第34話 俺に全部奪わせろ

 腰を攫った腕は力強く、どう足掻いても逃げられそうになかった。けれど今は真正面から顔を見る勇気もなくて、ぐいっと引き寄せられた瞬間にメルヴィオラは手に持っていたタオルをラギウスの顔めがけて押し付けてしまった。


「ぶっ!」


 その拍子に若干緩んだ腕からするりと抜け出して、メルヴィオラはまるで野良猫のように川の方へ走り出した。窪んだ水場にはいくつか岩が並んでいて、そこを上手く飛び越えていけば向こう岸に渡れるかもしれない。


「おい、待て! ヴィオラっ!」

「今は無理! ちょっとひとりにして」

「できるか。早くしねぇとリッキーが戻ってくるだろうが」

「別に戻ってきたって……」

「よくねぇ! 二人っきりでいられんのは今だけだ!」


 飛び石をふたつ進んだところで、また腕を掴まれた。ほぼ条件反射で掴まれた腕を強く振り払った瞬間、案の定メルヴィオラは足を滑らせてしまい。


「きゃっ!」

「ヴィオラっ」


 腕を掴むラギウスを巻き込んで、下の水場へと勢いよく滑り落ちてしまった。

 水底に体を打ち付けずに済んだのは思ったより深さがあったこともそうだが、一緒に落ちたラギウスがメルヴィオラの体を守るように抱きしめてくれたことも関係していたようだ。

 冷たい水を全身に浴びて、気持ちが少しだけ落ち着いている。とはいえラギウスの顔を見上げることは、まだできそうになかった。


「……ごめんなさい」

「お前がケガしてねぇなら別にいい」

「もう大丈夫だから、離して」

「ここで離したら、お前溺れんだろ」


 試しにラギウスが腕の力を弱めると、支えを失ったメルヴィオラは口元が完全に水中に沈んでしまった。必死につま先立ちして、何とか呼吸を確保できるくらいだ。


「ほらな」


 抱きしめるための口実を得て、ラギウスがにやりと笑う。脇の下に手を入れられて再度抱き上げられると、メルヴィオラはそのまま川岸へと引き上げられて――そして流れるようにラギウスに押し倒されてしまった。


「ちょっ……と、何よこれ」

「お前、またすぐ逃げるからな」

「逃げな……っ」


 言葉を最後まで言えなかったのは、視界に映るラギウスがひどく艶めいて見えてしまったからだ。水に濡れているだけなのに、逆光に翳る日焼けした肌が妙になまめかしい。赤い髪の先から滴り落ちるしずくがメルヴィオラの頬に落ちて、耳朶をくすぐりながら滑っていく。

 ただの水滴なのに、熱い。熱を持つはずがないのに、メルヴィオラの脳がそれを違うものと認識してしまう。

 たとえばそれは、今朝メルヴィオラの頬に触れた唇のように。


「……っ」


 自分を見下ろすマリンブルーを直視できずに顔を背けると、もう許さないといわんばかりに顎に手を添えられて顔の向きを戻される。


「逃げんな」


 右手で顎を掬われて、左手で手首を掴まれて。まるでラギウスという檻に捕まってしまったかのようだ。

 顎を掴む指先がかすかに動いて、メルヴィオラの喉を掠めていく。それだけで、心臓がうるさいくらいに跳ね上がった。


「さっきの続き、聞かせろよ」

「言わなくてもわかるでしょっ」

「お前の口から聞きたい」

「……っ、ほんっと、意地が悪いんだから!」


 メルヴィオラの気持ちを知って優位に立ったつもりなのか、ラギウスの顔には余裕の笑みが戻っている。勝負しているわけではないが、何だか負けた気がして悔しいとさえ思った。それが恥ずかしさの裏返しだということは、もうメルヴィオラもとっくに自覚している。


「私ばっかりずるいわ。そういうあなたは何も言ってくれないじゃない! どれが本気の言葉なのか、全然ひとっつもわからないわっ」

「心外だな。俺はいつでも本気だったぞ」

「嘘ばっかり! からかって遊んでばかり……」

「好きだ」


 メルヴィオラを見つめるラギウスは、もう笑っていなかった。まっすぐに向けられるマリンブルーはどこまでも透き通っていて美しく、見つめていると本当に海の中へ引きずり込まれてしまったかのような錯覚をしてしまう。

 息が苦しいのは、ラギウスの瞳に溺れているからなのか。それともさっきから鳴り止まない鼓動が、呼吸を邪魔しているのか。メルヴィオラにはもう言い返す気力すらなく、ただ惚けたようにラギウスを見上げるしかできなかった。


「言っただろ。初めてお前を見た時、キラキラした宝みてぇだったって。お前は極上の宝だ。他の誰にも渡したくない」

「……っ」

「俺だけの宝にしてぇんだよ。……だから、俺に全部奪わせろ」


 掠れた声で囁かれた告白は、まるで水のようにメルヴィオラの全身に染み渡っていく。渇いた心を潤して、くすぶる不安を優しく抱きしめて。新しい恋の命を吹き込むように、それはメルヴィオラをあまい熱で包んでいく。そのぬくもりは体すべてを満たしてもなおあふれ、メルヴィオラは視界が幸せの熱で溶けて歪むのを抑えられなかった。


「どうだ? 安心したかよ?」

「で、でも船から降ろすって……言ってたじゃない。私、聞いたもの。夜に皆が話してるの」

「あぁ、あれか……。あれは、別に……本気じゃねぇよ。リッキーもついてきやがったし、もしかしたらイスラ・レウスに戻りたくなったかもしれねぇって。それに……お前、神殿の生活はカタッ苦しくて嫌なんだろ? でも俺を選んでも、たいして変わらねぇなって思ったら……なんっつーか、ガラにもなく尻込みしたんだよ」


 濡れた髪に埋もれるように、狼の耳がぺたんと萎れている。メルヴィオラが不安だったように、ラギウスも同じように思っていてくれたのだろうか。

 いつも、何に対しても強気の姿勢だったラギウスが、メルヴィオラのことに関しては弱気になっている。パトリックの存在に、たぶん嫉妬してくれている。そう思うと、あの夜に感じた不安など跡形もなく風にほどけて消えていくようだ。


「変わらないって……海賊の方が自由じゃないの」

「俺は……俺たちは、ノルバドの遺跡を攻略したら国に帰るんだよ。元々最初から海賊やってたわけじゃねぇしな」

「国って……」


 ラギウスたちの目的は呪われた魔法具の回収だ。魔法具がヴァーシオンでしか作られないのなら、ラギウスたちが戻る国というのは。


「……ヴァーシオンだ。戻れば、もう海へ出ることもないだろう」


 話の流れから何となく予想はついていたものの、実際言葉にされるとメルヴィオラの瞳が自然と驚きに見開かれた。

 秘された国ヴァーシオン。精霊に愛された神秘の国。

 風の精霊メーファを伴っていることも、全属性の魔法を無効化するめずらしい魔法具を持っていることも、セラスの部屋で見た書物も。よくよく考えれば、それらはすべてヴァーシオンに繋がっている。

 ルオスノットへ行く途中、海軍の制服に着替えたラギウスたちを見た時に何の違和感も覚えなかったことも、もしかしたら彼らの素性に関係しているのかもしれない。


「どうして……秘密にしてたの? 国の人間であることも、ヴァーシオンは秘匿にしているの?」

「そういうわけじゃねぇよ。ただ……自由に憧れてるお前が、海賊でなくなる俺に興味を持つとも思えなかったしな」

「何よそれ!」


 確かに何にも縛られないラギウスの生き方に憧れはした。自由奔放な彼に振り回されていくうちに、それを楽しいと思い、いつしか心はとっくにラギウスの方を向いていたのだ。

 どこまでも続く青い海を、風を切って進んでいく。その航海に困難はあれど、隣にラギウスがいるのなら、その困難さえ楽しみに変わるのだろう。

 メルヴィオラが自由を楽しめるのは、ラギウスがいてこそだ。彼のいない自由など、何の魅力も感じない。


「私は海賊じゃなくてあなたを好きになったのよ!」


 自由とラギウスとを天秤にかけられたようで、悔しいと思った。この気持ちは自由が欲しいからじゃない。ラギウスという男が、欲しいのだ。


 わき上がる思いをぶつける勢いで叫んだ後、メルヴィオラは急に冷静さを取り戻してしまった。我ながら大胆なことを言ってしまった気がする。目を見なくても、ラギウスの纏う空気がやわらかく変化したのがわかった。


「そっ、それより! あなた、ヴァーシオン出身だったのね。前にセラスがヴァーシオンに行きたいならあなたに言えばいいって言ってたの、そういうことだったのね。国には結界が張ってあるって聞いたけど、ヴァーシオン国民なら無条件で結界をすり抜けられるの? っていうか、そもそもあなたヴァーシオンで何してるのよ?」


 込み上げる恥ずかしさを忘れたくて、矢継ぎ早に質問してしまう。顎を掬われたままでは顔を背けることもできず、視線だけは重ならないように下の方へ向けていると、意図せずニッと口角を上げるラギウスの唇が目に入った。


「聞きたいことは山ほどあるだろうが、今はちょっと忘れてろ」

「え?」

「好き合ってる同士がこの状況で話す内容でもねぇだろ」


 顎を掴む指先がつぅっと動いて、メルヴィオラの唇をゆるりとなぞる。


「俺はそろそろ、本気のキスがしたい。お前も俺と同じ気持ちなら、もう触れてもいいんだろ?」


 ぽたり、と。頬に落ちる水滴の冷たさに目を閉じた瞬間、それを合図と受け取ったラギウスが、ひどく優しく触れるだけのキスをした。

 思っていたよりもずいぶんと淡いくちづけに、メルヴィオラの体から余計な力が抜け落ちていく。離れていくぬくもりを名残惜しく感じて見上げた瞳に、なぜか少しだけ眉間に皺を寄せるラギウスが映った。


「……だからっ。お前、その顔反則だろ……っ」


 何がと問う間もなく、今度は深く口付けられる。触れて、離れて、まだまだ足りぬと隙間なく絡み合う。息すらできない激しいキスに意識がふわふわと酩酊する。まるで果てのない海を、波に揺られるがまま流されているかのようだ。


 溺れることを望んで。けれど沈むなら二人がいいと。

 そう願いながら、メルヴィオラは無我夢中でラギウスの背中に必死にしがみ付くしかできなかった。




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