第一章③

    *


 茶所として有名な埼玉県狭山市。

 駅から歩くこと二十分ほどの、のどかでもありへんともいえる場所に、澪の自宅がある。

 築年数は三十二年。澪の両親が結婚を機に購入した、分譲マンションだ。二人は高校生の頃の同級生で、ハタチそこそこで結婚したものの、子供を授かるのに十年かかったこともあって、澪は自覚できるほどにできあいされていた。

 入学式、卒業式、運動会や合唱コンクールにいたるまで、両親は行事という行事すべてに必ず揃ってやってきたし、高校や大学の入試では、落ちたら二人はどうなってしまうのだろうと心配になるほど全力でサポートしてくれた。

 そのお陰もあり、澪はこれまでの人生で、目立って大きなせつを経験することなく、比較的のほほんと生きてきた。

 つまり、今日は初めての挫折を経験した日だ。

 澪は生まれて初めて、自宅の玄関の扉を開けることをゆううつに感じた。

「澪、おかえりなさい! 最終面接のごたえはどうなの? 丸の内OLになれそう!?」

 扉を開けた瞬間、「ただいま」も待たずに聞こえてきたのは母の声。最終面接イコール内定を取れたも同然という謎の理解をしている母には、澪が放つあからさまに重たい空気は見えていないようだ。

「お母さん、あまり大きな声で言わないでよ……、近所に聞かれちゃうじゃん……」

「どうして聞かれたらダメなのよ」

「お願い、察して……」

「元気ないの? あ、お腹すいてるんでしょ!」

 この明るさも能天気さも、そして空気の読めなさも、少なからず澪に受け継がれている。何もかもを明るくやり過ごせる性格はプラスに作用することの方が多く、澪はそんな母を尊敬していたし、反抗期も無かった。

 けれど、今日ばかりは例外だ。一刻も早く、明日からの就活計画を立てなければならない。今後の人生がかかっているのだから、母と一緒に楽観視しているわけにはいかないのだ。

 澪は会話を早々に切り上げ、自分の部屋へ向かった。

 たくさんの資料が詰まったリクルートバッグを床に放ると、ドスンと重たい音が響く。

 ジャケットを脱いだ瞬間、逆らえない脱力感に襲われ、澪はそのままベッドに体を投げ出した。

 履きなれない革靴で圧迫され続けたつま先が、じんじんと熱を持ってうずいている。

 ──ああ、……疲れた。

 やるべきことは山ほどあるというのに、体も心も休息を求めていた。

 ひとたび目を閉じてしまえば、次に目覚めるのは明朝かもしれない。そんな危機感はあるものの、暴力的にのしかかってくる眠気にどうしても逆らえない。

 結局、おざなりの抵抗を止めた瞬間に意識は飛び、澪はまるで気絶するような勢いで眠りについた。

 そして、目が覚めたのは、深夜の二時半。

 やってしまったという後悔もあったけれど、まだ眠り足りないという気持ちの方が圧倒的に勝っていた。

 ──もう、いいや……、明日から頑張ろう……。

 澪は、眠気に逆らうことなく、再び意識が途切れる瞬間を待つ。──けれど、その時。

 突然、真上からドスンと大きな音が響いた。

 衝撃で、窓ガラスがビリビリと振動している。澪は反射的に起きあがり、天井を見上げた。

 それは、地震を疑ってしまうほどの衝撃だった。けれど、両親は起きてこないし、辺りは、なにごともなかったかのように静まり返っている。

 澪はしばらく様子をみて、それから再び寝転んだ。

 時間が経ってしまえば、気のせいかもしれないと思えなくもなかった。あまりの眠気のせいで、夢と現実があいまいになっている可能性もあると。

 考えてみれば澪は着替えてすらおらず、すべてを寝苦しさのせいにして、寝転んだままモゾモゾとシャツを脱ぎ、再び目を閉じる。

 しかし、まどろんでいる最中、また上からドスンと大きな衝撃があった。さらに、今度はドカドカと走り回るような音まで聞こえてくる。

 澪は、いつたんは起き上がろうかと思ったけれど、迷った挙句、頭まで布団をかぶって音を遮断するという方法を取ることにした。あまりの音に最初は驚いたけれど、連続で聞こえてくるし、おそらく上階の住人が騒いでいるのだろうと判断したからだ。

 そして、澪はもはや完全無視を決め込み、強引に眠りにつく。このマンションは壁が薄くて困ると、頭の中に文句を浮かべながら。


「上の階? もう何ヶ月も前に引越して、今は空き部屋になってるって言わなかった?」

「え?」

 翌朝、夜中に上の階が騒々しかったことを報告すると、母は首をかしげた。そして、ポカンとしている澪に、困ったような笑顔を向ける。

「お隣さんじゃないの? だって、上には誰もいないんだもの。大変よね、このマンションも古いし、なかなか買い手が決まらないのかしらね」

「そう……、だね」

 いくらなんでも、隣からと上からでは音の響き方が違うことくらい澪にもわかっている。ただ、空き部屋だと言われてしまえば、もう反論のしようがない。

「それにしても、澪ってよく騒音の話をするわよね。このマンションは鉄筋コンクリートだから、そんなに響くはずがないんだけど」

「え、だって……」

 しょっちゅう音が響いているじゃないかと言いかけ、澪は口をつぐんだ。よくよく思い返してみれば、確かに騒音に関して文句を言っているのは、家族の中でも澪だけだった。

「澪って時々ヘンなこと言うじゃない? 水が勝手に出たとか、勝手に照明が消えたとか、テレビがついたとか。そのたびに調べてもらって、でも結局異常は無いのよね」

「……そう、だっけ」

 確かにその通りで、澪の周りでは水道や電気の不具合がたびたび起こる。能天気な性格上、あまり深く考えたことがなかったけれど、改めて指摘されてみれば、三人で同じ家にいるというのに、澪の周りでしか異常が起こらないというのは少し変だ。

「嫌だわ、怪奇現象だとか言わないでね? お母さん怖がりなんだから」

「やめてよ。そんなわけないじゃん」

 否定しながらも、澪の頭に浮かんでいるのは昨日の出来事。次郎から聞いた内容が事実ならば、つまり澪はモロに怪異に遭遇しているということになるし、「そんなわけない」なんて言っている場合ではない。──けれど。

 ──あれが現実なわけないし。それより就活頑張ろ……。

 澪はやはり、深く考えずに母の出してくれたコーヒーを飲み干した。

 最近たちまち「深く考えずに放置しておく件」が頭の中に増殖しているような気もしていたけれど、澪は気にしていない。

 解決しようのないことをいちいち考えないというのは、澪の信条だ。


    *


「適性……審査の、お知らせ?」

 それは、吉原不動産の最終面接から二週間ほどが経った頃のこと。

 まさにその吉原不動産から、謎だらけの通知が届いた。

「えっと……、特殊部署への配属を検討させていただいております……? つきましては適性を判断するための実務審査を実施させていただきたく存じます……」

 最終面接の後、さらに審査があるなんて話を、澪は聞いた覚えがない。

 特殊部署という言葉は引っかかるものの、絶対に落ちたと半ば記憶から抹消していた吉原不動産からの通知を、澪は瞬きもせずに熟読する。

 すると、通知の文面の最後には、〝参加は任意ですが、受けて適性があると判断した場合、内定とさせていただいております。〟とあった。

 つまり、少なくとも最終面接には通過したということになる。

「適性があれば内定……! う、噓でしょ」

 ツッコミどころは多いものの、内定という二文字にはただならぬ魅力があった。

 澪は浮かれ、通知の下に長々と書かれた注意事項やら守秘義務やらの項目にすらロクに目を通さず、参加にマルをつけて返信用封筒に入れる。

 ──絶対通過してやる……。

 何をどう審査されるのかも全くわからないくせに、澪はもう、こうなったらなんとしても内定をもらってやると並々ならぬ気合いを入れた。

 一度はもう駄目だと思っていただけに、もう一度チャンスが降ってきたことが何より幸運だし、まさに運命なのではないかと。

 実施日程は七月。ちょうど、一ヶ月後だ。──思えばこの時の澪は、ただただ期待を膨らませる一方で、警戒なんて少しもしていなかった。

 そんな澪は一ヶ月後、──奇想天外な適性審査を受けることになる。

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