第二章③
一人になった部屋には、次郎が並べて行った〝結界〟と、黒い機材が数台、三脚の上にセットされている。澪は電化製品にかなり疎いけれど、レンズが付いていることから判断するに、録画用の機械だろうと思った。
録画する意味も必要性もわからないけれど、澪にとって、もはやそれはどうでもいいことだ。
適性審査は、もう始まっている。そしてここには、訳あり物件と判定されるだけの、何らかの異常があるのだ。「sixth sense」を由来とする第六物件が担当している以上、おそらくひときわ現実離れした、異常が。
澪は、深く
時刻は十八時。明朝八時までは十四時間と、うんざりするほど長い。その上、かろうじて水道と電気が通っているだけの空き部屋では時間を
それでも最初は、訳あり物件にいるという恐怖から、緊張感を持っていられた。
けれど一時間も経てば、さすがに退屈の方が圧倒的に勝っていく。
澪はぼんやりとスマホを眺めながら、そういえば家に連絡していなかったことを思い出した。いつもならメールで済ますような内容だけれど、無性に人の声を聞きたくて、澪は通話ボタンをタップする。すると、間もなく母の明るい声が聞こえた。
「澪? どうしたの?」
「お母さん、実は今日、突然だけど泊まりになっちゃって」
「え? ごめん、もう一回言ってくれる?」
「だから、泊まりなの。今日研修で……」
「何?……ちょっと、うるさくて聞こえないんだけど。後ろで叫んでるの、友達?」
「え、ちょ、待って。後ろ……?」
「とにかく、メールでちょうだい! じゃあね!」
電話は、切られてしまった。
澪はスマホを耳に当てたまま、なかなか身動きが取れない。
──後ろで叫んでる……?
当然だが、部屋はむしろ気持ちが悪いほどに静まり返っている。ずいぶん遠くを走る電車の音までが届いてしまうほどに。
母は一体誰の声を聞いたのだろうかと、考えるほどに嫌な汗が
澪は途端に落ち着かない気持ちになって、部屋の中に視線を
ただ、幸いなのは、家具がないぶん物陰もないという事実。壁際に座ってさえいれば、部屋の全体を把握することができる。──しかし。必要以上に部屋の中を見渡したせいで、澪はもうひとつの違和感に気づいてしまった。
──エアコンが、ついてない……。
今は七月。今日は猛暑日になるだろうと、朝の天気予報で聞いている。エアコンをつけずにいた場合、本来ならば部屋はサウナのような熱気が
この部屋の窓にはカーテンがなく、直射日光を遮るものはひとつもない。──と、いうのに。空気は、異常なほどに冷えきっている。
澪の心臓は、徐々に鼓動を速めていた。自分の中のどの常識をもってしても、この部屋はおかしいと。
いつもしているように、幻覚や気のせいだと前向きにやり過ごせるような材料もない。
しかも、もはや日も暮れはじめていた。つまり、これからこの部屋で、長い夜を越えなければならない。
澪は絶望的な気分で、
澪は、少しでも気持ちを紛らわせるため、スマホのアプリでテレビ番組を流そうと思い立った。
再生ボタンをタップすると、スマホからは状況にそぐわない笑い声が響き、芸人が司会をするバラエティ番組が流れ始める。
内容こそ頭に入ってはこないけれど、ある意味この手段は正解と言えた。よく知る声が聞こえてくるだけで、精神状態は格段に違う。
時刻はようやく二十一時。
澪は、どうかこのまま何事もなく過ぎて欲しいと心から願う。──しかし。
それは、──突然やってきた。
最初の違和感は、首筋に突如ひやりと触れた、冷たい感触。
澪の心臓が、ドクンと大きく鼓動を打った。
直後、バチンという衝撃音とともに、部屋の照明が全て消える。
驚いた澪の手からスマホがするりと転がり落ち、畳を滑って行った。
外の街灯から漏れる光だけが、かろうじて部屋を照らしていて、澪はわずかな灯りを頼りにスマホを拾い上げようと手を伸ばした──つもりが、なぜか体は動かなかった。
首筋に触れる冷たい感触は、まるで体を
──寒い……。
澪は身震いした。体を覆う冷たさに加え、部屋の気温もみるみる下がっている。あっという間に足先は
助けを呼びたくとも、声は出ないし体も動かない。足先まで滑っていったスマホが、状況に不釣り合いなテレビの音声を流し続けている。
澪は混乱の最中、必死で逃げる方法を考えた。
けれど、すべての自由が奪われているこの状況では、考えるだけ無駄に思えた。なんとかして声を出そうとするけれど、
やがて、冷たい感触に全身を包まれる。それは、冷たいを超えてもはや痛いに近く、奥歯がガチガチと音を立てて震えた。
──助けて……。
澪は、心の中で助けを呼ぶ。
誰にも伝わらないことは、
ふいに、じわりと涙が込み上げる。怖さや悲しさもあったけれど、その時澪の心を支配していたのは、何より悔しさだったのかもしれない。
明らかに危険な審査だとわかっていたのに、内定欲しさに気軽に参加してしまった自分が恨めしく、悔しい。
──万が一このまま凍え死んだら、いくらなんでも浮かばれないよ……。
ただし経験したことのない恐怖は、幸いと言うべきか、澪の中で次第に怒りへと形を変えつつもあった。オイシイ話だと判断した自分も自分だが、こんな危険な場所に女を一人置いていくあの男は一体何なのだと。
──アイツ……、長崎次郎……、アイツまじで何なの……。もし死んだら永久に呪ってやるから……。
そんな怒りに呼応するように、部屋の中でどこからともなくパチンと乾いた音が響く。その音は徐々に大きくなり、やがて澪のすぐ傍で鳴り始めた。
澪は、その音を知っている。
これまであまり気に留めたことは無かったけれど、夜中に何度も聞いたことのある、枯れ枝を踏み潰したような奇妙な音だ。
中学生の頃、不思議に思って学校で話すと、それは「ラップ音」といい、霊が近くにいる時に起こる霊障だと得意げに話す友人がいた。澪はそれを、そんなバカなと
両親に話せば〝家鳴り〟という、温度差で家が
澪はそれほど
さすがにこの状況では、否定する方がよほど無理があった。
ついに澪は、これまで避けて通ってきた現実、──自分の霊感を、自覚し始めていた。
どれだけ否定したくても、ここまで突きつけられてしまえばむしろ、逃げようがない。
──わかった。もうわかったから、認めるから……!
認めてしまえば、不思議と肝が据わった。
あまりの恐怖に混乱していた心の中が、一瞬だけ
状況はなにも変わっていないけれど、ほんの少しでも落ち着いたおかげか、折れそうだった精神はギリギリの所で持ち直していた。
──何が目的なのか、知らないけどさ……。
澪は恐怖を少しずつ、怒りに変える。
──私を拘束したって何にもならないじゃん……! して欲しいことがあるなら直接言ってよ!
その時。澪を包んでいた冷気がふわりと霧状に舞い、目の前に漂った。じわじわと体温が戻る感覚。澪は、解放されたと気を緩める。──けれど。
霧状になった冷気はまたたく間に集まり、やがてぼんやりと人間のようなシルエットに形を変えた。
色もなく、ぼんやりとはしているけれど、長い髪と
──ちょっ……!
何者かが、目の前にいる。
ゾクリと、経験したことのない寒気と緊張が走った。
そして目の前の〝何者か〟は、澪の目の前まで顔を寄せる。まるでじっくりと観察するように。
「いやぁっ!」
澪は途端に込み上げる恐怖に耐えきれず、無我夢中で叫んだ。そして、叫びが声になった驚きに、目を見開く。
──声が出る……!
どういう訳か知らないが、いつの間にか息苦しさも消え、声は元に戻っていた。試しに腕に力を入れてみれば抵抗なく動き、澪は拘束から解放されたことを察すると反射的に立ち上がる。
そして絡まる足で必死に動き、スマホを拾うと一心不乱に玄関まで走った。その時の澪にはもう内定のことなど頭になく、ただ逃げることだけを考えていた。このままでは内定
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