第32話 お前は聖女をやめられるか?
部屋に入るとラギウスはまだ眠っているようで、扉の開閉音にわずかに身じろぎをしただけだった。
セラスの助言通り扉は開けたままでベッドに近付くと、半分ずり落ちたブランケットの下から、ほどよく日に焼けた逞しい胸板が見える。だいぶ見慣れた光景になりつつあるが、メルヴィオラがこうしてラギウスの肌を直視できるのは彼が眠っているからだ。
それでも何も身に付けていない上半身はやっぱり目のやり場に困る。メルヴィオラを幾度となく抱きしめた腕も、割れた腹筋も、窓から差し込む朝日に照らされて妙な色気を放っていた。
いつも適当に結んでいる髪は解かれていて、シーツに赤い色を散らせている。夢でも見ているのか、時々狼の耳がぴくぴくと動くものだから、メルヴィオラはつい小さな声を漏らして笑ってしまった。
「ガン見してんじゃねぇよ」
メルヴィオラの笑い声に起きたのか、緩く寝返りを打ったラギウスが、大きく伸びをした後にゆっくりと瞼を開いた。さっきまで深く眠っていたはずなのに、メルヴィオラを見上げるマリンブルーはしっかりと覚醒しているようだ。その証拠に、いつものからかうような笑みが口元を彩っている。
「起きてたのっ?」
「お前が部屋に入ってきた時にな」
だとすればぴくぴくと動いていた耳は夢を見ていたわけではなく、メルヴィオラの動向を探っていたということになる。相変わらず油断ならない男だ。
「わざわざ起こしに来るなんて、何かあったのか?」
「別に何もないわ。ただ、いつまでも寝てると示しが付かないって、セラスが」
「口うるせぇ小舅みてぇだな」
ラギウスがそう言うと、まるで相づちでも打つかのように、開いた扉の向こうから誰かのくしゃみが聞こえてきた。
「ねぇ、早く起きてよ。いつまでもその格好じゃ、目のやり場に困るわ」
「あんまり見るとカネ取るぞ」
「何よ、そんな大層な体でもあるまいし」
「へぇ。ならお前は大層な体してんのかよ」
手首を取られたかと思うと、あっという間にベッドの中に引きずり込まれる。寝起きのあたたかい肌は汗で少しだけ湿っていて、その感触にメルヴィオラの心臓がどくんと大きく脈打った。
まだ薄く体温の残るブランケットがメルヴィオラの足に絡まる。そのブランケットを上からラギウスの膝がベッドに押し付けてのし掛かるものだから、メルヴィオラは狭いベッドの上で身動きを完全に封じられてしまった。
「ちょっと……、何するのよ!」
「大層な体がどんなもんか、見せてもらおうと思ってな」
「朝から発情しないでよっ! このエロ狼!」
「んなモンに、朝も夜も関係ねぇだろ」
顔の横に両手をつかれ、メルヴィオラはいま完全に組み敷かれている状態だ。目を合わせることもできず、かといって視線を逸らした先には裸の胸板があって。もうどうしていいかわからずに、メルヴィオラは軽いパニックに陥ってしまった。
体温はどんどん上昇して、メルヴィオラの白い肌をわかりやすく恥じらいの色に染めてしまう。
「ドア……っ! 開いてるからっ!」
「構わねぇよ」
「構うの!」
どこまでが冗談で、どこから本気なのか。メルヴィオラはラギウスに翻弄されるばかりで、彼の心がわからない。
そうこうしているうちに、とうとうラギウスの指が胸元の編み上げた紐の端を摘まんでしまい、ひどくゆっくりと
「待って……っ、本気なの!?」
「俺はいつでも本気だぜ?」
「見たらお金取るわよっ!」
「金でも財宝でも欲しけりゃやるよ。……だから見せてみろよ」
しゅる、と
「ヴィオラ」
名を呼ぶ声に、もう冗談の色は混じっていない。
「お前は聖女をやめられるか?」
問うているのに、乞うように。ラギウスがメルヴィオラの髪を一房掬って、そこにそっとくちづけを落とした。
視線は逸らされないまま、ラギウスのマリンブルーがメルヴィオラの心をまっすぐに射抜いてくる。髪に口付けられているというのに、なぜか唇がじんと痺れていくようで、その甘い刺激にメルヴィオラの思考までもが麻痺していく。
かすかに震えた指先をなぞり、ラギウスの指が割って入る。そのまま指を絡めて強く手を握りしめられたかと思うと、ふっと朝日が遮られて。
――見開いたままの視界いっぱいに、ラギウスの赤い髪が映り込んだ。
「ラギ……っ」
キスされるのかと思えば唇は頬に落ちて。それを予想外だと思った自分に、また体がカッと熱を持つ。けれどそんな自分を恥ずかしいと思う暇すら与えられず、頬に落ちた唇が涙のように滑り落ちて、今度は耳朶をひどく優しく甘噛みされた。
耳を掠める吐息に混ざって、またも切なげに名を呼ばれ――。
「聖女をやめる覚悟が、あるか?」
顎のラインをなぞって下りた唇が、首筋を辿って鎖骨に落ちた瞬間。ピリッとした小さな痛みを感じて、メルヴィオラはたまらず小さな声を漏らしてしまった。
「続きはお前の返事を聞いてからだ」
やっと体が離れていったかと思えば、最後に鎖骨を軽く突かれる。服にギリギリ隠れるか隠れないかのラインに、白い肌を染めて赤い痕がくっきりと残されていた。
「なっ、……なによこれ! 信じらんないっ!」
「リッキーが変な気起こさないようにしとかねぇとな」
「彼がそんなことするわけないでしょう! あなたがおかしいのよ」
「バーカ。男はみんな狼なんだよ」
肩をとん、と押されて、メルヴィオラは再びベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。またのし掛かられるのかと思ったが、ラギウスは不敵に笑うだけで、今度こそベッドから完全に起き上がった。
床に脱ぎ捨てたままの上着を拾う後ろ姿、そこに狼の黒い尻尾が気怠げに揺れている。先程の言葉と合わせてみれば、冗談でも比喩でもなくラギウス自身が既に狼だという事実に呆れて溜息がこぼれてしまう。
「馬鹿はあなたよ。狼なんてあなたひとりでじゅうぶんだわ!」
「なら、お前専用の狼になってやるよ」
「いらないっ」
「そりゃ、残念」
肩を竦めていても、ラギウスの顔から笑みが消えることはない。いつまでたっても面白おかしくからかわれ、メルヴィオラの心はまるで嵐に呑まれる船のようにぐちゃぐちゃだ。
翻弄されるのがわかっていて、自ら海へ溺れている。苦しくて、楽しくて、終わりを思えば胸を突くほどに、かなしい。
この気持ちは何なのか。心の奥にいつしか芽吹き、蕾をつけた花の名前をメルヴィオラはもう見て見ぬふりなどできなかった。
「この船は、今からイダ島に行く。そこでお前の体調を万全にしてから、最後の聖地ローレインの墓所へ向かう」
「……えぇ。パトリックが、そう言ってたわ」
シャツの上からいつもの上着を羽織ると、ラギウスがテーブルに置いてあった金色の懐中時計を手に取った。無言でしばらく見つめた後、それをポケットにしまい込んでメルヴィオラを振り返る。
向けられたマリンブルーの瞳が、真面目な光を宿してメルヴィオラをじっと見つめてきた。
「最後だ」
「……え?」
「次で、最後の聖地だ。俺もお前も、覚悟を決めねぇとな」
何の覚悟か問おうとして、口を噤む。重なり合う瞳の奥に、問いの答えは既にあるのだ。
メルヴィオラの覚悟が、今までの生活をすべて捨ててしまうことならば、ラギウスの覚悟は一体何なのか。そこに、メルヴィオラだけが知らない彼の秘密が隠されているように思えた。
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