第21話 泣いてくれ

 ふと、人の気配を感じて目を覚ました。

 扉の隙間から漏れる廊下の明かりは消え、窓から差し込んでいた月光だけが暗い室内を淡く照らしてる。その静かな光にぼんやりと照らされて、ベッドのそばに誰かが立っているのが見えた。


「……っ!」


 驚いて飛び上がろうとする体を、強い腕に押さえ込まれる。喉が悲鳴を上げる前に、少しだけ張り詰めた男の声がした。

 ラギウスの声だ。


「騒ぐな。イーゴンに心配されたくない」


 低く落とした声音は掠れている。痛みをこらえているような声はどこか切羽詰まった感じがして、かすかに聞こえる呼吸も短く苦しそうだ。どこか怪我でもしているのかと慌てて上体を起こそうとしたが、肩を掴む力は強く、その腕を振り払うだけの力がメルヴィオラにはない。


「どうしたの?」


 暗闇に慣れた視界、淡い月光に浮かび上がるラギウスは、眉を顰めて短く呼吸を繰り返している。時々くちびるを噛み締めて、何かに耐えるようにぎゅっと瞼を閉じる様子はやはり尋常ではない。


「どこか具合が……」

「少し当てられた。悪いが、浄化してくれ」


 喘ぐように吐き出して、ラギウスが自身の胸元をぎゅっと掴む。その手には、娼婦がしていた首飾りが握られていた。

 赤い宝石がじゃらりと滑り落ちて、メルヴィオラの顔の上でゆらゆらと揺れている。暗闇でもはっきりと色を落とす赤は吸い込まれそうなほどに美しく、じっと見つめていると体の奥からぞわぞわと這い上がるような震えを感じた。


「見るな。お前は耐性がないから、俺より強く当てられる」


 そう言って、ラギウスが首飾りを床に放り投げた。視界から宝石の赤が消えたことで、メルヴィオラが感じていた体の刺激が収まっていく。


「ちょっと待ってよ。当てられるって、一体なんなの? あなたの様子がおかしいのは、その首飾りのせいなんじゃ……」

「詳しく話してる暇はねぇ。とにかく浄化の涙を出してくれ」

「だったらちょっとどいてよ。この状態だと何だか落ち着かないわ」

「いいから、早くしろ。泣かすぞ……っ」

「何よ、その言い方! イーゴンを起こすわよっ」

「デケぇ声出すな。さっさと浄化……っ、あぁ、くそっ!」


 苛立たしげに前髪を掻きむしったラギウスが、ぐっと上体を屈めて距離を詰めてくる。吐息が頬を掠めたかと思えば、あっという間に上からのし掛かられ、メルヴィオラはそのままラギウスの両腕に閉じ込められてしまった。


「ちょっ、と……ラギ……っ」

「襲われたくなかったら、さっさと俺を浄化しろ」


 背中に回された腕に力が入り、痛いくらいに抱きしめられる。ギシッと軋むベッドの音と共に熱く湿った吐息が鼓膜を震わせ、メルヴィオラの全身に予期せぬ甘い痺れが広がった。

 耳朶を甘噛みされ、仰け反った首筋に舌が這う。体は抱きしめられることで拘束され、空いた片腕で背中を撫で回される。その指先が服の隙間を見つけたところで、メルヴィオラの喉がわずかな恐怖に引き攣った。


「……ゃっ!」


 短い悲鳴が唇からこぼれ落ちた瞬間、ハッと息を呑む音と共にラギウスの体がメルヴィオラの上から離れていく。

 見下ろす眼差しは熱を持ったまま、それを隠すようにして右手で顔の半分を覆う。強く突き立てた指先が彼の額を傷付けることはなかったが、内側で何かと戦っているかのようにラギウスの目元は苦しげに歪んだままだ。


「ヴィオラ」


 喘ぐ唇が、切なげにメルヴィオラの名前を呼ぶ。


「ヴィオラ……。泣いてくれ」


 まるで懇願するように。

 欲を必死に抑えた声でささやいたラギウスの方が、泣きそうな顔をしている。


 体が離れたことにより、メルヴィオラの心にも少しだけ余裕が生まれた。それが自身の安心とラギウスの心配に繋がって、メルヴィオラの瞳から浄化の涙がこぼれ落ちた。

 はらはらとこぼれ落ちる涙が真珠になる前に、再び身を屈めたラギウスが性急な舌先でそれを舐め取っていく。最初は貪るように、餌を前にした獣のように喰らい付かれた。熱い吐息が頬を撫で、湿った舌が瞼をなぞる。

 まるで食べられてしまいそうだ。そう思った瞬間、メルヴィオラの体の奥で目覚めてはいけない熱が弾けたような気がした。足先から背筋を通って、頭のてっぺんまでぞくりとする何かが突き抜けていく。顔を舐めるラギウスの唇から荒い呼吸が収まっていくのを感じなければ、メルヴィオラは何もかも放り出して女の自分に身を委ねるところだった。


「……はっ」


 短く息を吐いて、瞼にやわらかく唇が触れる。それを最後に、ラギウスがようやくメルヴィオラの上から身を退いた。そのままズルズルとベッドから降りて床に腰を下ろすと、背中をベッドに預けたまま今度は長くゆっくりと息を吐く。


「悪ぃ。……助かった」


 メルヴィオラの体は軽く火照り、息もすっかり上がっている。そんな自分を悟られたくなくて無言を貫いていると、それを怒っていると勘違いしたラギウスが申し訳なさそうにガシガシと頭を掻いた。狼の耳は完全にへたれていて、顔が見えなくても彼がばつの悪い顔をしているのがわかる。


「悪かった」


 今度はしっかりと、心を込めて謝罪された。


「……うぅん。大丈……夫じゃ、なかったけど……緊急だってことは、わかった」

「そうか」


 そう言ったきり、ラギウスは口を噤んでしまった。何か考え込んでいるのかと思ったが、狼の耳がわずかな音にも反応してぴくぴくと動いているので、どうやらメルヴィオラの様子を窺っているようだ。


「ねぇ」


 思い切って声をかけてみると、案の定ラギウスの狼耳がピンッと勢いよく伸びた。


「少し、外で話さない?」


 向かいのベッドでは、イーゴンが軽いいびきをかいて熟睡している。灯りをつけるわけにもいかないし、何よりベッドに座ってゆっくり話すという雰囲気でもない。それに外に出て冷たい夜風にでも当たれば、メルヴィオラの体に燻る熱も冷めていくだろう。

 その提案をラギウスは二つ返事で了承し、メルヴィオラは寝衣の上からローブを羽織って静かに部屋を後にした。



 夜空に浮かぶのは満月に近い月だ。イスラ・レウスの神殿の書庫で何気なく借りた本に、そう言えば満月の夜に変身する狼の話があったことを思い出す。ベンチに並んで座るラギウスを盗み見れば、耳と尻尾はついたままだが、最初に出会った時のような魔狼の姿になることはなさそうだ。


「ねぇ……大丈夫なの? 体……何か、つらそうだった」


 ベンチに座ったままどちらも無言だったので、意を決してメルヴィオラの方から話を切り出してみた。すると隣の気配が、かすかに和らぐ。メルヴィオラから声をかけられたことで安心したのか、ラギウスは肩の力を抜いてふうっと短く息を吐いていた。彼なりに、緊張――というか、悪いことをした自覚はあったようだ。


「今は、もう落ち着いた。びっくりさせて悪かったな」

「それは……もう、いいけど。……魔狼の呪いが悪化したってわけじゃないんでしょ? 原因はあの首飾りよね?」

「あぁ……あれな……」


 どうにも歯切れが悪く、ラギウスがそれ以上を語る気がないことは何となく雰囲気で察した。


「わたし、セラスとイーゴンから聞いてるわ。あなたたちが呪われた魔法具を集めてるって。だから隠さなくていいわ。あの首飾りが闇の精霊を閉じ込めたものだってことも知ってるから」

「あいつら……いつの間に」


 そう呟く声に咎めるような音はなく、ラギウスはただ呆れたように気の抜けた溜息をひとつこぼすだけだった。


「どうして隠してたの?」

「別に隠してたわけじゃねぇよ。言う必要がなかっただけだ。闇の魔法具は存在自体を知らない奴の方が多い。実際お前も知らなかっただろ?」


 指摘されて、頷くしかできなかった。確かにメルヴィオラも、セラスから魔法具のことを聞いて初めて知ったのだ。ラギウスに攫われなければ、おそらく一生知らないままで過ごしていたことだろう。


「普通に生きていくぶんには知る必要がないんだよ。ましてやお前は聖女だ。んな世界の闇みてぇな部分に足突っ込まなくてもいいだろ」

「でも……危険なものなんでしょう? あなただってさっき、何かに取り憑かれてたみたいだった」

「あぁ……あれは、ちょっとドジっただけだ。普通ならあんなヘマはしねぇ」

「どの口が言うのよ」

「元々俺は、精霊の力に耐性があんだよ。ただ今回は……アレだ、魔狼の呪いにかかってるから、ちょっと闇の影響を受けやすかっただけだ。簡単に魅了の術にかかったのも、そのせいだからな」

「偉そうに言わないでよ。苦しそうな顔して襲ってきたくせに」

「テメ……ッ。本気で襲うぞ!」


 尻尾をぶわっと膨らませて睨んでくるものの、その頬はほんのりと赤く、照れているのが丸わかりだ。いつもの調子が戻ってきたラギウスに、メルヴィオラの心もゆっくりと解れていく。今なら一緒に部屋へ戻れそうな気がした。




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