖女のことを秘匿するのは、後ろ暗い過去があったからか。イスラ・レウスがオルトリスの自治区であると言うのなら、もしかしてルーテリエルに執着したその男というのは……」

「オルトリス王家の始祖になる」

「やはりな。オルトリスとイスラ・レウスは、聖女のことを秘密にすることで自分たち祖先の罪も隠し通していたということか」

「……なら、ルーテリエルの魔法具は、イスラ・レウスにあるの? それともオルトリス? どっち?」


 不意に割って入ったメーファの声が、少年とは思えないほどに低い。神官長を見る銀色の瞳にいつもの気だるさは微塵もなく、底知れない不気味さが濃度を増していた。

 静かな怒りを燻らせているのが容易に見て取れた。流れる海風とは違って、辺りにピリピリとした不快な風が舞い、足元に絡みつくようにして澱んでいく。


「ルーテリエルを魔石に封じた魔法具は、イスラ・レウスにもオルトリスにもない」


 怒れるメーファをまっすぐに見て、神官長が緩く首を横に振った。


「孤児を何度も聖女に祭り上げていくうちに、いつからか聖女の精神が壊れ始めてきたのだ。それについては、君たちの方が詳しいだろう」


 魔石に封じられた精霊が穢れていき、やがてそれは呪われた魔法具になる。ルーテリエルの現状を思えば、彼女が穢れていくのに時間はそうかからなかったと予想がつく。


「ルーテリエルを封じた魔法具は海へ弔われたと記されてあったが、実際は投げ捨てられたのだろう。ノルバドの遺跡ができた時期が、同じであるからな」

「ノルバドの遺跡だと!? 俺たちが回収するはずの魔法具は、まさかルーテリエルの……?」

「その可能性が高いから、こうしてイスラ・レウスに伝わる秘密を話している。もしそうなら、はるか昔からルーテリエルはノルバドの遺跡に捕らわれたままだ。私は罪を犯した者の末裔として、せめて新しく生まれてくる聖女を大事に育てることを使命としていたが……どんなに手を尽くしても、ルーテリエルの力は継承されてくる。それはおそらく、海に溶けた彼女の力――あるいは嘆きが、完全に消えていないからではないかと推測している」

「最初は魔法具でむりやり孤児を聖女にしていたものが、魔法具を失ったあとで、今度は自然と聖女が生まれてくるようになったと……? 妙だな?」


 神官長の話に、真っ先に矛盾を感じたのはやはりセラスだ。ルーテリエルの力は魔法具の酷使によって穢れ、そして海へ投げ捨てられている。新たに孤児を聖女に祭り上げることはできないし、ならば新しい聖女はどうやって自然に生まれてくるのか。


「――あぁ、そういうことか」


 セラスの思考を遮って響いたのは、やけに大人びたメーファの声だった。見れば彼は、いつの間にか白い花咲くフィロスの枝に座って、そこから海を眺めている。


「メーファ?」

「海だよ」

「海?」

「そう、海。お姉さんは海に入ることで自分を癒やすことができるんでしょ。それってつまり、ルーテリエルも同じだってこと。海へ投げ捨てられた魔法具……魔石のルーテリエルって言った方がわかりやすいかな。彼女は海に投げ捨てられたことで、少しだけ穢れを浄化したんだと思うよ」


 同じ精霊だから、わかるのだ。メーファも疲れた時は、自然と風のよく通る高い場所へ行く。自身の属性と同じ場所で休む方が、心も体も楽になるのだ。


「わずかに取り戻した自我で、自分の分身とも言える聖女が生まれるよう魔法をかけた。それがどんな魔法かはわからないけど、きっとそのせいで聖女が生まれるんだ。そして……たぶん、聖女を通してヴァーシオンに帰りたいと嘆いている」


――かえりたい。


 倒れる寸前、メルヴィオラがそう呟いたのをラギウスは思い出した。

 腕の中のメルヴィオラは、以前として黒い涙を流し続けている。この涙がルーテリエルの呪われた魔法具に由来しているとしたら、彼女が封じられている魔石を無効化することができれば、メルヴィオラは目を覚ましてくれるのだろうか。


 神官長は、ルーテリエルの力とラギウスのヴァーシオンの血が引き合っていると言った。けれど腕に抱いたメルヴィオラは何度揺すっても反応はなく、心の中で繰り返し名を呼んでもそれに答えることはない。


 ヴィオラ。

 ヴィオラ。


 帰りたいのなら、連れて行ってやると。そう強く念じ、思いが届くようにメルヴィオラの体をきつく抱きしめる。メルヴィオラの左耳に唇を寄せて、息を吹き込むように名を呼んだ。その間もこぼれ落ちる涙がラギウスのイヤリングに触れて、黒い牙を模した魔石をかすかに濡らしていく。


 ――きゅ、っと。

 ほんのわずかだが、重ねていた手をメルヴィオラが握り返してきた。


「ヴィオラ!?」


 一瞬目を覚ましたのかと思って顔を覗き込んでみたが、メルヴィオラの瞼は固く閉ざされたままだ。けれど、握り返した儚い力が、まだラギウスの手に残っている。


「……」


 そうだ。

 まだ、メルヴィオラの意識はここにある。

 声なき彼女に応えるようにぎゅっと手を握り返すと、ラギウスはメルヴィオラを両腕に抱いたままゆっくりと立ち上がった。


「行くぞ」


 どこに、とも言わないし、どこへ、とも聞かない。

 セラスは短く息を吐き、イーゴンは拳を握りしめた右腕をぐっと持ち上げて、メーファはやる気ない様子でフィロスの樹から降りてくる。さすがに状況を察したパトリックが焦ったように行く手を阻んでも、ラギウスは歩みを止めることはなく、神官長さえ追い越して海岸へと下っていった。


「ラギウス! 少し落ち着くんだ! 君の呪いは完全に溶けてはいないんだぞ。今またノルバドの遺跡に向かえば、二重の呪いを受けるかもしれない。今度こそ完全に魔狼に成り下がってしまうかもしれないぞ!」

「何だよ、リッキー。そんなに心配するほど、俺のことが好きかよ?」

「冗談を言っている時ではないっ。焦って事を起こすなと言っている!」

「別に周りが見えてないわけじゃねぇ。ヴィオラのことは心配だが、頭ん中はいつも以上に冷静だ」


 一旦歩みを止めたラギウスが、肩を掴んで引き止めてくるパトリックの方を振り返った。ぶつかり合ったふたつの青。パトリックのセレストブルーを塗り替えて、ラギウスのマリンブルーが強気に煌めく。


「俺たちの目的がヴィオラを救うことに繋がるのなら、別に迷う必要はねぇだろ」


 ニッと笑って再度歩き出したラギウスに続いて、セラスたちもパトリックを追い越して船へ戻っていく。


 ノルバドの遺跡は魔物の巣窟として知られる危険区域だ。それにオルトリスが立ち入りを禁止している場所に、海軍大佐であるパトリックが無許可で踏み入るわけにはいかない。

 わかっているのに、パトリックの足はラギウスの後を追おうとして、そしてそれ以上先へ進むことができずに坂の途中で立ち止まってしまった。


「大佐殿」


 いつの間に隣へ来ていたのか、神官長がパトリックを見つめたまま小さく頷いた。


「今の貴公は聖女メルヴィオラの護衛の任に就いている」


 告げられたのはたった一言だったが、それはパトリックの背を押すのには十分過ぎるものだった。ハッと目を瞠り、神官長の正面に向き直ると、背筋を伸ばして敬礼する。


「任務を全う致します」

「聖女をよろしく頼む」

「はっ!」


 軽く一礼して素早く身を翻すと、パトリックは急ぎ足で坂を下っていった。

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