第8話 さてはお前、処女だな

 エムリスにあるフィロスの樹は、島の中央にある。正規の道であれば、獣を寄せ付けない結界と整備された歩道のおかげで小一時間でもあれば着くのだが、今メルヴィオラたちが進んでいるのは道なき道の原生林だ。舗装されていない道は木の根や岩が転がっていて、歩きにくいことこの上ない。加えて野生の動物も多く、さっきのイノシシほどではないが、物陰からこちらの様子を窺う獣の気配もそこかしこに感じた。


 海賊のくせに山歩きにも慣れているのか、ラギウスの足取りは軽い。反対にメルヴィオラはちょっと歩けば石に躓き、一息つこうと木に寄りかかれば垂れてきた蛇に悲鳴を上げて腰を抜かす。その結果、距離は一向に進まなかった。

 島に着いたのは昼を少し過ぎたあたりだったが、今は森の中にもうっすらと闇が漂い始めている。薄暗い森の奥からガサリと物音が響けば、おもしろいくらいにメルヴィオラの肩が跳ね上がった。


「仕方ねーな。今夜はここで寝るぞ」


 ちょうど森が途切れ、目の前に青く透き通る泉が現れたところでラギウスが足を止めた。


「ここで!?」

「暗くなった森の中なんて、お前歩けないだろ」

「……狼になって、背中に乗せてくれたらいいと思うわ」

「乗り物扱いすんな。それにもう狼にはなれねぇよ。お前が呪いを解いたんだろ」


 水辺にしゃがみ込んだラギウスは、泉の水を両手で掬って顔を洗っている。慣れない山歩きにメルヴィオラの体も汗だくだ。本音を言えば水浴びしたいところだが、さすがにこの状況で服を脱ぐ勇気はない。靴を脱いで足だけを浸けると、ひんやりとした感触が火照った体から余計な熱を奪い去ってくれた。


「……気持ちいい」


 足先だけでは物足りず、メルヴィオラは水辺に座り込むと服の裾を捲り上げて膝下まで水に浸かった。ちゃぷちゃぷと爪先で水を弾いて遊んでいると、不意に後ろから赤い実を差し出された。見たことのない果物だ。


「リュフの実だ。果汁が多いから水分補給にはなるだろ」


 ぽいっと手渡された果実はひとつではなく、受け止められなかった幾つかが膝の上に落ちる。トマトほどではないが、一口で頬張るにはちょっと厳しい大きさだ。

 はじめて見る果物をどう食べていいのかわからず戸惑っていると、隣ではラギウスがぽいっと一口で食べているのが見えた。触るとやわらかいので、多分皮ごと食べられるのだろう。

 ラギウスを真似て実を囓ると、思った以上に果汁が溢れて白い服に赤い染みが飛び散ってしまった。


「きゃっ」

「はは! 何やってんだよ。食べこぼすとかガキかよ」

「こんな果物だって知らなかったんだもの! 教えてくれてもいいじゃない」

「ホント箱入りなのな、お前。ホラ、顔にも飛び散ってんぞ」


 無骨な指先で、頬をぐいっと拭われる。気遣いも丁寧さもまるでないのに、こちらを見る目はひどくやわらかい。また音を立てようとする胸を押さえようとして、メルヴィオラは残りの果物を必死になって一口で咀嚼した。


「顔も服もベトベトじゃねぇか。何なら水浴びしてもいいぞ」

「絶対に嫌! 何されるかわからないもの」

「随分と自分の裸に自信があるんだな」


 顎に手を当てて、ラギウスがじっとメルヴィオラを見つめてくる。その視線がやけに肌に纏わり付いて、まるで服を着ているのに何も着ていないかのような錯覚に陥ってしまう。何なら透視でもされているのかと思うほどに執拗な視線に、メルヴィオラは堪らず胸の前を腕で覆ってラギウスから身を捩った。


「変態!」

「んだよ、減るもんじゃねぇだろ」

「見せるものでもないわよ」

「さてはお前、処女だな」

「ふぇっ!? なっ、なななに言ってんのよっ。そっ、れくらい、聖女になるんなら当たり前に済ませてるわよっ」

「へぇ。聖女には夜の修行も必要ってか」

「当然でしょ。海軍の人にもお世話になっているんだし、日頃の感謝も込めて……その、あれこれするのよ」

「あれこれ?」

「あれこれよ!」


 動揺しすぎて、自分でも変なことを口走ったことはわかった。神官長が聞けば、特大の雷と共に数日間の謹慎処分もくらいそうだ。恥ずかしさと見栄が先行して墓穴を掘ってしまったが、目の前でニヤニヤしているラギウスを見ていると、その掘った穴に入って隠れてしまいたい気持ちになってくる。


「へぇ……。海軍にもご奉仕してんなら、海賊にも当然できるよな?」


 ぐっと距離を詰められて、メルヴィオラの背中が仰け反る。足は泉に浸けたままなので動ける範囲が極端に狭く、メルヴィオラはあっという間に押し倒されてしまった。


「ちょっ……と! 冗談はやめてよっ」

「誰もいないし、ちょうどいいだろ?」

「よくないっ! 外だし汗だくだし第一あなたとなんて絶対に嫌っ!」

「俺は別に構わないけどな」

「私が構うの! そっ、それに、そうだ! 私に手を出したら海軍が黙ってないわよ。大佐なんて私を贔屓にしてるんだからっ」

「……大佐?」


 ラギウスの眉がぴくりと動く。口からでまかせもいいところだが、おかげでラギウスの意識はそちらに向いたらしい。メルヴィオラが腕の中から抜け出していくのを、無理に引き止めることはなかった。


「海軍大佐ってことは、もしかしてパトリックか?」


 海軍大佐パトリック・ウェイン。

 水上都市イスラ・レウスの警備のため、オルトリスから派遣された海軍を指揮しているのが彼だ。周辺の海に加えて街の警護も兼任しているため、イスラ・レウスで彼を知らない者はいない。

 若くして大佐の任に就いていることも珍しかったが、それ以上に人の目を引くのはその容姿だ。金髪碧眼で品行方正。物腰は柔らかで、大佐という身分を鼻にかけることもない。海軍というよりは、まるで絵本から抜け出した王子そのものだ。


 剣より薔薇が似合う美しい青年だが、悪に対して容赦がないところは、やはり海軍大佐といったところだろうか。以前、浄化の力を狙った悪漢からメルヴィオラを助けてくれたことがあったが、その時パトリックが放った炎の剣技は男を焼き尽くすほどだった。

 炎の精霊が残した力を扱えることも、パトリックが大佐である理由のひとつなのかもしれない。


「何? あなた、大佐と知り合いなの?」

「知り合いっつーか、何度かやり合ったことはある。……にしてもアイツ、お前の護衛もしてたのか。ってことは、祈花きかの旅についてくるはずだった海軍ってのもリッキーか?」

「リッキーって……愛称で呼ぶくらい仲がいいんじゃないの」

「アイツは真面目だから、俺がそう呼ぶと嫌がるんだよ。おもしろいだろ」

「わかってて呼ぶなんて、性格悪い」

「海賊だからな」


 ニヤリと笑うラギウスからは、宿敵に対する嫌悪感というより好敵手を前にした高揚感に近いものを感じる。笑いながらパトリックのことを話す様子を見るに、おそらく彼のことをライバルだと認めているのだろう。……いや、もしかしたら、いい玩具なのかもしれない。


「アイツが護衛なら、一筋縄じゃいかねぇな。俺らの仕業だってのも、多分もうバレてるだろうし」


 神殿前で攫われた時、パトリックは確か少し離れたところに待機していたような気がする。あの時はラギウスも狼の姿だったので、パトリックも彼とは認識できなかったはずだ。

 もしイスラ・レウス周辺で海賊船エルフィリーザ号が目撃されていれば、聡いパトリックならメルヴィオラを攫ったのがラギウスであると突き止めるかもしれない。そう思うと、自然とメルヴィオラの頬が緩んだ。


「なに嬉しそうにしてんだよ。奴が来てもお前は渡さねぇ。呪いを完全に解くまでは一緒にいてもらうぞ」


 ちょっとだけ不機嫌そうに眉を顰めたラギウスが、唐突に着ていた上着を脱ぎ始めた。その様子にぎょっとして身構えたメルヴィオラの足元に、脱いだばかりの上着が放り投げられる。


「明日は日が昇る前に出発するぞ。今夜はもう寝ろ」


 どうやらシートの代わりに使え、と言うことらしい。粗野で乱暴だが、野宿などしたことがないメルヴィオラを気遣ってくれたことはわかった。

 上着のおかげで地面に直接横たわることはしなくて済んだが、眠れるかどうかは別の話である。結局メルヴィオラの意識が飛んだのは、それから随分と経った後のことだった。



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