第9話 油断も隙もないんだから

 まだ日も昇らない早朝。空が白み始める頃に、メルヴィオラはラギウスに揺り起こされた。昨夜なかなか寝付けずにいたためか、頭がぼーっとして欠伸がとまらない。ラギウスに倣って泉の水で顔を洗うと、予想以上の冷たさにようやく目が覚めた。


 水面に映る自分の姿は、汗と泥にまみれて最悪だ。ふんわりとした青い髪もボサボサで、髪飾りの代わりに枯れた雑草が絡まっている。白い服には昨夜食べたリュフの実の果汁が飛び散って赤い染みを作っており、祈花きかの旅専用に仕立てられた美しい衣装が台無しだ。

 もともと旅に適した服ではなかったが、こんな森の中を歩くなど想定もしていないのだから当然だろう。メルヴィオラが進む道は、常に海軍と神官によって守られている。祈花きかの旅は、「旅」ではなく「儀式」なのだ。


「……何だか泣けてきたわ」


 イスラ・レウスの神殿で、立派な聖女になるために生活していた頃は外の世界に憧れもした。勉強は退屈で、休憩の時間にも常に誰かがそばにいる。正直そんな生活に辟易していた部分もあった。

 けれど実際にこうして外の世界へ放り出されると、自分がいかに恵まれていたかが身に染みてわかる。時間になれば食事が出て、身の回りの世話は付き人の神官が全部やってくれていた。メルヴィオラは何もせず、ただ与えられた聖女の役割をするだけで良かったのだ。

 そしてその役割すら面倒だと愚痴をこぼしていた自分に気付いて、ひどく恥ずかしい気持ちになってしまった。


「どうした? 腹でも痛いのか?」


 声をかけてきたラギウスに、何でもないと首を振って立ち上がる。こぼれそうになっていた涙は、洗顔後の水を拭う仕草で誤魔化した。


「何でもないわ。早く行きましょう」

「急にやる気出してどうした? まぁ、こっちとしてはありがたいが」

「別に。早く終わらせたいだけよ」

「なら出発だ。ほら、食っとけ」


 投げ渡されたリュフの実は、新しくラギウスが採ってきてくれたものだ。神殿での食事とは比べものにならないが、それでも小さな果実はメルヴィオラのために用意されたもので。


「……ありがとう」


 小さな声で礼を告げると、ラギウスが一瞬驚いたように目を瞠った。


「何よ」

「……急に素直とか反則かよ」


 何を言ったのかまでは聞き取れなかったが、訊ね返す前にふいっと顔を背けられる。そのまま足早に歩き出したラギウスの後ろでは尻尾が大きく揺れていたので、どうやら悪いことを言われたわけではなさそうだ。

 そう思うとメルヴィオラの気持ちも少しだけ浮上して。赤いリュフの実のように心の奥がほんのりと色付くのだった。



 一度の休憩も取らずに歩き続けていると、不意に視界が開けて森の緑がやわらかな白色に変わった。頭上を遮る木々はなく、見上げれば抜けるような青空が広がっている。

 他の植物が一切生えていない、丸く切り取られた場所に大きな樹が一本聳え立っていた。空に向かって伸びる枝に、花はおろか葉の一枚もついていない。けれども枯れているというわけではなく、大地にどっしりと立つ太い幹は瑞々しさを感じるほどの濃い茶色をしている。そしてその樹の根元は、大地の色を覆い隠すほどの白に埋め尽くされていた。


「真珠……?」


 木の根元を埋め尽くす白い粒を片手に掬って、ラギウスが感嘆にも似た吐息を漏らした。

 陽光にまろやかな光を反射する白、それは数え切れないほどの真珠の粒だ。あまりに多くの真珠が敷き詰められているせいで、大樹を下から淡く照らしているようにも見える。


 原生林の中に突如として現れた真珠の海。その輝きは辺り一帯を清浄な空気で満たし、獣や植物でさえも、それ以上先へ進むこと躊躇うかのようだ。

 まさに聖域。呼吸するだけで、体の疲れが癒やされてしまった。


「これがフィロスの樹か。花が咲いてなくても癒やしの力はあるんだな。体が軽くなってる。この調子で俺の呪いも消えねぇかな」

「イスラ・レウスで、花をつけたフィロスの樹を見たんでしょ? それでも消えなかったんだから、無理だと思うわ」

「なら、やっぱりお前の涙が必要ってことか。あー……お前たちの言葉で言えば、フィロス、だっけか? 紛らわしいな」


 フィロスの樹と聖女を重ねて、イスラ・レウスでは聖女の涙のことを「フィロス」と呼んでいる。聖女からこぼれる涙を、フィロスの花に見立てているのだ。

 正直メルヴィオラも紛らわしいとは思っているのだが、身に染みた習慣を変えることはなかなかに難しい。


「ここにある真珠は、もしかして歴代聖女の流した涙か?」

「先に言うけど、持ち出しは禁止よ」

「チッ。先手打ちやがったな」


 メルヴィオラがラギウスの手を掴んで引き寄せると、ポケットから抜け出た右手からボロボロと真珠が転がり落ちる。


「油断も隙もないんだから!」

「こんだけあるんだ。少しくらいいいだろ。神殿の奴らだって、オルトリスに売りさばいてんだろーが」


 聖女の寿命が尽きれば、浄化の力は海へ還る。祈りによって花を咲かせたフィロスの樹は枯れ、聖女の涙も効力を失ってしまうのだ。だから聖女の涙フィロスを溜めておくことはできない。

 とはいえ宝飾品としては「聖女の涙フィロス」の付加価値がつくので、市場では高値で取引がされている。神殿の管理下にある涙――真珠はイスラ・レウスの経済の大部分を支えており、その取引先が主にオルトリスの王族であることは、その界隈では周知の事実だ。


「あなたに必要なのは私の涙でしょ」

「何だ? 嫉妬か?」

「ばっ、馬鹿じゃない!? そんなことあるわけないでしょ! 私はただっ、ここの真珠も神殿の管理下だから……っ」

「わかったわかった。なら、さっさと花を咲かせちまえよ」

「言われなくてもやるわよ。邪魔だからちょっと向こう行ってて!」


 恥ずかしさのせいもあったが、祈花きかを行うには高い集中力が必要になる。そばにいられると落ち着かないので、ラギウスには聖域外の森の方まで下がってもらうことにした。


 樹の前に跪いて衣装を整える。儀式用に仕立てた白いワンピースはすっかり汚れてしまい、頭に被せていたヴェールも攫われたとき風に飛ばされてしまった。髪もボサボサでひどい身なりだったが、心まで荒んでしまわないように深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせると、メルヴィオラは静かに樹の前に跪いた。


 目を閉じてフィロスの樹へ意識を集中させると、闇の中に揺れる光がひとつ、頭の中に浮かび上がった。イスラ・レウスでフィロスの花を咲かせた時にも見た光景だ。

 青い髪をした女がひとり、海の中で膝を抱えて蹲っている。海流に揺蕩う長い髪に絡みついているのは真珠だ。こぽこぽと浮上する泡に紛れて、たくさんの真珠が海の中に漂っている。まるで珊瑚の産卵のように、青い海が乳白色のヴェールに覆い尽くされていく。


『……』


 女が何かを呟いたが、何を言っているかまでは聞こえなかった。膝に埋めた顔を上げて、メルヴィオラを認識したようにゆるりとこちらを向く。

 青い髪の下、あらわになったのはレッドダイヤモンドのように鮮やかに輝く赤い双眸。その泣き腫らした赤い宝石から、またひとつ真珠の粒がこぼれ落ちた。


 音のない声は海を揺らし、その波紋はやがてメルヴィオラの心までもを震わせて。女に共鳴するかのように、メルヴィオラの瞼を押し上げてぽろぽろと真珠の涙が止めどなく溢れ出した。


 ひとつこぼれるたび、枯れた枝に蕾がつく。

 またひとつこぼれ落ちれば、蕾は見る間に膨らんで。

 さざなみのように吹き抜ける風が蕾を揺らせば、それを合図にして祈りが一斉に花開いた。


 最後の一粒が頬を滑り落ちたのを感じてゆっくり目を開くと、メルヴィオラの視界に白い花を満開にさせたフィロスの樹が映る。青空に清々しい白をいっぱいに広げ、陽光を浴びてきらきらと輝いているようにさえ見えた。

 鼻腔をくすぐる甘く清涼な香りが辺り一面に漂い、誘われた小鳥たちは浮かれたようにさえずりはじめる。


 エムリスの孤島にあるフィロスの樹は目覚めた。

 聖女として役目をひとつ終えたのだと実感すると、メルヴィオラの体からふっと力が抜けていく。安心したのか、体に力が入らない。視界が大きくかしいで、体に鈍い衝撃が走ったことで、メルヴィオラは自分が倒れたことを知った。


「おいっ!」


 焦った声と共に、体がふわ……と抱き上げられる。けれどメルヴィオラにはもう、瞼を上げるだけの力はなかった。


「どうした! 目ぇ、開けろ。ヴィオラ!」


 勝手に愛称を呼ばれていることに反論もできないまま、メルヴィオラは泥の中へ引きずり込まれるように意識を失ってしまった。



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