第二章①

 丸の内にそびえ立つ、ガラス張りの黒いビル。澪が初めて訪れたその日、一目惚れしたうえ運命まで感じた、吉原不動産の本社ビルだ。

 正面入り口である二枚のガラス戸を抜ければ、いきなり、十フロアほどが吹き抜けになったエントランスホールがお目見えする。来る者の心を色んな意味でざわつかせる、非日常的な空間だ。

 一ヶ月半前、最終面接で心を折られ、このエントランスホールを半泣きで通り抜けた澪は、高い天井を早くも懐かしい気持ちで見上げながら、大きく深呼吸をした。

 この、ビルが一棟スッポリと入ってしまいそうなほどの空間を、ぜいたくだと賞賛する人間もいれば、無駄だとけなす人間もいるだろう。

 ちなみに澪の感想は、どちらかと言えば後者だ。この無駄に広いスペースをオフィスにしていたならさぞかし高い金額で貸せただろうにという、ごく庶民的な感想は、何度来ても揺らぐことはない。

 しかもここは、これだけ広いスペースだというのにかんぺきに空調管理がされている。

 七月といえば夏真っ盛り。少し歩くだけで全身に汗がにじむような気温と湿度の中、エントランスホールはサラリとした冷たい空気で満たされ、外で蓄積した不快指数を一瞬で奪い去った。

 ──これぞ超巨大企業のせる業だわ。

 澪は、すぐにねてしまう癖っ毛を注意深くで付け、それからまっすぐに受付へ向かった。受付では、作り物のように美しい女性が、完璧な笑顔で澪に会釈をする。

「あの! 新垣澪と申します! 今日は十六時のお約束で、適性審査を受けに参りました!」

 気合い十分にそう伝え、あらかじめ届いていた案内状を差し出すと、受付の女性は「少々お待ちくださいませ」と言って案内状に目を落とした。

 ──ここの受付になるのって、アイドルになるより難易度高い気がする……。

 受付の女性が少し下を向いた瞬間、絹のような髪がサラリと流れ落ちる。これまでに見た吉原不動産の受付の女性も皆美しかったけれど、今日はまた格別だと澪は圧倒されていた。

 しかし、その完璧な美しさは、案内状を確認した瞬間、ほんのわずかにゆがみを見せる。

 つい凝視してしまっていた澪は、その突然の違和感に、心臓がぎゅっと緊張するのを感じた。たとえエントランスで暴動が起ころうとも、まゆひとつ動かさないのではないかとすら思っていた女性が、解りやすく感情をあらわにしているのだ。とても不快そうに。

「……では、直接ご案内いたします」

「え? え、あ、はい」

 そして、いつもならエレベーターの階を指示されるはずなのに、受付の女性は立ち上がり、澪の横に立った。

 ヒールで底上げされているとはいえ、モデルのように身長の高い女性を、澪は緊張しながら見上げる。かたや澪の身長は百五十三センチと低めで、隣に並ぶと居たたまれない気持ちになった。

 ──なんか、ここに来ると見上げてばっかり……。

 澪の卑屈な気持ちとは無関係に、受付の女性はコツコツとヒールの音を響かせながら、エレベーターへ向かう。そして、下向きの矢印を押した。

 ──下……?

 受付は一階だから、つまり下は地階となる。地階へ向かうのは、初めてだった。これまでの面接はすべて、フロア案内に「来客用会議室」と書かれている十一階で行われていて、エントランスホールの壁面に沿って並ぶシースルーのエレベーターに乗るたび、まるでアトラクションのようなワクワク感を覚えていたものだ。

 そもそも、地階があるということすら、澪は知らなかった。よくよく見てみれば、停止階に地下フロアが表示されているエレベーターは、四基ある中でも右端の一基だけしかない。

「地下にもオフィスがあるんですね……」

 気になってつい質問をした澪に、受付の女性は完璧な笑顔を向けた。

「ええ、部署が一つございます」

「一つ……?」

 驚いて目を見開くも、受付の女性はそれ以上を語らない。

 澪は、途端に不安になった。

 そもそも、わざわざ案内をしてもらわなければならない理由なんて、そう多くはないはずだ。つまり、目的の場所がわかりにくい位置にあるのだろう。

 しかしこのビルは、不動産会社の超大手である吉原不動産が、自社で所有する本社ビルだ。どこよりも計算し尽くされた構造であるはずなのだ。

 受付の女性が一瞬見せた表情と、直接の案内。地階にたった一つの部署。さらに一基しか停まらないエレベーター。

 小さな違和感は、心に蓄積されていく。やがて、地階へ向かうエレベーターが到着した。


 地下は、これまで見た吉原不動産ビルの、どこよりも閑散としていた。

 過去に何度か行った十一階の会議室フロアは人通りも多く、お洒落しやれな男女がノートパソコンを小脇に抱え、スタンディングスペースで談笑していたものだが、地下は、漂う空気感が根本的に違う。

 エレベーターを出ると左右に延びるのはグレーの通路。そして、グレーの壁。規則的に並ぶ重そうな扉には、それぞれ続き番号が記されている。

 扉にも壁にも、部屋の中がうかがえるような窓はない。が、わざわざ見なくても、中に人がいないであろうことは、なんとなく察することができた。

 ──なんなの、このフロア……。刑務所みたい……。

 失礼な感想だと思いながらも、いつたんそう思ってしまえば他に何も思いつかないくらいに、そこは無機質で冷たい空間だった。

「こちらはすべて、資料庫になります」

 受付の女性は、まるで澪の心の声が聞こえたかのようなタイミングで、簡潔に説明をしてくれる。

「資料庫ですか。……なるほど、どうりで」

 どうやら、地下は主にそういう目的で使われているらしい。紫外線も届かず、室温も保ちやすい環境から考えれば、確かに最適と思えた。──ならば、疑問はひとつだと、澪はゴクリとのどを鳴らす。

「あの、一体どちらへ……」

「こちらになります。どうぞ」

 受付の女性は、廊下の一番奥まで歩くと、資料庫と全く同じ造りのドアの前で足を止め、澪に小さく頭を下げた。

 そして、質問をする隙すらも与えず、さっさと来た道を戻って行く。

「ちょっと待っ……」

 呼び止めたけれど、受付の女性に振り返る様子はなかった。絶対聞こえていたはずなのにと、込み上げる不安を押し込めながら、澪はドアに向き直る。

 ドアには、何の表示もなかった。

 こちらですと言われたものの、なかなかノックする気にはなれない。

 ──なんでこんな変な場所なの……! ってか、適性審査を受けるの、まさか私だけ……?

 澪は、なかなかノックできない手を宙に浮かせたまま、とにかく冷静になろうと深呼吸を繰り返した。

 落ち着いて考えてみれば、澪はまだ内定を取れたわけではないのだし、情報ろうえいを懸念する観点からこういう場所に呼ばれたという考え方もある。色々とツッコミ所はあるものの、それは考えられる中で一番ポジティブな予想だった。

 ──よし!

 ようやく、澪は覚悟を決める。

 そしてこぶしをきゅっと握った、その時。──突然、内側からドアが開かれた。

「わぁっ!」

 ぶつかりそうになって後ろによろける澪の手首を、とつつかむ力強い手。その感触と、そこから伝わる少し高い体温は、ふと澪の記憶を刺激した。状況を理解するよりも早く頭に浮かんでくるのは、日本橋での出来事。

「遅い」

「すみまっ……、って……えぇ!?」

 それはまるで、デジャビュのようだった。

 だるそうに顔をしかめ、体勢をたてなおした澪の手首を雑に放す人物は──。

「長崎次郎!」

「呼び捨てかよ」

「さん!!」

 澪の脳裏に、抹消したはずの記憶がよみがえってくる。謎の面接官に手を引かれ、日本橋から落とされそうになった記憶ごと、全部が。

 次郎はそんな澪の心境など知らぬとばかりに、再び部屋の中へと戻って行く。視線で中へ入れと促しながら。

「遅いから逃げたかと思ったら、一応来たんだな」

 恐る恐る部屋の中に足を踏み入れると、そこは学校の教室くらいの広さがあるガランとした空間で、端にはデスクがたったひとつだけ置いてあった。デスクの上にはパソコンが一台あり、その周りには本や資料と思われるものが積み上げられている。部屋の隅には、ケーブルなどがぐちゃぐちゃに詰め込まれた段ボール箱や、何に使うのかわからない大きな機材が雑然と並んでいた。中央には、折りたたみ式の長テーブルが二つ。その上にも、DVDやUSBやその他、様々な記録メディアがバラバラと散らかっている。

 無秩序な部屋だ。それが、率直な感想だった。

 一見、倉庫に見えるけれど、デスクとパソコンがあるだけでオフィスにも見えてしまうから不思議だ。

「あ、あの。ここ、何ですか……? 私、適性審査ってやつを受けに……」

「そうだな」

「なんで、あなたがいるんでしょうか……?」

「俺が、お前を呼んだからだ」

 澪は、言葉を失った。そして、途端に込み上げる嫌な予感。

「ってことは、最終面接も……」

「俺が、お前を通過させた」

 淡々と聞かされる、衝撃の事実。よりによって、一番関わりたくないと思っていた相手が、澪の内定を握っているらしい。

 頭が真っ白になってしまった澪に、次郎は長テーブルのパイプ椅子を勧める。そして自分はデスクの椅子に座ると、相変わらず面倒臭そうに口を開いた。

「ここは、第六物件管理部のオフィスだ」

「……部、なんですね、ここ」

 澪は、その部署の名を覚えている。最終面接で次郎のネームプレートには、「第六物件管理部部長」と書かれていた。物件管理部が六つもあるのかと驚いたからか、印象に残っている。

 ただし、六番目ともなればオフィスはこの有様なのかと、澪はげんなりしていた。

「物件管理本部には、自社所有物件を管理する第一物件管理部、それから仲介物件を管理する第二物件管理部、……最後にここ、第六物件管理部がある」

「あの、第六なのに三つ目なんですか……?」

「ここは、特殊な能力が必要な部署だ。いわゆる、〝sixth sense〟ってやつだな」

「シックスセンス……?」

「直訳された日本語で言えば、第六感だ」

 シックスセンスと聞いて思い出すのは、霊が見える子供が主人公の、有名なホラー映画だ。澪はそれを初めてテレビで見た時、あまりの恐ろしさに途中でリタイアしたことを覚えている。ともすれば、第六感とは──。

「霊感、とも言う。だから部署の名前を第六にした」

 恐る恐る頭に浮かべた単語と次郎の言葉が重なって、澪は絶望的な気持ちになった。

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