第三章③

 それからというもの、澪は来る日も来る日も練馬の物件へと通った。一応自動車免許も持っていたし、次郎からは社用車を使っていいと言われていたけれど、ペーパードライバーの澪は迷うことなく電車での往復を選択した。

 朝は、物件に着くとまずメディアを回収し、カメラのバッテリーを充電する。そして夕方は、バッテリーを差して録画を開始するという流れだ。

 一日二回行く必要があるのは、カメラの連続録画時間が最大十二時間という理由から。

 最初は面倒に思っていた澪だけれど、始業前に家から電車で物件まで行き、帰りに物件に寄って帰るというサイクルは案外苦痛でもなく、むしろ通勤ラッシュの時間帯に都心から逆流して乗る電車は思いのほか快適だった。

 ちなみに、出社してから夕方にかけては、新入社員研修でみっちりと埋まっている。最初の一ヶ月は新入社員全員で「不動産基礎知識」や「コンプライアンス」など基本的な研修を受け、それ以降はそれぞれ実務を行いながら都合の良い時間に一日二時間、三ヶ月かけて「ビジネスマナー」「物件調査」など、やや実践的な内容の研修を受けることになっている。

 受講スケジュールを聞いた時は、そのあまりの多さにげんなりしたものだけれど、実際に参加してみれば、そう嫌なことばかりでもなかった。

 何より良かったことといえば、新入社員の中に友人ができたことだ。

 怪しい部署で次郎と二人、延々と訳あり物件を調査する日々を過ごすのだと思っていた澪に研修初日に声をかけてくれたのは、なかがわはるという名の恐ろしく可愛いらしい新入社員だった。春香は顔が可愛いだけでなく、愛想も良いし性格も明るくサッパリしていて、おまけに胸があるくせに体型はきやしやという、男女共から愛される要素をすべて持ち合わせていた。そんな春香から声をかけられた瞬間は、澪もつい緊張したものだ。

 ちなみに春香の配属先は、第一物件管理部。つまり高木と同じく高層階のエリート部署だ。けれど春香はそれを鼻にかけることもなく、そもそも物件管理部全体に女性新入社員が少なかったこともあり、二人が仲良くなるのに時間はまったくかからなかった。

 数日も経てば昼休みも一緒に出るようになり、澪は財布ひとつ持ってビジネス街を歩きながら、丸の内に馴染んでいく自分を嬉しく感じていた。

 だから、思えば澪はすっかり油断していた。朝夕の往復と映像確認作業にも慣れ、霊が出る部屋に一人で入ることへの恐怖も薄れ、ごくごく平和な日々を送っていた、ある日。──状況は、一変する。

 いつも通り夕方にバッテリーを差して録画を開始し、改札の手前で、澪はパスケースがないことに気付いた。来る時は当たり前に電車で来たのだから、落としたとしたら調査中の部屋の中という可能性が高い。

 一度は取りに戻ろうかと思ったけれど、そもそも通勤定期を使える区間内でもないし、なにより面倒に感じ、結局切符を買って帰宅した。

 そして、翌朝。

 物件に着き、玄関を開けた瞬間。──突然、背筋がゾワリと冷えた。

 部屋の様子は、いつもと変わらない。けれど、どこか異様な空気が充満している。

 澪は気味悪く感じて、手早くメディアを回収すると、バッテリーを充電器にセットした。そしてふと、部屋に落ちている自分のパスケースを見つける。

 ──やっぱりここに落ちてたんだ……!

 それは、入社祝いという名目で自分で買った、革のパスケースだ。さほど高いものではないけれど、就職という節目の記念になるものが欲しくてじっくり選んだだけに、それなりに気に入っている。

 澪はほっとして、それを拾った──瞬間。いつもとは違う手触りに、ドクンと心臓が大きく鼓動した。

 ほどよく手にみ、ポケットに入れていればつい無意識に触ってしまうような、心地よい感触だったはずのパスケースの裏から感じる違和感。

 澪は慌てて裏返し、──そして、息を飲む。

 そこには、まるで爪で引っかかれたような、三本の大きな傷が入っていた。それも、ちょっと擦れた程度ではなく、革が大きくえぐれている。

 得体の知れない恐怖がこみあげ、澪は部屋を一周ぐるりと見渡した。一瞬、侵入者がいるのではないかと思ったからだ。けれど、澪はすぐにその可能性を否定する。

 そもそも空き部屋に侵入する理由なんてないし、侵入したとしても、落ちているパスケースにわざわざ傷をつける理由がない。人の仕業だとすれば、納得のいく目的がひとつも思いつかないのだ。

 しかし、だからといって人の仕業ではないと結論を出す勇気はなかった。

 澪は逃げるように部屋を出ると、足早に駅へ向かう。しかしポケットに突っ込んだパスケースに触れる勇気がなかなか出ないまま、改札の前でしばらくたたずんだ。

 電車が到着したらしく、通勤で殺気立ったサラリーマンたちが、ぼうぜんと立ちつくす澪に迷惑そうな視線を向けながら改札を通り抜けていく。

 それだけの雑踏の中にいても、心の奥から込み上げる恐怖は少しも和らいではくれなかった。

 ──怖い……、助けて……。

 心の中で助けを求めても気持ちは余計に孤独になる一方で、澪はやがて眩暈めまいを感じ、壁際に座り込む。その時、ポケットの中のスマホが、突然、振動した。

 画面に表示されている名前は「長崎次郎」。澪はすがるような気持ちで通話ボタンをタップする。

「なんかあったろ」

 第一声は、ずいぶん唐突で確信的な一言だった。けれど不思議なことに、逆にそれが心を落ち着かせていく。

「次郎さん……」

「やっぱり」

 澪の震える声で、次郎は小さくめ息をついた。

 何故わかったのだろうと、澪は心のどこかで疑問に感じてはいたけれど、正直今、それを解消させる余裕はない。

「あの……、部屋に忘れていった私のパスケースが……、ボロボロになってて……引っかいたみたいな……」

「なるほど。かなり荒れてるみたいだな、あの部屋の住人は」

 荒れているという表現は恐ろしいものの、やけに落ち着き払った次郎の声が、今は救いだった。澪は震える手で、スマホを力いっぱい耳に押し当てる。

「物を動かしたり落として壊したりってのはたまにあるが、実際に物を傷つけるってのは、珍しい。ま、とにかく会社に来い。歩けるか?」

「は、はい……、大丈夫です行きます……」

「上等だ」

 口調は冷たく淡々としているけれど、言葉にはいつもには無い優しさがにじんでいた。澪は少しだけ気力を取り戻し、ふらつきながらも立ち上がった。

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