第31話 神殿から許可が下りるとは

 翌朝、メルヴィオラはいつもより早く目を覚ました。夜の名残が漂う室内、ベッドの影にまだ横になっているラギウスの姿がかろうじて見える。部屋の端にはパトリックが壁にもたれかかったまま眠っていたが、右手には何が起きてもいいように剣をしっかりと握りしめていた。


 できるだけ音を立てずに扉を開けて甲板に出ると、船が波を切る静かな音が鼓膜をくすぐった。

 ゆっくりではあるが、周囲を確認できない夜間にも船を走らせることができるのは、風の精霊メーファがいるからだ。障害物を察知して避け、適度に風を喚んで緩やかに目的地まで進んでいる。海軍や他の海賊の船が追いつけないのは、メーファの風の力に寄るところが大きい。

 そのメーファは、まだヤードの上で眠っていた。まるで引っかかった白い布きれのように、手足をぶらんと投げ出している。


「メルヴィオラ様。もう起きられたのですか?」


 まだ黒い海をぼんやり眺めていると、パトリックが大股で歩いてくるのが見えた。


「早朝で皆寝ているとはいえ、一人で出歩かれると危険です」

「危険って……ここは大丈夫よ。パトリックだって、本当は彼らのこと、そこまで危険視していないんでしょう? 昨日でずいぶんと打ち解けた様子だし」

「それとこれとは別です。どこで何が起こるかわからないので、できれば私の目の届く範囲にいてもらえると助かるのですが」


 この船に脅威はないと頭では理解していても、体に染みついた癖はなかなか消えないのだろう。パトリックの右手は、常に剣の柄に置かれている。


「まだ日も昇りませんし、もう少し休まれては?」

「私よりパトリックの方がちゃんと休まないと。床に座ったままなんて、疲れも取れないでしょう? 私はもう起きるから、よかったらソファー使って?」

「いえ、私は慣れているので大丈夫です。それに彼と二人で眠るなど……ご勘弁を」


 美しい顔を嫌そうに顰めるパトリックだったが、彼からはもうラギウスに対する敵意は感じられない。まさかたったの一日でここまで態度が軟化するとは思わず、メルヴィオラは嬉しいと感じる一方で、少しだけ驚きもした。


「そういえば昨夜、イスラ・レウスから連絡がありました。メルヴィオラ様はもうお休みになっていたので、今日起きてからお見せしようかと」


 パトリックがメルヴィオラに渡した手紙には、赤い封蝋が押されている。海軍が使う、二本の剣が交差した刻印ではなく、フィロスの樹を刻んだ印はイスラ・レウスを示すものだ。


 パトリックのように役職付きで、しかも各地を飛び回る仕事をしている相手に対しては即座に連絡が取れるよう、蝋自体に魔力が込められている。魔石を砕いたものを混ぜた蝋に、届けたい相手の血を一滴垂らすだけで専用の封蝋になるのだ。

 メルヴィオラが自分専用の蝋を持つことはないが、パトリック宛に飛んでくる手紙は何度か目にしたことがあった。封蝋を押された手紙は鳥となり、自ら飛んで相手の元へ届けられる。パトリックの元へ飛んでくる鳥はいつも同じで、風切り羽と尾羽に朱の交じった、とても美しい姿をしていた。


「正直、神殿から許可が下りるとは思わなかったわ」


 手紙には、メルヴィオラが海賊船エルフィリーザ号で祈花きかの儀式を続けることを承諾する旨が記されていた。ルオスノットでパトリックが神殿へ送ったものの返事のようだ。


「イスラ・レウスもローレインの墓所へ向けて船を送るそうです。最後の祈花きかが終わる頃には、おそらく神殿の船も到着しているかと」


 改めて言葉にされれば旅の終わりがより鮮明になり、メルヴィオラの胸を鈍い痛みが通り過ぎていく。


「フィロスの樹を祈花きかさせるごとに、あなたの力は強くなっている。手紙にも書かれていますが、最後の樹を祈花きかさせると、その反動でおそらくあなたは一時体調を崩すことが予想されます」


 エムリスの孤島で倒れた時は空腹が原因かと思ったが、そう言えばルオスノットでも呼吸ができなくなってしまった。祈花きかを進めるたびに体の不調が大きくなっているということは、ローレインの墓所で最後の樹に花を咲かせた時メルヴィオラは一体どうなってしまうのか。

 ルオスノットでの息苦しさを思い出して、メルヴィオラは胸元をぎゅっと握りしめた。


「ローレインの墓所へ向かう前に、体調を万全に整えておくよう記してありましたので、今夜はシュメルトス諸島のイダ島に一泊しようかと思っているのですが」

「え?」

「イダ島は小さいので宿もありませんが、海上で休むよりは体の疲れも取れるでしょう。既にラギウスには伝えていますし、許可も得ています。眠っていたとはいえ、事後報告になり、申し訳ありません」

「うぅん、それは……大丈夫。いろいろ手配してくれてありがとう」


 イダ島は確か無人島だ。宿がないなら野宿なのだろうが、メルヴィオラにとってそれは些細な問題に過ぎない。

 最後の祈花きかを終える日が、一日延びたのだ。たったそれだけのことなのに、メルヴィオラの頬は少しだけ緩んでしまう。それを悟られないように無言で海を眺めていると、やがて水平線を淡く照らして太陽がゆっくりと目を覚ましはじめた。


 黒い海を紺碧に塗り替えて、清々しい朝日がメルヴィオラたちを照らしていく。その眩いきらめきに、メルヴィオラはこのかすかな喜びが世界に伝わってしまったのではないかと、そう幼い錯覚をしてしまった。



 ***



 朝日が昇れば、海賊船も徐々に目覚めはじめる。最初に起きたのは朝日を直に感じるメーファで、その次はイーゴンが大きな欠伸をしながら甲板に出てきた。他のクルーたちも起き出して、船が活気づいたところにセラスが顔を出した。

 自室に篭もることの多い彼が爽やかな早朝に起きてくるとは思わなかったが、聞けばできるだけ朝は外に出ることにしているらしい。放っておくと一日中部屋に篭もってしまうので、最初の頃は力尽くで日光浴をさせていたとイーゴンが教えてくれた。


「ラギウスはまだ寝てるのかしらン? 昨夜は遅かったし、もう少し寝かせておきましょうか」

「君はラギウスに対して甘すぎるぞ、イーゴン。上に立つ者ほど、手本とならねばならない。その怪力で私を引きずり出したように、ラギウスも引っ張ってこい」

「あらン、いいの? でもアタシが行ったら、きっと起こすだけじゃ終わらなさそうだわぁ」


 何を想像しているのか、イーゴンはポッと赤らめた頬を両手で覆って、腰を奇妙にくねらせている。その様子にパトリックが怯えたように一歩後退した。


「あぁ、やっぱり却下だ。朝から騒々しいのはごめんだ。他のクルーにでも……」

「あ、セラス。だったら私が起こしてくるわ」


 旅を始めてからずっと同じ部屋で寝ていたので、メルヴィオラは今までも何度かラギウスを起こしたことがある。寝起きが悪いということも特に感じなかったし、メルヴィオラにとってラギウスを起こすことは日常のひとつだ。

 そう思って提案をしたのだが、予想に反してセラスのリーフグリーンが眼鏡の奥でわずかに見開かれた。


「君が?」

「え? 何か、問題でも……?」

「いや……、ずいぶんと角が取れたと思ってな。……女心は未だによく掴めない。難解だ」


 最後の方は何を言っているのか聞こえなかったが、少なくともメルヴィオラが起こしに行くことを反対したわけではなさそうだ。イーゴンを見れば、なぜか指先を口元に当てたかわいらしいポーズで、しきりに首を縦に振っている。


「じゃあ……起こしてくるけど、いい?」


 念のためもう一度確認すると、セラスがゆっくりと瞼を閉じて頷いた。


「あぁ、よろしく頼む。……あと、部屋の扉は開けておいた方が君のためだ」

「……? えぇ、わかったわ」

「いけませんっ! メルヴィオラ様っ、ここは私が……ふがっ!」


 変なところで声が途切れたかと思うと、後を付いてこようとしていたパトリックが背後からイーゴンに抱きつかれていた。腰と首に巻き付いた太い腕はまるで獲物を絞め殺す蛇のようにも見えて、実際にパトリックの顔が少しだけ青ざめている。


「コッチは気にしないでぇン。ヴィオラ、ラギウスをお・ね・が・い。彼もアナタと、ゆっくり話したいと思うから」


 ゆっくり話したいというのは、昨夜ラギウスたちが甲板で話していたことに関係するのだろうか。

 国のこと、魔法具のこと。断片的なイメージはあるものの、それらが示す先をメルヴィオラはまだ掴み取れていない。

 パトリックにはバレたと言っていた。なら、知らないのはきっとメルヴィオラだけだ。そう思った時、ふと以前イーゴンが言っていたことを思いだした。


 人の秘密を知る時は、互いに深い関係にあるのだと。


 ラギウスがもしすべてを話してくれる気があるのだとしたら――。

 もしそうなら、それは嬉しいことのように思えた。



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