第10話 投げキッスはやめてくれ

 遠く、近く。

 ぼんやりとしているようで、はっきりと聞こえてくる波の音にメルヴィオラの意識がゆっくりと覚醒した。

 目を開く前に、鼻腔に何かいい匂いが届く。フィロスの花の甘い香りではなく、香辛料と肉の脂の匂いだ。そう理解した途端、ぐぅーっと大きな音を立てて腹が鳴った。


「デケぇ音」


 すぐそばで聞こえた笑い声にパッと目を開くと、案の定ラギウスがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべてメルヴィオラを見下ろしていた。恥ずかしさのあまり顔を背けると、目線の先に肉の山が置かれており、それに反応してメルヴィオラの腹がまた切なげに鳴く。

 どうして甲板に横になっているのか、そういう理由を考える暇もない。腹に力を入れて音を抑えようとしても、そのたびにきゅる……と鳴るので、メルヴィオラはとうとう顔を覆って横向きにした体を小さく丸めてしまった。


「なに恥ずかしがってんだよ。腹が鳴るのは元気な証拠だ」

「……女性に対してデリカシーがなさすぎるわ」

「昨日からリュフの実しか食ってねぇし、腹くらい減るだろ。お前の腹の音なんて、別に気にしねぇよ」

「私が気にするの!」


 がばっと起き上がってラギウスを睨み付けた――はずの視界に、横からにゅっと木製のジョッキが割り込んできた。ジョッキを手にしたイーゴンの肩にはメーファが乗っている。こうして見ると親子のようだ。顔は全く似ていないが。


「まぁ、そう言わないでやってン。アナタを抱えて戻った時のラギウスったら、この世の終わりかってくらい焦ってたのよぅ。嘆くラギウス……素敵だったわ」

「ちょっとイーゴンフィルターかかってるけど、確かにおもしろいくらいに慌ててたね。セラスを部屋から引きずり出してくるくらいだし」

「……まったく、いい迷惑だ。それだけ腹の虫が元気なら、もう私は必要ないだろう。部屋へ戻らせてもらうぞ」


 いつからそこにいたのか、メルヴィオラの背後にはセラスが座っていた。穴の開いた天幕の下、ちらちらと差し込む光を見て煩わしげに眉を顰めている。


「まぁ、そう言うな。セラス。フィロスも無事に咲いたんだ。祝杯でもあげようぜ」

「一杯なら付き合ってやってもいい」


 なみなみと酒の注がれたジョッキがあっという間に行き渡る。メルヴィオラのジョッキだけオレンジジュースだったのは、イーゴンが「アナタは起きたばっかりだからコッチね」と気を利かせてくれたからだ。


「ホラ。これでも食ってろ」


 ラギウスがくれた串刺しの肉には、食欲をそそる香りのスパイスがたっぷりとかけられている。見ているだけでまたお腹が鳴りそうだったので、ここは素直に受け取ることにした。

 大きめにカットされた肉は少し固かったが、濃いめのスパイスと空腹のせいもあってか意外においしかった。肉と一緒に用意された別の皿には果物が乗っている。目が合ったイーゴンがウインクして皿を寄越すので、きっと彼がメルヴィオラのために用意してくれたのだろう。見た目は厳ついが、さすが心は気が利く女子だ。


「ラギウスがイノシシ落としてくれたおかげで、今夜はご馳走だね」

「あんなに大きなイノシシ、アタシだったら怖くて動けないわ。さすがアタシのラギウス。す・て・き」


 メーファとイーゴンが揃って「イノシシ」と口にするものだから、メルヴィオラは驚いて気管に肉を詰まらせそうになってしまった。


「ちょっと待って。このお肉って……あのイノシシなの?」

「そうだよー。海から引き上げるのも大変だったのに、よくあんな大物仕留められたよね。お姉さん抱えたまま崖も登っちゃうし……いつの間に人間捨てたの?」


 確かにラギウスの身体能力は人間の域を超えている。元々そういう力を持っていたのかと思っていたが、メーファでさえ疑問を持つのだからラギウスの力は異常なのだろう。

 崖を登り切った時、力がみなぎっている気がすると言っていたが、それが何か関係しているのだろうか。そう思案していると、隣で静かに肉を食べていたセラスが、食べ終えた串のひとつを突然ラギウスに向かって投げつけた。


「あ……っぶね! 何すんだよ、セラス!」


 まるでダーツの矢みたいに先端を向けて投げられた串を、ラギウスは余裕で掴み取ってセラスをじとりと睨み付けた。その視線を受けても無表情のセラスは、何かを考え込みながら、今度は数本の串をまとめて手に取ろうとしている。


「待て待て。何をする気だ?」

「一本では普段と同じだと思ってな。まとめて投げつけても、君が全部避けられるか試してみようかと」

「無理に決まってんだろ。って言うか、そんなこと試して何になるってんだよ」

「確かめたいことがある。君がエムリスの孤島でおこなったことを私は見ていないから、判断材料がほしい。イーゴンもメーファも、何でもいいからラギウスに投げてくれ。あぁ、君も一緒に」


 何を考えているのか感情の読み取れないリーフグリーンの瞳が、メルヴィオラを見てほんの僅か細められる。


「ただし、投げキッスはやめてくれ」

「しないわよっ!」


 瞬殺で否定して、メルヴィオラは空になったジョッキをむんずと掴んだ。セラスは串の束、メーファは片手に風の渦を発生させていて、目をキラキラさせたイーゴンはなぜか重心を低くしている。


「お前ら……まじかよっ」


 焦るラギウスの声を合図に、皆が一斉に武器を投げつけた。ラギウスの眼前に当然逃げ場などなく、甲板に座り込んでいるため身を屈めてもたいした防御にはならない。つまりラギウスは、ジョッキと串、風魔法にイーゴンの熱い抱擁を全身で受け止めなければならないのだ。

 それなのに瞬きしたほんの僅かな一瞬、ラギウスの姿はメルヴィオラの前から忽然と消えていた。あるのは床に転がったジョッキと串、そして風魔法を背中にぶつけられて転倒したイーゴンの姿だけだ。


「……っていうか、ホント何なの? その異様な身軽さ」


 振り返ったメーファの視線を追えば、いつの間にかメルヴィオラの背後にラギウスが立っていた。


「えっ? いつの間に」

「イーゴンの頭を床に埋めた反動で飛び上がって、そのまま一回転してお姉さんの後ろに逃げたみたいだね」

「全然見えなかった……って、きゃ!」


 人間離れした身軽さに驚いていると、不意に背後のラギウスから頭を鷲掴みにされる。そのまま少し乱暴に掻き乱され、メルヴィオラの視界に青い髪が散らばった。


「ちょっと、何よ!」

「それはこっちのセリフだ。腹減ってぶっ倒れたお前を抱えて戻った俺にする仕打ちか? ちっとは感謝しやがれ」

「感謝してるわよ。でもセラスがやれって言ったんだもの。仕方ないでしょ!」

「俺よりセラスの言うこと聞くのかよ?」

「そういうことじゃなくてっ」

「痴話喧嘩はよそでやってくれ」


 すっと割り込んだ静かな声に、ラギウスがセラスを軽く睨み付けた。


「元はといえばお前のせいだろーが。揃っていろんなモン投げつけやがって」

「それを君は全部躱してみせたな。一本だけ毒を塗ってあったんだが」

「はぁ!? 毒って……お前、なんてモン投げてんだよ!」

「心配するな。一晩神経を麻痺させる軽いものだ。だが、お前はそれを危険なものだと察知して、毒を塗った一本だけジョッキで綺麗に躱している」


 見れば床に転がったジョッキの中には、本当に一本だけ串が入っている。ラギウス本人も驚いていることから、毒付きの串を躱したのは意識してやったことではないのだろう。


「聖女を抱えて崖を登り、大物のイノシシを素手で倒し、毒付きの串を見分けるほどの危険察知能力。君のそれは、もはや人間の能力を超えている」

「何が言いたいんだよ」


 不審げに眉を寄せたラギウスをじっと見据えたまま、セラスが中指で眼鏡をくいっと押し上げる。薄いレンズ越しに、リーフグリーンの瞳がほんの僅か細められた。


「君のその身体能力の高さは、魔狼の呪いによるものということだ」


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