第7話 馬鹿なの?
エムリスの孤島は原生林に覆われた無人島だ。フィロスの樹が立つ聖域であるので、水上都市イスラ・レウスの管理下に置かれている。
船着き場には神殿から派遣された神官が常駐しており、許可なくこの島に立ち入ることは許されない。もちろん、海賊船など問題外である。
「それで、どうやって上陸するの?」
メーファの魔法のおかげで、海賊船エルフィリーザは翌日の昼にはエムリスの孤島に到着した。とは言っても正面から堂々と上陸するわけにもいかず、今は島の裏側ぎりぎりに船を着けている。
島の裏側は見上げるほどに断崖絶壁なので、ここから上陸するのは不可能だ。なのにラギウスはにやりと自信ありげに笑って、その断崖絶壁を親指で指差した。
「もちろん、ここからだ」
「……馬鹿なの?」
「あの辺りの岩はちょうど登りやすそうだ。それにほら、あそこまで行けば垂れてるロトンの蔓を使って、岸壁に張り出した根に手が届く」
岸壁を指差して丁寧に説明してもらっても、メルヴィオラの眉間の皺が消えることはない。仮に百歩譲ってそれが道だとしても、腕力のないメルヴィオラには到底無理な話だ。
「私には無理よ」
「お前は俺が抱えて行く」
「なおさら無理でしょ。人ひとり抱えてあそこを登るなんて」
「俺もそう思ったんだが……見てたら、何か行けそうな気がするんだよな」
「そんな曖昧な予想に命かけないでよ。私はいやよ。死にたくないもの」
つんっと顔を背けて拒否を示したメルヴィオラの腰を攫って、ラギウスはもう船の手すりに片足をかけている。
「ちょっ……離して!」
「せっかくだし、行けるかどうか試してみようぜ?」
「どう考えても無理でしょ! やだっ、イーゴン助けて!」
唯一ラギウスの腕力に勝てそうなイーゴンに助けを求めるも、当の本人は頬を淡く染めて「アタシも抱えて欲しいわン」などと悶えているだけだった。
「おい、メーファ。最初だけ風でいいトコまで飛ばしてくれ」
「過重労働はんたーい」
そう言いながらもやわらかい風が二人を包んでいく。メルヴィオラの青い髪がそよぐくらいまで風が吹くと、それを合図にしてラギウスが断崖絶壁めがけて勢いよく飛び上がった。
「きゃっ!」
体が大きく揺れ、悲鳴もそこそこにメルヴィオラが瞼をぎゅっと閉じる。ついでにラギウスの首に回した腕にも力を込めると、笑みを纏った吐息が耳朶を熱く掠めていった。
絶対海に落ちると思っていたのに、一向に水の気配がない。恐る恐る目を開くと、近い位置で重なったラギウスのマリンブルーが勝ち誇ったように細められる。潮風に揺れる赤い髪が青空によく映えて、こんな状況だというのにメルヴィオラの胸は不本意にも甘い音を鳴らしてしまった。
「お? 案外大丈夫そうだな」
そういうラギウスは右手で岩の出っ張りを掴み、左手をメルヴィオラの腰に回して体を支えている。
「まさか本当にこのまま登るつもりなの?」
もはや器用というレベルでも、腕力があるというレベルでもない。成人女性をひとり抱えたまま、しかも使えるのは右手のみ。無理だろう。どう考えても、誰が見ても登れるはずがない。
それなのにラギウスは、本当に片腕だけで断崖絶壁を登り始めたのだ。さすがに楽々というわけにはいかなかったが、疲労の浮かぶ顔はそれでもまだどこか余裕のようなものが感じられる。
そうこうしているうちに、ロトンの蔓から岸壁に張り出した根っこへ飛び移ったラギウスは、そこから崖上までラストスパートをかけて一気に登りきってしまった。
「だーっ! さすがにちょっとキツかったな……っ」
崖を登り終えると同時に、力尽きたラギウスがバタリと地面に倒れ込んだ。仰向けに寝転がって、目を瞑ったまま荒い呼吸を整えている。
「まさか本当に登っちゃうなんて……信じられない」
「さすがに途中で落ちるわけにもいかねーからな。でも、何つぅか……体に力が
驚く間もなく、腕を掴まれ押し倒される。一応頭を打たないように抱きかかえる形ではあったが、急な体の反転にメルヴィオラの意識がちょっとだけ飛んだ。
「
メルヴィオラの体を脇へ押しやって、ラギウスが素早く身を翻す。その視線の先にいたのは熊ほどもある巨大なイノシシだった。何を食べたらそんなに大きくなるのか、見た目の凶悪さは魔物といってもいいくらいだ。もちろん人ひとりの手に負える大きさではないし、ましてや海賊の剣で仕留められるものでもない。
それなのに剣を手にして対峙するラギウスは、口角をかすかに上げて命のやりとりを楽しんでいるようにも見えた。
「ちょっ……」
メルヴィオラの言葉も待たず、先手必勝とばかりにラギウスがイノシシに向かって走り出した。突進してきたイノシシの牙をギリギリのところで避けたかと思うと、その首に剣を深く食い込ませる。そのまま剣を軸にしてひらりと背に飛び乗ると、暴れるイノシシから振り落とされる前に、今度はその脳天めがけて剣を一気に振り下ろした。
人間離れしたあまりの身軽さに呆然としていると、まだ完全に倒れていないイノシシが最後の力を振り絞って走り出した。その先は、さっきメルヴィオラたちが登ってきた崖だ。
「……やべっ」
焦った声が聞こえる。見ればどうやらイノシシの頭に突き刺した剣が引き抜けないようだ。
「ちょ……っと、何やってるのよ! 早く降りて!」
「コイツ、頭が固ってぇんだよっ。……っ、抜けた!」
無事に引き抜いた剣を勢いに任せて振りかぶり、どうだといわんばかりにラギウスが笑った。その一秒後、メルヴィオラの視界からイノシシとラギウスの姿が崖下へと消えた。
「ラギウスっ!!」
メルヴィオラの悲鳴に続いて、下の方から大きな水飛沫の上がる音がする。慌てて崖下をのぞき見ると、白い泡の立つ海面を見て騒ぐクルーたちの姿が目に映った。
無事であればそろそろ浮かんでくるはずなのに、ラギウスの体は一向に海から上がってこない。怪我はしていなかったはずだが、もしかして落ちるとき崖に頭でもぶつけてしまったのだろうか。
そう良くない思考が巡り始めたところで、不意ににょき……っと崖下から手が現れた。次いでぴょこん、と飛び出た黒銀色の三角耳。
「ラギウス! 無事だったの!?」
「いや、マジで落ちるかと思ったわ」
よっこらせと這い上がってきたラギウスの手には、ロトンの蔓が握られている。
「さすがにもう一回最初から登り直すのはキツいしな」
「……そういう問題じゃないでしょ。いろいろと無茶しすぎよ」
「まぁ、崖は登れたし、イノシシも追い払ったし、幸先はいいだろ?」
確かにあの巨大イノシシを相手にして、目立った怪我は頬のかすり傷くらいだ。無事であることにはホッとするのだが、こちらの気持ちなどまるで知らないように笑うラギウスを見ていると、何だか言葉にできないモヤモヤが胸の奥に溜まっていく。
「あなたの基準はおかしいのよ」
ぽつりと言葉をこぼせば、納得いかないといったようにラギウスが眉間に皺を寄せた。
「何で?」
「何でって……普通あんなに大きなイノシシと正面から戦わないでしょ」
「そうじゃねぇ」
「そうじゃないって、何が……」
「名前」
「え?」
「やっと俺の名前呼んだと思ったのに、何でまた戻ってるんだよ」
じっと見つめてくるマリンブルーの瞳がいつになく真剣な輝きで、メルヴィオラは堪らずラギウスからぷいっと顔を背けてしまった。意識して呼ばなかったわけでもないが、改めて指摘されると今度は逆に呼びづらくなってしまう。
「そういうあなただって、私のこと……」
「メルヴィオラ」
「……っ!」
間髪入れずに名を呼ばれ、背けていた顔を思わず元に戻してしまった。その先でラギウスは勝ち誇ったように笑っていて、何だかそれがまた少しだけメルヴィオラの胸に甘い棘を刺してくる。
「俺も呼んだんだから、お前も呼べよ」
「何よそれ。子供みたい」
「子供じゃないってんなら、名前くらい言えるよな?」
いつの間にか腕を掴まれていて、逃げ場を完全に封じられていた。このままでは名前を呼ぶまで解放してくれなさそうだ。非難するように睨み付けてみるも、それが何の効果も生まないことはメルヴィオラにもわかっていて。
「……っ、……ラ……ラギ、ウス」
消え入りそうな声で名を呼ぶと、満足げにラギウスが笑った。その背後で尻尾がぱたぱたと揺れているのを見てしまい、メルヴィオラは恥ずかしいような、くすぐったいような、よくわからない気持ちになってしまった。
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