第二章⑥
*
目覚めたのは、すっかり日が昇った頃だ。
全身汗だくなうえ、外では蟬が狂ったように鳴き、これ以上ないくらいの不快指数の中、澪は体を起こす。
「危うく死ぬとこじゃん……」
冗談抜きで、部屋の中は地獄のような暑さだった。
スマホを見ると、時刻は八時半。この時間でこれだけ暑いなら、昼間は一体どうなるのだろうとうんざりしながら、澪は額の汗を拭う。
──ってか、八時、回ってる……。
もはやあまり意識もしていなかったけれど、適性審査は八時で終了のはずだと思い出し、澪は散らかった手紙を丁寧にひとまとめにして、それから窓を全開にした。
しかし、外からは期待した涼風は一切吹かず、
ならばいっそ玄関も開けて通気しようと、澪が思い切り玄関のドアを開けた、その時。
ゴンと鈍い音がし、ドアが何かにぶつかる感触を覚えた。
不思議に思ってドアの外を
「わぁっ……!……って、あれ?」
「……い……ってぇ」
「あの、まさか、頭ぶつけました……?」
「どんな勢いでドア開けてんだよ……」
そこには、次郎がいた。澪は驚いて玄関の外に出る。
「だって、こんなとこに人がいるなんて思わないじゃないですか……!」
澪は玄関の前の様子を眺め、ふと違和感を覚えた。
そこには小型のモニターが置かれ、コンビニの袋がいくつかと、水のペットボトルが一本、そして空のペットボトルが二本転がっている。まるで、長い時間を過ごしたかのように。
──……って、あれ……?
澪の頭にはひとつの予感が
よくよく見ればモニターには、部屋の中が映されていた。画面はいくつかに分割され、二つの和室の様子が記録されている。
「の、覗いてたんですか……?」
「人聞きの悪い言い方をするな。貴重な資料を記録してただけだ」
「もしかして、心配してくれてたんですね……」
「人の話を聞け」
勝手に感動する澪に、次郎は
けれど、一晩の異常な体験で疲労
放置されたと思っていただけに、実はちゃんと見てくれていたという事実も
「で、どうだ。原因はわかったか?」
「原因?」
「……おい。この物件の調査に来たんだろうが」
「ああ……! そうそう、こっちに来てください!」
澪はそういえばと思い出し、次郎を部屋の中に誘導した。そして、畳の部屋にまとめたたくさんの手紙を指差す。
「あの手紙が、
「……なるほど。無念が手紙に宿ったんだな」
次郎は、よくあることだとでも言うように淡々とそう言い、手紙の前に
そんな次郎の姿は少し意外に思え、澪は黙ってその様子を見つめていた。そして、改めて見る次郎の姿に、わずかに戸惑う。
──この人、実は結構イケメンなんだよね……。
目にかかりそうな長さの黒髪に、意外にも長いまつげ。まっすぐに結ばれた口元に、シャープな
最終面接の時から薄々感じていたけれど、次郎はかなり恵まれた外見だ。ぶっきらぼうであまりに冷たい物言いのせいで、つい忘れてしまうけれど。
間もなく次郎は目を開けると、手紙をまとめて袋に詰め始める。ついぼんやりしてしまっていた澪も、慌てて手伝った。
「あの、……どうするんですか? この手紙」
「供養する。……ま、この部屋にはもう、悪い気配は感じないけどな」
「そうなんですか? どこに行ったの?」
「お前が手紙を見つけてやったから、気が済んだんじゃないか?」
そう言われて、澪は朝方の霊の様子を思い出した。
たしかに、夜中とはずいぶん様子が違っていたし、まるで泣いている澪に寄り添っているようだった。
「そんなことで成仏できるんですか……?」
「正確に言えば、無念でこの世に
次郎の言うことはわかるものの、澪はいまひとつスッキリできないでいる。確かに手紙は見つけたけれど、結果的に息子には届いていないのだ。
「でも、もう会えないにしても、手紙は渡してあげてもいいんじゃ……」
「安易に片側の思いだけ
「だけど……!」
「いいから、帰るぞ。審査は終わりだ」
ぴしゃりと言い渡され、澪は口を
帰り道、澪は車で駅まで送ってもらいながら、黙ってぼんやりと窓の外を眺める。
疲れのせいもあったけれど、それだけではなかった。泣いてしまった澪の背中を包む優しい余韻が、まだ背中に残っているようで、このまま終わりにするのはやはり悲しい。
そんな時、ふいに次郎が口を開いた。
「……おい」
「はい……?」
「お前、内定が出たらどうする」
「え……?」
澪はふと、次郎に視線を向ける。
──内定……。
あれだけ欲しかった内定という言葉に、何故か心はあまり浮つかなかった。審査するのは次郎なのだから、なんなら今懇願することだってできる状況だというのに、澪はゆっくりと
「……よく、わかりません。……めちゃくちゃ怖かったし、それになんだか……、悲しかったし、何よりすごく疲れました。内定取れたら、来年から私はずっとこういう仕事するんですよね?」
「そうなるな」
「それって……、心がもたない気がします」
「そんなのは慣れだ。……経験を重ねて、次第に」
「そんなこと言われても……」
どう答えればいいのかわからずに黙ってしまった澪に、次郎はさらに言葉を重ねる。
「お前には素質がある。思っていた以上に」
「そんなわけ……」
「ある。……あまり言いたくないが、お前を逃すのは、惜しい」
澪は驚いて、ポカンと次郎を見つめた。まさか次郎から「惜しい」なんて言葉をかけられるなんて、夢にも思っていなかったからだ。
ただし次郎の言う「素質」とは、霊感のことだ。万が一霊感が人並み外れていたとしても、今日のような仕事をずっとやっていくと思うと、正直あまり喜べない。
「吉原不動産の内定、欲しいんだろ?」
「そりゃ欲しかったですけど……! 私がイメージしてたのは、こういうのじゃないです!」
「じゃあ、またイチから就職活動するのか」
「うぅ……っ、究極の選択すぎる……!」
「
その時初めて、次郎がほんのわずかに笑い声を
澪があまりの驚きに硬直すると、次郎はまたすぐに不満げに眉を寄せる。
──今、笑った……。
それは、とても不思議な気持ちだった。心のどこかで、この男はきっと永久に仏頂面なのだと決め付けていただけに、衝撃も大きい。
しかも、一瞬だけ見えた次郎の笑顔は意外なことに、とても穏やかだった。
澪は無性にもう一度見たくなって、慌てて言葉を
「あ、あの!」
「なんだよ」
「部署異動願って、いつ出せるんですか」
「内定も出てねぇのに、部署異動願の質問する奴なんか聞いたことないぞ」
「だって! そういう救いがないと頑張れないですもん!」
「無茶苦茶だな」
あくまで、次郎に笑ってほしくて言った無茶な要望だった。しかし残念ながら、次郎に笑う気配は
「……一人前になったら好きな部署に口利きしてやる」
「え?」
それは、思わぬ吉報だった。まさか本気でそんな条件をもらえると思っていなかった澪は、目を見開く。
「さっさと育てば、晴れて高層階に異動できるぞ」
「ま、まじですか、それ!」
澪は途端にテンションを上げた。言ってみるものだと、昨夜の疲れも一気に吹き飛ぶ。次郎は
「着いたぞ。じゃああとは、通知を待て」
「はい!」
そうして、長かった適性審査はようやく終わりとなった。
澪は、次郎の車が見えなくなるまで見送った後、こっそりとポケットを探り、一枚の封筒を取り出す。
それは──、残された手紙の中の、一通だった。
*
大田区田園調布。
言わずと知れた、高級住宅街。駅を中心に円を描くように続く
適性審査から十日。
次郎から他人の事情に介入すべきでないと言われ、それも正論だと思ったけれど、結局澪の心に広がるモヤモヤは晴れなかった。
初めて霊という存在と向き合ったことで、これまではただ恐ろしい存在だと思っていた霊への感じ方は少し変わり、どうせ足を突っ込んだのだからできる限りのことをしたいという気持ちも芽生えている。
ただの自己満足かもしれないし、お節介だという自覚もしていた。けれど、あーだこーだとひたすら悩むことが苦手な澪は、結局、感情の赴くままに行動してしまう。
ちなみに、田園調布を訪れたのは初めてだった。だから、田園調布といえば想像を絶するほどのスーパーセレブが住む街だと、それくらいのイメージしか持っていなかったし、これまでに縁もなかった。
実際に通り過ぎる家はどれも噓みたいに大きく、ある意味イメージ通りだったと澪は
けれど、ひとつだけ想像と違うこともあった。意外にも、空き家が多いことだ。
注意深く見ながら歩いていると、ところどころに人の住む気配のない家を見つけることができる。
空き家になっている大きな家を見ると、澪はなんだか複雑な気持ちになった。
いくら栄えていようとも、時間が流れればすべての物事は変化するし、住宅街はとくに顕著だと、澪はテレビで見たことがある。
たとえば公団住宅やニュータウン計画。どれだけ華々しく幕を開けようとも、人間が住んでいる以上はたった数十年で世代が変わってしまうし、
とはいえ澪は、日本屈指の高級住宅街である田園調布までもが該当するとは思っていなかった。気になるほど過疎っているわけでもないけれど、時間の経過には
やがて、地図アプリは目的地が近いことを知らせる。澪は緊張しながらも、最後の角を曲がった。──けれど。
アプリが知らせた目的地は、ただの更地になっていた。
住宅地を歩きながら、薄々その可能性が
ただし、よく考えてみれば澪は、霊となった女性がそもそもいつの時代に生きていたのかすら、知らないのだ。
封筒の消印は湿気でとうに
更地の前に
時間が経てば、すべての物事は変化する。
ついさっき田園調布を歩きながら考えたことが、ふたたび頭の中に浮かんでいた。
あの女性の霊を慰める方法はおそらく、もう、無いのだ。遠い過去にしか。
──でも。……だからこそ。
彼女の伝えたいことを聞くことができるこの〝適性〟を、澪は初めて、特別なものに感じた。
澪は静かにその場を後にする。心の中には、まだ形にならない小さな決意が生まれていた。
家へ帰ると、ちょうど吉原不動産から、内定を知らせる通知が届いていた。
次郎との会話でもはや結果はわかっていたけれど、やはり念願の「内定」という二文字は素直に
「澪! 気を落とすな! よし、寿司でも食いにいくか!」
「お父さん、内定取れたよ」
「別に大企業じゃなくたっていいじゃないか! な!?」
「だから、取れたってば、吉原不動産!」
「よしは……え?」
目を丸くしている父に笑いかけ、澪は自分の部屋へ入るとベッドに寝転び、通知を眺めた。
「──厳正なる選考の結果、貴殿を採用いたすことを内定しましたのでご連絡いたします……か」
泥臭い実務審査を受けた後の内定通知がやけに機械的で、澪はつい苦笑いする。
来年四月。
何かが始まる予感は楽しみでもあり──恐ろしくもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます