第三章①

 人間それぞれの本質というものは、親の管理下にいる間はなかなか自覚しづらいものなのだそうだ。例えば一人暮らしを始め、経済的に自立した時に、良くも悪くもハッキリするらしい。

 それは澪が大学に入ったころ、進学を選ばずに就職した同級生が言っていたことだ。

 その同級生を含め、早く社会に出た友人たちは皆、会えばずいぶん大人びて見えたし、逆に澪たち学生のことを「気楽そうでいいね」と評した。

 かたや、進学した友人たちはそれを不快に感じたらしく、やがて就職組と進学組は疎遠になっていく。

 澪は当時、両方を八方美人的になだめながらも、心のどこかでそれを仕方のないことだと思っていた。学生と社会人とでは、負う責任の大きさも違えば、生活する上での優先順位も根本的に違う。

 澪だって大学時代、翌日の予定を心配しながら遊んだことなんてほとんどないけれど、社会人になってしまえば、それはありえないことだとわかる。

 澪は、若き日のそんなかつとうを思い出しながら、引越ししたての部屋で、目の前に高々と積まれた段ボール箱を前に重いめ息をついていた。

 四月。人生初の、一人暮らし。

 吉原不動産の所有する物件から選べば、家賃の半額が補助される制度に背中を押されて、澪はこうえんのマンションを選んだ。

 緑に囲まれて育った澪としては、最初は都内に住むことに少し抵抗があった。けれど、高円寺駅を出た瞬間に広がる、どこかほっとする街並みと活気のある商店街が決め手となり、ほぼフィーリングのみで引越しを決めた。おまけに会社まで電車で三十分と、アクセスの良さも申し分ない。

 そんなこんなでバタバタと引越しを終えた、ものの。部屋は一向に片付かず、澪は呆然としながら四年前に就職の道を選んだ同級生のことを考えていた。

 ──親の管理下では自覚し辛い本質……。

 澪は早くも、自分の要領の悪さとだらしなさを痛感している。

 家にいれば「早くしなさい」とか「手伝おうか」と言ってくれる両親がいるし、たとえすべての体力を使い切ったとしても、食事もおも勝手に用意されていた。

 しかし、これからは、そうはいかない。

 どんなに疲れていようとも、自分で用意しなければ食事もないし、洗濯しなければ服もない。

 ごく当たり前のことだけれど、澪は早くもへんりんを見せ始めた自身の甘えた本質に、不安を覚えていた。

 ただ──、当然、新しい生活への期待もある。

 色々──本当に色々あったけれど、澪はこの春から晴れて、超大手企業、吉原不動産の社員なのだ。


    *


 入社式は、吉原不動産が所有するホテルの大ホールで、厳かに執り行われた。

 吉原不動産は、会長も社長も女性が就任している。当然知ってはいたけれど、関係者席にズラリと並ぶ重役たちもほとんどが女性で、さすがに少し異様にも思えた。

 式の後は、懇親会。指示されるままにホールを移動すると、まるで披露宴会場のように華やかな会場が用意されていて、澪はそのスケール感にすっかり圧倒された。つくづく、よくこんな大企業に入れたものだと実感する。

 完全なる庶民体質の澪は、興奮冷めやらず、その夜はなかなか眠りにつけなかった。

 思えばその時はすっかり舞い上がり、自分の配属先のことが頭から抜けていたのかもしれない。

 翌日、初出社で久しぶりに訪れた吉原不動産の本社ビルにて、他の新入社員たちがどんどん高層階へと上がって行く中、ひとり地階に下りながら、澪はひそかに現実をみ締めていた。

「失礼いたします……」

 飾り気のないドアを恐る恐る開けると、中からはカチカチとキーボードをたたく音。澪がここを訪れたのは約九ヶ月ぶりだったけれど、倉庫のような乱雑さは相変わらずだ。

「おう。来たな」

 そこにいたのは、第六物件管理部部長、長崎次郎。澪に視線をくれることもなく、雑なあいさつをする。

 部屋をよく見れば、次郎のデスクの向かいには新しい机と椅子と、そで机、そしてパソコン一式が用意されていた。

「あ、あの、部長……」

「先に言うが俺を部長と呼ぶな」

「え、だって、部長でしょ……?」

 早速された謎の指示。澪は戸惑いながらも、視線で誘導されるままに自分のデスクへ荷物を置く。次郎から返事はない。真剣にモニターを眺めながら、手元の資料と照らし合わせていた。

 仮にも初出社だというのに、とてもそうは思えない待遇だ。次郎の性格上、大歓迎してもらえるとは思っていなかったけれど、これはなかなかにひどい。

 澪は、とりあえずパソコンの設定だけでもしておこうと電源を入れた。すると、その時突然、ドアが勢い良く開け放たれる。

「あ、君が新垣さん? 入社おめでとう!」

 入って来たのは、長身の男。澪はその姿を見て、言葉を失う。

 理由は単純だ。その男は、恐ろしく整った顔をしていたのだ。もはやイケメンという言葉が安っぽく感じられるほどに。

 顔は小さく、目はキリッと印象的で、けれども笑うと途端に柔らかくじりが下がり、猫っ毛の茶髪がふわりと揺れる。驚く程に、癖の無い顔だ。

 いっそ作り物だと言われたほうがよっぽど納得がいくと、澪は密かに思った。

「あ、あの……、ありがとう、ございます」

「俺はたかまさふみ。第一物件管理部で主任をしていて、次郎とは幼なじみでもあるんだ。第六に新入社員が入るって聞いて、どんなたくましい奴が来るんだろうって思ってたのに……、まさかこんな、子犬みたいな可愛い子が入るなんて!」

「こ、子犬……?」

「豆柴って感じだよね!」

「おい。……高木、しやべり過ぎだろ」

 次郎はやはりモニターから視線を外さない。高木はそんな次郎に溜め息をひとつつくと、モニターの前に資料の束を差し出した。

「とにかく、第六に回す物件を持って来たからさ。よろしくね、次郎」

「またしょうもない案件じゃねぇだろうな」

「しょうもないかどうかは、僕ら素人にはわからないからさ、調査して判断してよね」

 高木は幼なじみと言うだけあって、ずいぶん次郎の扱いに慣れているようだ。そして、澪の肩をぽんと叩くと、さわやかに笑って部屋を後にする。

 澪はその後ろ姿を眺めながら、ぼうぜんとしていた。

 ──東京にはスゴい人がいるんだなぁ……。

 想像を超えるイケメンを見てしまうと、逆に色めき立つ気持ちにはなれなかった。芸術品を見た時のように、ただただ感心するのみだ。

 しかも、第一物件管理部といえば自社物件を管理する部署。第六とは違い、エリート部署だ。

 ──逆に地獄のようにモテるんだろうなぁ……。

 澪はつい下世話な想像をしてしまったことを恥ずかしく思いつつ、ふと、高木が次郎に渡した資料のことを思い出す。次郎もまさにその資料を眺めているところだった。

「あの、長崎ぶちょ……、じゃなくて、長崎さん」

 次郎に反応はない。ずいぶん集中しているらしい。

「長崎さん?……なーがーさーきーさん!」

「…………」

 どれだけ呼んでも反応はなく、澪は逆に気味悪さを感じた。いくらなんでもここまで集中することがあるだろうかと。

「長崎さんってば!……次郎さん!」

「何だ」

「ちょっ……」

 急に反応され、しかもそれが下の名前を呼んだタイミングだったものだから、澪は焦って目を泳がせる。

 しかし次郎は動揺することも怒ることもなく、ふたたび資料に目を落とした。

「悪い、何度か呼んだか? ずっと一人で仕事してたから、人がいるってことに慣れないんだ。それに、長崎は呼ばれ慣れてない」

「え? そんな……」

 そんなこと、ありえるだろうかと言おうとして、澪は口をつぐむ。人にはそれぞれ事情があるし、あまり介入するのも気がとがめたからだ。

 次郎は澪のそんな心境に構うことなく、読んでいた資料をバサッと澪へ差し出す。

「初仕事だ」

「え? 初……」

「行くぞ」

 そして、いきなり立ち上がると、無造作に置かれている荷物をいくつか抱え、ドアを開けた。澪は慌てて後に続く。

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