第二章⑤
澪は覚悟を決めて、結界から一歩踏み出す。そして、辺りに何の異変も無いことを確認すると、一度大きな
長い時間の極度の緊張のせいか、全身がぐったりと疲れている。
この様子ならば、おそらくもう玄関のドアも開くだろうとも考えた。もう内定なんてどうでもいいのだから、わざわざ居座る必要もないと。
けれど、澪は玄関には背を向け、隣の部屋に足を踏み入れる。
いまだ恐怖は
──押し入れからいきなり出てくるとかは、ナシで……!
最悪のケースに
心臓は、破れそうなほどに大きく鼓動していた。手の平の汗で、引き手がぬるりと滑る。
澪はしばらく呼吸を整え、覚悟を決めると一気に押し入れを開けた。
スパンと小気味の良い音とともに、たちまち辺りに漂う、じっとりとしたカビの臭い。しかし中は空で、何の異変も見つけられなかった。
「あれ……、絶対何かあると思ったんだけど……」
澪はひとり言を
澪は首をかしげ、襖を閉めようと今度はゆっくり引き手を引く。──すると、その時。
ガサッと、どこからともなく物音が聞こえた。
澪は突然のことにビクッと肩を震わせ、慌てて辺りを見渡すけれど何もない。しかし、気を取り直してもう一度引き手を引いた時、ガサガサ、と、今度はハッキリと物音が響いた。重なった紙の束が擦れるような、特徴的な音だ。
少し
──襖の中に、何かある……。
澪は、音の鳴る襖を抱えて敷居の溝から外すと、裏返して畳の上へ倒した。よく見れば、一箇所がいびつに膨らんでいて、そのあたりのふすま紙には何度も貼ったり
恐る恐るガムテープを引っ張ると、ふすま紙の一部が簡単にめくれ、木の骨組が
澪は込み上げる緊張から息苦しさを感じながらも、さらにふすま紙をめくる。──すると、ちょうど膨らんでいたあたりから、大量の紙の束が現れた。
「な……んなの、これ……!」
紙はどれも湿気を吸って茶色く変色しているけれど、注意深く観察してみれば、それらすべてに住所と名前が書かれている。おそらく、手紙だ。
澪は、中から比較的傷みの少ないものを選んで手に取る。すると、封筒の表側には白い紙がベッタリと貼られ、「受け取り拒否」という文字が書き殴られていた。
──受け取り拒否……?
通常、ポストに
澪はなんとなくもやもやした気持ちになり、他の手紙もいくつか手に取る。けれど、それらには一つ残らず同様に、受け取り拒否の紙が貼られていた。
「どういうこと……」
手紙は取り出しただけでも数十通ある。襖の奥にはまだまだありそうだ。
あまりの異常さと気味悪さに、澪の思考は一瞬止まる。
けれどその大量の手紙の束からは、深い悲しみが
──私に伝えたかったことって、このこと……?
澪はふと、押し入れの中に消えて行った霊の姿を思い出す。あの時、霊は澪の「私にできることは?」という問いかけに答えるように、手紙の場所を教えた。
だとすれば、霊が悲しむ原因は手紙にあるはずだと、澪はもう一度手紙の束に視線を落とす。
手紙はすべて、未開封だった。宛て先はすべて
澪は散々迷った挙句、中を確認してみようと思った。
人の手紙を勝手に開けることにはもちろん抵抗があったけれど、この手紙の
澪はそれを開封の許可と解釈し、思い切って一通の手紙を手にすると、注意深く封を開ける。
『真へ。どうしてもひと目、あなたに会いたいです。ほんのひと時でいいので、どうか母に時間をください──』
最初の二行を読んだだけで、澪の心はぎゅっと締め付けられる。
この手紙は、母親が息子に宛てた、とても悲しい手紙だった。
『──いつも、あなたのことを想っています。今あなたが幸せならば、私は邪魔をしたくないと考えています。だけど、あまりに突然の別れだったから、気持ちがついていけていません。真、お願いします。ひと目、会ってください。そして、他の誰でもなくあなたの口から母に別れを言ってください。そうしたらあなたが新しい家族の中で生きていくことを、心から応援できると思うのです──』
親子で違う苗字、開けられずに返送される手紙。
詳しくは書いていないからわからないけれど、送り主の女性──おそらく霊となってこの部屋にとどまっている女性は、何らかのトラブルによって、息子と生き別れになったのだろうと澪は察する。
現に、手紙の続きには、待ち合わせ場所と時間が書かれていた。けれど読まれなかった手紙の約束が、果たされるはずはない。
『母はいつだってあなたのことを想っています。なにがあろうとも、あなたを一番に愛しています。たとえ、一生会えなくても』
ふいに、澪の目からぽろりと涙が零れた。
さっきまで恐ろしくてたまらなかったはずなのに、手紙の文面はあまりにも悲痛で、一文字一文字すべてに想いが込められているようで、読めば読むほど心が
そんな手紙が、両手で抱えられないほどにたくさん書かれているのだ。
すべてにこれだけの想いが込められているとすれば、一体どれだけ深い悲しみなのだろうと、澪は感情移入せずにはいられなかった。
──こんなの、悲しすぎる……。
澪はやりきれない気持ちで、拭ってもきりがない涙をぽろぽろと流す。──すると、その時。突然、背後から気配を感じた。
それは、ふわりと澪の背中を包むような感触だった。
ひんやりと冷たいそれには、覚えがある。確実に、──命の気配ではない。澪は途端に身構えたけれど、不思議なことに、もう夜中に感じたような恐ろしさはなかった。
「もしかして……、福原慶子さん、ですか……?」
恐る恐る尋ねるも、返事はない。
霊は澪の背中に寄り添うようにして、まるで手紙を一緒に眺めているようだった。その気配がやけに悲しく、澪は続けて言葉をかける。
「会えなかったの……? ずっと……?」
気配がゆらりと揺れる感触がした。
「
語尾は涙で
澪は手の甲で頰を拭いながら、手紙を持つ手にぎゅっと力を込める。自分がもし、何の心構えもできないうちに家族と離れ離れになったとしたらと、想像しただけで苦しくてたまらなかった。
そして、いくらどうにかしてあげたくても、どうにもならないことも明確なのだ。なぜなら当の本人は、もう亡くなっている。
澪の涙は、いつまで経っても止まらなかった。
霊はそんな澪の涙を
「でも、なにもできなくて……、ごめんなさい」
そう言うと、まるでそれを否定するかのように、背後の気配はゆらりと揺れた。
どれくらいの時間そうしていたのかはわからないけれど、気付くと、窓からは少しずつ朝日が差し込み始めている。もうそんな時間かと驚きながら、澪はまぶしさに目を細めた。
同時に、背中の冷たさも少しずつ緩み、それと入れ替わるようにじっとりとした暑さが体を包んだ。おそらくこれが、本来の七月の気温だ。
霊は最後に澪の手を包み、やがて完全に消えてしまった。
消える直前、──ありがとうと、穏やかな声が聞こえた気がしたけれど、それが夢なのか現実なのか、もはや判断できなかった。精神も肉体もそれくらい疲れきっていて、澪はそのまま、気絶するように意識を手放す。
心だけは何故か、不思議なくらいにスッキリしていた。
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