第29話 イーゴン硬いからヤダ
少し席を外します、といってパトリックが船長室へ消えてから数分が経った。ちらりと様子を窺ってみても、扉は固く閉ざされたまま彼が戻る気配はない。
追う者と追われる者である彼らが肩を並べて語り合う姿は想像できないが、さすがにさっきの争いの続きをしているわけではないだろう。真面目なパトリックのことだ。きっとこれからの船旅について、ラギウスときちんと話をしておくつもりなのかもしれない。そう思いつつも、メルヴィオラの視線は無意識に船長室へと向いてしまうのだった。
「気になる?」
そう問うたのはイーゴンだ。目が合うと、パチンとウインクをされる。
「そう……ね。ラギウスはパトリックをからかって遊ぶ節があるから」
「わかるわぁ。彼、虐められるタイプだものね。アタシだって、許されるならあんなことやこんなことしてもっと虐め倒したいのよぉ」
イーゴンが言うと、肉体的に虐められるパトリックの姿が浮かびそうになって、メルヴィオラは慌てて頭を横に振った。
「パトリックはラギウスと違ってそういうことに慣れていないから、イーゴンもあんまり彼をからかわないであげてね」
「アラ、じゃぁ冗談じゃなければいいの?」
「え? まさか本気でパトリックを好きになっちゃったの!?」
「うーん、今のところ迷ってるってカ・ン・ジ? 海上での恋人はラギウスでぇ、
太い人差し指を自身の唇に当てて「秘密」を強調し、そうかと思えば「でも嫉妬されるのも捨てがたいわぁ」と悩みはじめる。何だかとても楽しそうだ。
「そもそもイーゴンが選ばれる確率なんて、ほぼほぼゼロでしょー? ラギウスが押し負ける光景も楽しそうだけど、今のとこはイーゴンじゃなくてお姉さんの取り合いなんじゃないの? ね? お姉さん」
こてん、と首を傾げて見上げてくるメーファはメルヴィオラの膝に乗ったまま、干し肉の端に齧り付いている。かわいらしい子供の姿に干し肉とは、本当に見た目と中身のギャップが甚だしい。
メルヴィオラの膝の上に乗ったままのメーファは、体重をまるで感じさせないほど軽かった。風に飛ばされないよう、しっかりと腰に腕を回して抱きしめると、「お姉さんってば、だいたーん」などと言うものだから、メルヴィオラはメーファをイーゴンの膝の上に押しやってしまった。
「えぇー。イーゴン硬いからヤダ!」
「ンまっ、失礼ね! 硬くなってこそのオトコなのよ! メーファももっと体を鍛えなさい」
「僕はこのままでも十分かわいいから大丈夫。ね、お姉さん。僕とラギウス、どっちが好み?」
そう言うと、瞬きのあいだにメーファの体が大人のそれに変化していた。メルヴィオラの両膝の横に両手をついて、ぐぅーっと近付けてくる顔はまさに美少年のそれだ。
少年でも青年でもない微妙な年頃に存在する無垢な領域は、触れるのを躊躇うほどの清らかさを纏っている。なのに、その薄桃色の唇が
少しだけ伸びた白い髪はメーファの銀色の瞳をわずかに覆い隠し、それが余計に気怠い色気を醸し出していて直視するのを躊躇ってしまう。
まるで大型の猫のように、背中を弓なりにしならせて顔を寄せるメーファの唇――ではなく、干し肉がメルヴィオラの唇に触れようとした瞬間。
「メーファ! テメェ、横取りしようとしてんじゃねぇぞ!」
響き渡る怒号と共に、メーファの頭がむんずと鷲掴みにされてメルヴィオラから引き剥がされた。見上げた先、ラギウスに掴まれて宙吊りになったメーファは、いつの間にか元の少年の姿に戻っている。
「あれ? もう戻って来ちゃったの?」
「テメェが変なことするからな!」
「変なことってなぁにー? 僕はお姉さんに干し肉をあげようとしただけだよ? ね、お姉さん?」
その干し肉はどちらの口に入ることもなく、甲板の上にさみしく転がっている。
「メーファ殿は、自在に姿を変えることができるのですね」
ラギウスと一緒にパトリックも戻っていたようで、メルヴィオラは彼に手を引かれ、さりげなくメーファから距離を取らされてしまった。
美少年に変化したメーファに驚きすぎて何もできなかったが、心が落ち着きを取り戻すとじわじわと頬に熱が込み上げてくる。人間離れした美貌を至近距離で目にした驚きと、そして若干の恥ずかしさ。そしてその光景をラギウスに見られたという焦りに似た感情に、メルヴィオラの胸が騒がしさを増していく。悪いことをしたわけでもないのに、メルヴィオラはなぜかラギウスの方を見ることができなかった。
「あぁ、くそっ。……どいつもこいつも……っ」
苛立ちを隠しもせずに、ラギウスがメーファをマストの方へ放り投げる。思わず声を上げたメルヴィオラだったが、メーファはそのままくるくると風に乗ってヤード(帆を張る横棒)の上に器用に横になってくつろいでしまった。
「あんなところで……大丈夫なの?」
「あそこはアイツの寝床だ。死にやしねぇよ」
確かにメーファは風の精霊だから万が一にも落ちることはないのだろうが、子供の姿で高い場所に寝そべる光景は見ているだけでも心臓に悪い。それでも目が離せないでいると、ラギウスに頭を掴まれて顔の向きを強引に変えられた。
「アイツのことはいいんだよ。それよりお前、また茶ぁ飲んでんのか。海賊っつったら酒だろ、酒!」
「私は海賊じゃないもの」
「海賊じゃなくったって酒は飲めるだろうが。ほら、リッキー。お前も飲もうぜ」
そう言って、ラギウスがなみなみと酒を注いだ木のジョッキをパトリックへと差し出した。しゅわしゅわと弾ける白い泡を見て、一瞬だけパトリックが逡巡する。
「お互い飲みたい気分だろ?」
「……悔しいが、君の意見に同意する」
パトリックがジョッキを手に取ると、ニヤリと笑ったラギウスがぶつける勢いで乾杯をした。ジョッキの中身が盛大にこぼれてしまったが、ラギウスは気にせず残りを一気に飲み干していく。反対にパトリックは少しだけ眉間に皺を寄せていたが、それでも文句を言うことはなく、彼も静かにジョッキを傾けるだけだった。
「何? どうしたの?」
「何だよ?」
「さっきの数分で、もうそんなに打ち解けたの?」
ラギウスとパトリック、二人の間に流れる空気はさっきと明らかに違う。どこが、といわれれば明確に言葉にできないのだが、何となく二人の間にあった溝が少しだけ埋まっているような感じだ。
とはいえそれは好意的なものというには少し違っていて、後ろめたいとか、仕方ないとか、そんな感情の方が近い気がする。
「そんなんじゃねぇよ。……リッキーには俺らの目的を教えただけだ」
「目的って……呪われた魔法具のこと?」
「メルヴィオラ様もご存じだったのですね」
「私も最近知ったのよ。そんなものが出回ってるなんて、驚いたでしょ?」
「そうですね。……とりあえず、彼らが他の海賊たちと同じならず者ではないことだけはわかりました。
「俺らの邪魔をしねぇんなら、こっちも余計な手は出さねぇよ」
二杯目を注いだジョッキを軽く上げたラギウスに釣られて、パトリックも自身のジョッキを、今度は軽めにぶつけ合う。それはきっと、二人にとっての誓いの儀式だ。
身を置く場所も性格もまるで違う二人が、束の間だが同じ方を向いて歩いている。それがなぜか、メルヴィオラにはとても嬉しい出来事のように思えて仕方がなかった。
「そういえば、メルヴィオラ様はどちらでお休みに?」
未だヤードに寝そべっているメーファを見上げ、パトリックが素朴な疑問を口にした。まさかこの天幕の下なのかとパトリックが怪訝そうに眉を顰めていると、意地の悪いいつもの笑みを浮かべたラギウスが船長室の方を顎で指す。
「んなモン、あそこしかねぇだろ」
振り返った先にある扉を見た瞬間、パトリックのセレストブルーがこれでもかというほど見開かれた。
「何だと!? 貴様っ、まさかメルヴィオラ様に不埒な真似を……っ」
「どうだかな。そういうお前だって、イスラ・レウスではヴィオラにご奉仕されてたんだろ?」
「だから何の話だ、それは!」
掘り返して欲しくない話題をラギウスがまた引っ張り出してきたので、メルヴィオラは飲んでいたお茶を噴き出しそうになってしまった。
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