第二章④

 玄関に着くと、震える手でドアノブをつかんで思いきり回す。──しかし、ドアは絶望的に重く、開く気配はまったく感じられなかった。

 何度確認しても、かぎは閉まっていない。なのに、どんなに体重をかけようとも、ビクともしない。

「なんで……」

 焦りから、ひとり言がこぼれる。

「開いてよ……! もう無理だってば……! 誰か……!」

 ひた、ひた、と。

 混乱の最中、後ろから何者かが忍び寄る気配がした。

「ちょっと……! どうすればいいの……!? 助けてよ! 部長! 長崎次郎!」

 ドアをたたきながら半狂乱で叫ぶも、外からは何の反応もない。まるでこの部屋だけ違う次元にあるのではないかと思うほど、声はこもっていた。

 そうこうしている間にも、気配は徐々に近付いている。床板を踏みしめるベタッとした足音は、すぐそこまで接近していた。澪はもう、振り返ることができない。

 けれど、そんな絶望的な状況の中、「困ったら電話しろ」という次郎の言葉を思い出した。

 ──そうだ! 電話……!

 しかし。わずかな希望をもってのぞいたスマホ画面は、真っ暗だった。

 電池残量は十分にあったはずなのに、いつの間にか事切れている。

「う、噓でしょ……」

 すべての逃げ道を断たれ、澪はぼうぜんと立ち尽くす。

 やがて、ひた、ひた、という気味の悪い足音は、すぐ後ろでぴたりと止まった。背中にひんやりとした冷気を感じる。気配は、ものすごく、近い。体が重なり合うのではないかと思うほどに。

 澪は、恐怖に突き動かされ、霊を振り切るようにふたたび走った。

 和室へ戻ると、視界に入ってきたのは、すっかり忘れていた「結界」の存在。次郎が作ったものだ。

 次郎が真剣に白い紙を並べている時、澪は、そんなものが一体なんの役に立つのだろうと白けた気持ちで見ていたけれど、今、頼れるものはそれしかない。

 澪は無我夢中で、円状に並べられた白い紙の中心へ向かってスライディングした。──すると。ずっと澪を取り巻いていた異常なまでの冷たい空気が、途端にやんわりと緩む。

 不思議なことに、白い紙で囲われた一帯だけは、明らかに空気が違っていた。

 思うことは色々あるものの、まず先に頭に浮かんだのは、次郎は一体何者なのだという疑問。

 たった一人で第六感を必要とする調査をしているとなれば、それなりに知識はあるのだろうけれど、結界を張れる一般人など澪は聞いたことがない。そんなのはもはや、霊媒師の域だ。

 無愛想な心霊オタクの変わり者だという認識に変化は無いものの、実際に今、澪は次郎の張った結界に守られている。

 澪は結界の中でひざを抱えて座り、辺りの様子をうかがった。

 すると、今度は玄関の方から足音が聞こえる。

 耳が痛くなるほどにしんと静まり返った部屋の中を、ひた、ひた、と。

 消え入りそうな音なのに、不思議と存在を強く主張する足音は、みるみる恐怖心をあおる。

 ──こんなのが出るなら、そりゃ住んでられないよ……!

 澪はふたたび込み上げる恐怖に、膝の上に顔を伏せた。正直、もうこの結界の中で朝を待っても良いとすら思っていた。少なくともこの結界の中は、他よりも安全だと。

 やがて、足音は澪のすぐ傍まで接近する。目を開ける勇気は無いものの、結界の中にいるという安心感からか、少しだけ余裕を持っていられた。──が、しかし。

 ゆっくりと近付いていた足音は、結界の手前でぴたりと止んだかと思うと──、いきなりスピードを上げ、結界の周囲をぐるぐると回り始めた。

 ひたひたひたひた、と、小走りするような音に澪の心臓はみるみる鼓動を速め、ようやく落ち着いたはずの気持ちが一気に緊張する。

 この霊はおそらく、自分を捜しているのだと。そう考えると、恐怖が込み上げる。ぐるぐると部屋の中をはいかいする足音に、精神はとうに限界を迎えていた。

 澪は両方の手の平で耳をふさぎ、固く目を閉じる。

 ──誰か……、助けて……! 誰でも……、長崎次郎でもいいから……!

 次郎の冷たい表情を思い浮かべると、悔しさが込み上げた。そんな場合でもないけれど、やはり次郎のことを考えている時だけは、恐怖心が少しだけあいまいになる。

 ──なんなのよ、この仕事!……てか、これで内定取れたとしたら、ずっとこういう仕事するってことだよね……。

 無理だ、と。

 そんなことはもう、考えるまでもなかった。こんな目に遭うくらいならば、吉原不動産に入れなくても良い。むしろ願い下げだと。

 そんな時突然、足音がぴたりと止んだ。

 急にやってきた、静寂。足音が聞こえていた時よりも、なぜだか余計に不安を煽る。

 澪は霊の気配に神経を研ぎ澄ませ、自分の心臓の音だけを聞きながら長い時間をやり過ごした。

 無音の空間というのは、時間の感覚を曖昧にする。

 そして、実際にどれくらいの時間が経ったのかもわからなくなった頃、澪は恐る恐る、目を開けた。

 すると、窓際にぼんやりとたたずむ、白い影。

 澪の心臓はドクンと大きく鼓動し、一気に緊張が込み上げる。──けれど。

 不思議なことに、その姿からは、さっきまで感じていたまがまがしさは感じられなかった。

 むしろ、呆然と立ち尽くしている背中は寂しげで、見ていると切ない気持ちになる。

 霊は首をうなだれ、時々小刻みに肩を揺らしていた。

 ──泣いてる……?

 あれだけ恐ろしかったはずなのに、澪の緊張は、わずかに和らいでいた。

 背を向けているせいで顔は見えないけれど、全身で、悲しさつらさを訴えている。澪はしばらくその姿を見つめていた。

 よくよく考えてみれば、この霊も過去には自分と同じように生きていたのだと、ふと思う。一体どんないきさつでこの部屋にとどまっているのかは、わからないけれど。

 女性の霊は、窓の外を眺めながら、いつまでも肩を震わせていた。時々零れ落ちる涙が、畳に落ちてキラキラと舞う。

 澪は複雑な気持ちになった。

「どう、したんですか……?」

 だから、無意識的に、そう尋ねていた。

 心の奥には冷静な自分がいて、あまり干渉すべきでないと、危険だと警告を出しているのに、言葉は勝手に零れていく。

「どうして、泣いてるんですか……?」

 声は、震えていた。

 霊はぴたりと泣くのを止め、ほんのわずかに顔を上げる。そして、ゆっくりと、振り返った。

 澪はゴクリとのどを鳴らす。

 目が合ってしまうのはさすがに恐ろしいと、心はひるんでいるものの、今更後には引けないという気持ちもあった。

 澪は覚悟を決め、霊の反応を待つ。けれど、振り返っても顔は長い髪で隠れ、結果的に表情を確認することはできなかった。ただ、髪の毛の奥の暗く深い視線が自分の方へ向かっていることだけはわかる。

 おそらく、霊には結界の中にいる澪が見えていないのだろう。だから、声のした方を捜している。

 澪はもう一度ゴクリと喉を鳴らし、霊を見据える。

 その時澪を動かしていたのは、内定でも次郎への怒りでも後悔でもなく、ただただ霊に対する同情心だけだった。

「私……に、できること、あるなら……」

 澪は恐怖に震える声で、もう一度霊へ語りかける。

 すると、霊はしばらく動きを止めた後、隣の和室の方向へ体の向きを変え、ゆっくりと足を踏み出した。

 澪は、かたを飲んで霊の動きを見つめる。

 ひた、ひた、と、足音が聞こえた。気味が悪かったはずの足音が、今はなぜか、悲しげに聞こえる。

 霊は突き当たりの押し入れの前に立つと、一度、ゆっくりと振り返った。

「どう、したの……?」

 そして、澪の声にこたえるようにふたたびゆっくりと動き出し、ふすまの中へと消えて行った。

 ──消えた……。

 澪が呆然と押し入れを見つめていると、突然、消えたはずの部屋の照明がともる。同時に充電が切れていたはずのスマホからも、テレビの音声が流れ始めた。

 澪は戸惑いながらも、恐る恐る立ち上がる。とはいえ、結界から出る勇気は、なかなか出ない。

 部屋は何事もなかったかのようにすっかり元通りだった。いつもの澪ならば、強引だとわかっていながら全てを夢か幻覚だと処理していたかもしれない。

 これまで、それこそラップ音にしても、母から指摘された様々な霊障にしても、全てをそうしてきたように。

 けれど、女性の霊が泣く悲しげな姿は澪の脳裏に張り付いてしまっていて、なかったことにはできなかった。

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