第30話 わざわざ言うことでもねぇだろ

 甲板で始まったお茶会からそのまま昼食をとり、少しゆっくりしていたところで、メルヴィオラは急激な眠気に襲われた。ルオスノットへの旅から休む間もなくフィロスを祈花きかしたことで、思っていた以上に疲れが溜まっていたのだろう。うとうとと船をこぎ始めたメルヴィオラは、パトリックに付き添われて船長室のソファーへ横になった。


 メルヴィオラが船長室で寝ることに、パトリックは最後まで反対していた。けれども海軍の船とは違い、メルヴィオラ専用の客室などあるはずもなく。他のクルーと一緒に雑魚寝もさせられないと、最後はパトリックが折れる形となった。


 パトリックがソファーを許可したのは、ラギウスの匂いが染みついたベッドにメルヴィオラを寝かせられないという理由だ。ベッドが清潔であれば、メルヴィオラをソファーになど寝かせはしないだろう。

 とはいえメルヴィオラもラギウスのベッドでは落ち着かないので、結果的にパトリックがソファーを許可してくれたのには助かった。


「私は扉の外で待機しております。何かあればお呼び下さい」

「ん……、ありがとう」


 船の適度な揺れと毛布の熱に包まれると、意識はあっという間に眠りの底へ引きずられる。パトリックへの返事もそこそこに、メルヴィオラは目を閉じると同時にそのまま穏やかな寝息を立てて眠ってしまった。



 ***



『……い』


 ゆらゆらと、青く揺れる世界にいた。光も差していないのに、そこが美しく深い青に満たされていることがわかる。


 こぽ……、こぽり、と。音のする方へ顔を向けると、青い世界を揺蕩いながら上昇していく透明な気泡が見えた。

 海の中だ。そう実感すると共に、メルヴィオラの意識が形を伴い、体が生成されていく。まるで海の泡から生まれ出た瞬間のようだ。

 ゆるりと手を伸ばせば、真珠に似た小さな泡がメルヴィオラの白い腕を飾り立てていく。海の色にも負けない青いドレスは人魚の尾ひれのようにさざめき、爪先さえ隠すほどの長い裾は白いさざなみ色にグラデーションがかかっている。

 メルヴィオラは静かな海の中を波に揺られ、時に逆らって泳ぎ、そして赤子のように膝を抱えて蹲った。


『……え……たい』


 声は、メルヴィオラの唇を割って聞こえてきた。

 揺らめく青い髪に、いくつもの真珠が絡まっている。真珠は涙だ。メルヴィオラは広い海を漂いながら、膝を抱えて泣いていた。

 声を殺して。

 声をあげて。

 泣いて、泣いて。涙がれても、なお泣いて。いつしか、その瞳が赤い色に変化しても、胸をつく悲しみが消えることはなかった。


『……かえりたい』


 ようやく聞こえた言葉を認識した瞬間、メルヴィオラの体は海へ溶けて――。

 最後にかすかに見えたのは、青く暗い海底に根を張る、一本の古いフィロスの樹だった。



 ***



 揺蕩う青の夢からぼんやりと目を覚ますと、部屋の中にはすっかり夜が満ちていた。テーブルの上に置かれたランプの炎に照らされて、空のベッドが見える。ラギウスが戻っていないということは、日が落ちてまだそんなに時間は経っていないのだろう。ランプのオイルはたっぷりと補充されているようだから、誰かが灯りを持ってきた音を無意識に拾って目を覚ましたのかもしれない。


 扉を開けて外の様子を窺ってみると、昼間とは打って変わって甲板はしんと静まり返っていた。風もない凪の海。紺青の海と空を照らす月明かりは清浄に白く輝き、まるで道標のように海面に月光の橋を敷いている。

 あまりの静けさに、メルヴィオラは海賊船に一人きり取り残されているのではないかと疑った。けれども船首に取り付けられた灯りに照らされて、甲板に細い影がいくつか伸びている。ラギウスたちは揃って船首の方にいるようだった。

 もしかしてパトリックもそこにいるのだろうか。静かに扉を閉めて甲板に出たところで、かすかにラギウスの声が聞こえた。


「悪ぃ。リッキーにバレた」


 ラギウスの言葉に続いて、深い溜息がメルヴィオラの耳にも届く。姿は見えないが、呆れたような溜息だけでそれがセラスであることがわかった。


「まったく……君は目を離すといつも問題を起こすな。魔狼になって、更に脳まで劣化したのか? いっそのこと獣は獣らしく、首輪でもつけておこうか」

「違うのよぅ。アタシが上着を取った時にちゃんと気付いていればよかったのよぅ」

「海軍のお兄さんを乗せた時点でいつかはバレると思ってたけど……予想以上に早かったね。さすがラギウス。予想の上をいくおもしろさ」

「お前ら、俺に対して辛辣すぎんだろ……」


 どうやらセラスの他に、イーゴンとメーファもいるようだ。夜だからだろうか。いつもよりも皆の声が小さく感じる。


「それで、どうするつもりだ?」

「何がだ?」

「彼女にも伝えるのか? 大佐にバレたのなら、時間の問題だと思うが」

「リッキーは言わねぇよ。ヴィオラに余計な負担かけるような奴じゃねえ。それに……どうせ最後の樹を祈花きかさせれば、この旅も終わるんだ。船を降りる奴に、わざわざ言うことでもねぇだろ」


 会話に自分たちの話題が出たことで、メルヴィオラは思わず足を止めた。ラギウスが名を呼んだだけで鼓動がひとつ早くなってしまったが、続く言葉を耳にした途端、今度はその鼓動が冷たい棘となって胸を刺激する。


 癒やしの聖女と呪われた海賊。ラギウスにとってメルヴィオラは呪いを解く唯一の存在で、同時に彼の「特別」であると――そう、うぬぼれていたことを自覚してしまった。

 メルヴィオラは、呪いを解くための道具だ。それ以上でも、以下でもない。その現実を突き付けられ、メルヴィオラはもうそこから一歩も前に進むことができなかった。


「ふぅん。ラギウスにしては、めずらしくしおらしいこと言うんだね」

「あ? 何だよ」

「だってお姉さんのこと、結構気に入ってるのかなぁって思ってたから。未練もなく手放そうとしてて、僕ちょっとびっくりしちゃった」


 聞きたいような、聞きたくないような話題を、絶妙のタイミングでメーファが口にする。何ならもう、メルヴィオラがここにいることを知っているかのようだ。


「そうねぇ。恋敵ではあるけど、アタシもヴィオラのこと本当に攫っちゃいたいくらい好きよン」

「まがりなりにも今の私たちは海賊なのだから、欲しい宝は奪えばいいだけの話だ」

「セラスがそこまで言うの、めずらしいね。意外とお姉さんのこと気に入ってる?」

「王命を受けているとはいえ、いつまでも遊んでいるわけにはいかないからな。それに彼女くらいの気質がないと、ラギウスにはついていけないだろうと判断したまでだ」

「お前ら、好き勝手言いやがって。……ノルバドの遺跡にある魔法具を回収するまで、国に帰るわけにはいかねぇよ」


 王命や国など、何を話しているのかメルヴィオラにはよく理解できなかった。わかったことはイーゴンたちが思っていた以上にメルヴィオラのことを気に入ってくれていることと、彼らの最終目的がノルバドの遺跡であること。そして魔狼の呪いを完全に解いたら、ラギウスはメルヴィオラを船から降ろすのだという事実だけだ。


 そもそもメルヴィオラだって、呪いを解くまでの期限付きであることを承諾した。早く祈花きかの旅を終えて、ラギウスから解放されたいと願ったのも事実だ。


 けれど旅の終わりが目前に迫ったいま、メルヴィオラは自分勝手にも愚かに願ってしまった。

 ノルバドの遺跡で、もう一度魔狼の呪いにかかってしまえばいい――と。


 利己的で、浅ましい願いだ。なのに、その思いを否定できない。

 自分がひどく穢れた人間のように思えてしまい、メルヴィオラは逃げるようにして船長室へと戻っていった。




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