第35話 かえりたい

 メルヴィオラとラギウスが二人揃ってずぶ濡れで戻ってきたのを見て、セラスは一言「イチャつくのもほどほどにしろ」と無表情で呟くだけで特に詮索はしてこなかた。

 エトル釣りから戻ってきたイーゴンは何を言わずともすべてを悟ったように微笑み、パトリックはバスタオル一枚のメルヴィオラを見て顔を青くさせたままラギウスに詰め寄っていた。その間にメーファが干してあった服を乾かしてくれたので、メルヴィオラはやっと心許ないバスタオル一枚の格好から解放されたのだった。


 夕食には釣ってきたばかりのエトルの香草焼きを皆で食べて、火を囲みながら食後のお茶を飲む。いつの間にか空には眩いばかりの星屑が煌めいていて、明るい月光の下でいつものように酒盛りが始まっている。

 ラギウスとの関係が変わった夜ではあったが、当の本人は特に言及することもなかった。けれども微妙な空気の変化はイーゴンたちも……パトリックでさえ、どことなく気付いているような気がする。そのうちメーファ辺りに問い詰められる気がしたので、メルヴィオラは早々にテントに戻って休むことにした。


 テントまで送ってくれたパトリックが、最後まで何か言いたそうにしていたのを、メルヴィオラは欠伸をかみ殺すふりをして見なかったことにしてしまった。

 彼の杞憂が何を思ってのことなのか、メルヴィオラには何となく予想がついている。


 聖女と海賊。

 祈花きかの旅を終えれば、メルヴィオラは正式な聖女としてイスラ・レウスへ帰還する。そして聖女としての役目を、イスラ・レウスで果たさなければならないのだ。

 いずれヴァーシオンへ戻るというラギウスについてきたい気持ちはあるのに、聖女としての自分が枷となってイスラ・レウスから動けない。互いの思いが通じ合っても、その先に立ちはだかる壁を超える術を、メルヴィオラはまだなにひとつ持っていないのだ。


 けれど、いまだけは。

 今夜だけは、重ねたくちびるのあまさに酔いしれていたかった。



 ***



 翌日の昼過ぎに、海賊船はローレインの墓所へ向けて出港した。本来ならば、ここからローレインの墓所へは二日ほどかかるらしい。けれどもこの船にはメーファが乗っているので、明日の朝方には到着する予定だ。本人は「過重労働はんたーい」と叫んでいたが、風はしっかり喚ぶので船は順調に進んでいく。

 特に問題もなく、予定通り翌日の朝に、船はローレインの墓所を目視できる海域まで到着した。


 ローレインの墓所は、エムリスの孤島よりもはるかに小さい島だった。イダ島より小さいかもしれない。島と言うよりは少し大きい岩山がぽつん、と海に浮いている感じである。


 遠目で見ると白い岩山のように見えたローレインの墓所は、けれど上陸してそうではないことに気付く。島全体が、白い小さな花で埋め尽くされていたのだ。

 その中に一本だけ聳え立つ、フィロスの樹。白い花に埋もれて、根元には聖女の涙フィロスが敷き詰められている。

 他の聖地では陽光を浴びてまろやかに光り輝く真珠が、この場所だけはくすんだ白に染まっていた。


 なぜなら、ここに日は差していないのだ。この場所だけ、なぜか風にも流れない薄雲がずっと空に居座っている。気温はぐっと下がり、吹き荒ぶ風が悲鳴のようにも聞こえた。


「……さみしい場所ね」


 船から降りて、メルヴィオラが最初にこぼした言葉はそれだった。雨こそ降っていないが、ずっと頭上にある曇天が心まで暗くするようだ。


「ここはずっとそうだ。何でかはわからねぇけどな」

「墓所って言うくらいだから、昔は誰かのお墓だったのかもしれないわねン。メーファは何か知らないのン?」


 イーゴンに話を振られたメーファは、彼の頭の上で頬杖をついたまま首を横に振っている。


「僕を年寄り扱いしないでくれる?」

「一番の年長者だろうが」

「精霊に対するへんけーん!」


 そのやりとりに加わることなく、セラスは少し離れたところにしゃがんでいた。浜辺の砂浜以外、地面にびっしりと群生している白い花をじっと見つめていたかと思うと、その一輪を摘んで匂いを嗅いでいる。


「そもそも精霊が国を出ること自体めずらしいからな。メーファが知らないのも当然だろう」


 摘んだ花を持って戻ってきたセラスに、メーファが心外だと言わんばかりにやわらかい頬をぷうっと膨らませた。反論のようにばたつかせた手足が、容赦なくイーゴンの顔と後頭部を攻撃しているのに、誰もそのことについては突っ込まない。


「誰も知らないとは言ってないでしょー。興味がないだけだよ」

「ものは言い様だ。とにかく……やはりこの島は名前の通り、墓のようだな」


 眼鏡をくいっと指で押し上げて、セラスが摘んできた白い花を皆に見えるように差し出した。白い花の花心は薄い水色で、何だか涙のようにも見える。


「これはレーシアの花だ。死者を弔う花として昔はよく使われていたらしいが、近年ではもう絶滅したとも言われている」

「それが何でこの島に咲いてんだよ。めずらしい花をひとり占めして、教会が私腹を肥やしてるってこともあり得るんじゃねぇのか?」


 含みのある笑みを浮かべたラギウスだったが、パトリックが反論する前にセラスの静かな声が二人の間に流れた険悪な空気を強制的に押し止めた。


「それはない。この花は手折ると、そう時間はかからず枯れてしまう。死者を弔う花とは、よく言ったものだ」


 セラスの言葉の通り、彼の手の中で白い花が見る間に萎んでいく。水分を失い、カサカサになった花びらは先から風に崩れ、跡形もなく空に舞い上がって消えていく。セラスの言うように、旅立つ死者を送る弔花そのものだ。

 一人で旅立つ死者がさみしくないように。後に残る者の思いを連れて行ってくれるように。


「ヴィオラ?」


 舞い上がったレーシアの花びらを見上げていると、不意にラギウスの驚いた声に名を呼ばれた。


「何? どうかした?」

「何って……お前、なんで泣いてる?」

「……え?」


 指摘されてはじめて、メルヴィオラは自分が泣いていることを知った。ぽろぽろと止めどなくこぼれる涙は、特に祈りを込めていなくても真珠の粒へと変化している。聖女の力が強まったせいなのだろうか。

 わからない。けれど、ひどく胸が締め付けられる気がする。


「わたし……どうして……?」

「メルヴィオラ様。気分が優れないのでは……?」

「そうねン。船に戻って、少し休んだ方がいいかもしれないわン」


 腕を引こうとするイーゴンの手をすり抜けて、メルヴィオラがふらりと歩き出した。


「ヴィオラ!?」

「祈らなくちゃ……」

「祈るって……ちょっと待て!」


 後を追うラギウスの行く手を阻むように風が吹き、白いレーシアの花びらが舞い上がる。まるで白く煙る雪にも似て、視界を遮られたその一瞬にメルヴィオラは島の上に立つフィロスの樹へとどんどん一人で進んでいく。


「ヴィオラっ!」


 ラギウスの声は、はっきりと聞こえていた。自分が歩みを止めるべきなのも。

 けれど体の支配は既にメルヴィオラの意思を離れていて、意識はあるのに自分ではどうすることもできなかった。


 ラギウスのところへ戻りたい。

 フィロスの樹に祈りを捧げなければ。

 怖い。

 あなたのために祈らなければ。

 かなしい。

 安らかな眠りを。

 かえりたい。

 あなたと一緒に、かえりたい。


 フィロスの樹の下にひざまづいたかと思うと、メルヴィオラはそのまま地面に突っ伏して、声を上げて泣き叫んだ。祈りとはほど遠い、ただの慟哭。それでも頬を伝う涙は真珠へ変わり、それは瞬く間にメルヴィオラのうずくまる場所を埋め尽くしていく。


 脳裏に浮かぶ、青黒い海の底。

 膝を抱えてうずくまっていた女性が体を起こして、こちらを見る。

 その腕に抱きかかえられていたのは、ひとりの見たこともない青年だ。


『ローレイン』

 

 青年の名を呟いたのが、女性なのかメルヴィオラなのかは、もうわからなかった。

 声に合わせて、青年の体が泡にほどける。まるでレーシアの花びらのように、はらはらと海に揺蕩たゆたい消えていく。


『かえりたい。祖国へ……ヴァーシオンへ、かえりたい』


 胸を埋め尽くすのは深い悲しみだ。けれどその奥に隠されたどす黒い感情を見つけた瞬間、メルヴィオラは弾かれたように海の夢から目を覚ました。


 霞む視界に、満開のフィロスの樹。ぐらりと傾いだ体を抱きとめてくれたラギウスが、心配そうにマリンブルーの瞳を見開いている。その色に自分が帰るべき場所を見たような気がして、メルヴィオラの赤い瞳からまたひとつ涙がこぼれ落ちた。


「……かえりたい」


 今まで深層で見ていた女性が口にしていた言葉を、今度はメルヴィオラ自身が自分の言葉で呟いた。

 その瞬間、まるで世界が塗り替えられたかのように、メルヴィオラの意識が深い闇の底へと引きずり落とされてしまった。




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