第一章②

 ──この人……。

 その表情を見た瞬間、澪の背筋にゾクリと寒気が走った。

 なにかが、おかしい。

 ふと頭をよぎる、ただならぬ不安。

 どこがどうおかしいのか、上手うまく説明することはできないのに、とにかく圧倒的に何かがおかしいのだ。言ってしまえば、この男からは何かが〝欠けて〟いる。人には絶対に必要なはずの、何かが。

「あな、たは……、何者……」

 恐怖にかすれた声で問えば、面接官はゆっくりと澪を見下ろす。その目の色はあまりにも暗く、深く、感情はない。まるでこの面接官そのものが、大きな闇を閉じ込めるただのれ物のようだった。

 それから面接官はゆっくりと、日本橋川を見下ろす。飛び降りる気だと、言われなくとも澪は察していた。

 ただし水深は浅く、水面までの距離もせいぜい数メートルほどと高くはなく、道連れにして死ぬ気ならばどう考えても不適合な場所だ。なのに、面接官にはまるで、とうに死を決意したような迷いのなさがある。それは逆に気味が悪く、澪はゴクリとのどを鳴らす。

「どう……、して……」

 必死の問いかけに、面接官はやはり反応を見せなかった。そして、ついに川へ向かって体をゆっくりと倒していく。

 ──ああ……、落ちる……。

 グンと腕を引かれる衝撃とともに、澪の体は欄干から離れた。

 ゾクリとする浮遊感の中、澪は固く目を閉じる。──しかし。

 水の中に落ちる衝撃は、なかなかやってこなかった。テレビなんかでよく聞く、九死に一生を得た人の体験談では、危険な瞬間に景色がスローモーションに感じるらしいけれど、もはやそういうレベルではない。

 代わりにやってきたのは、待ち構えていた水の衝撃とはまったく違う、肩が抜けそうなほど腕を引かれる衝撃と、電流が走るような痛みだった。それも、面接官に引かれていた方とは逆側の腕に。

 反射的に目を開くと、目の前にあるのは日本橋川の穏やかな水流。足は地面に着いておらず、視界は大きく揺れている。澪はずいぶん長い時間をかけて、自分は欄干の前にぶらさがっているのだと察した。

「お、重い……っ」

 突然、頭上から聞こえたのは、苦しそうなうめき声。見上げると、澪の手首を必死で摑む男の姿があった。

 顔は見えない。けれど、ついさっき強引に澪を引っ張った男とは確実に別人だ。なぜなら、手首に触れる温度が全く違っているからだ。

 必死に摑まれている手からは、少し高めの体温が伝わってくる。誰もが当たり前に持っているはずの、命の証明だ。

 かたや、さっきの男の手は驚くほどに冷たかったと、比べて気付く違和感に、心臓はきゅっと緊張を帯びた。

「お、おい……、はや、く、上がってこ……い」

「え……、あ……!」

 苦しそうな男の声で、澪は我に返る。冷静に考えれば、澪の体重は今、この男の腕だけで支えられている。澪は途端に焦り、なんとか体を反転させ、手を伸ばして欄干を摑んだ。腕力には自信がないけれど、男が抱えあげてくれたおかげでなんとかよじ登り、二人の体は崩れ落ちるように歩道に投げ出された。

 二人は時間をかけて呼吸を整える。

 そして、ようやく落ち着いた頃、男は大きな溜め息をつき、けんに皺を寄せながら、シャツの襟元を雑に緩めた。

「バカか、お前」

 予想外の、第一声。

「ありがとうござ……え?」

 お礼を言いかけ、澪は硬直する。男の顔には、またしても見覚えがあった。

「めっ……面接の……!」

 その男は、ついさっき「面接官は何人だ」と、これ以上ない失礼な質問をしてきた張本人、長崎次郎だった。

 助けてもらった感謝が途端に吹き飛び、澪は男に詰め寄る。

「ちょっと! 何ですかさっきの人! あなたの会社の面接官おかしくないですか」

「待て。落ち着け。さっきのは面接官じゃない」

「は!? まさか……、まだからかうんですか!? いい加減にしてくださいよ!……ってか待って。あの人、川に飛び込んだ後、上がってきましたっけ……?」

 怒りながらもふと込み上げる疑問。澪は不安になり、立ち上がって日本橋川をのぞき込む。

 しかしそこにさっきの面接官の姿はなく、ただ静かに川の流れる音だけが響いていた。

 よくよく思い返してみれば、人が川に落ちる音が響いた記憶もなく、そもそも水面のほど近くにぶらさがっていた澪に、水滴ひとつ付いていない。

 ──夢?

 夢で片付けるのはさすがに強引だと思っていても、そう考えずにはいられなかった。澪はただただぼうぜんと、川を見下ろす。

「なんだったの……、さっきの……」

 ついこぼれるひとり言。すると、長崎次郎は澪の横に並び、欄干に背中を預けて大きなめ息をついた。

「面接官は、三人だった」

 澪は返事をしないまま、次郎を見つめる。

 またその話か、と。文句の一つも言ってやろうと思ったけれど、次郎の表情は、思いのほか真剣だった。

 澪はうんざりする気持ちのやり場を見失い、欄干に顔を伏せる。

 ひんやりとした石の感触が心地よく、目を閉じると少しずつ冷静になれる気がした。

 ──面接官は、三人、だった。

 頭の中で次郎の言葉を復唱すると、浮かんでくるのは記憶に新しい、最終面接の風景。

 正面には取締役、向かって右には商業ビル事業本部長、その右に第六物件管理部部長の長崎次郎。そして、取締役の左側には、さっきの男。

 ──あれ……?

 澪はふと、顔を上げる。

 さっきの面接官のネームプレートが、どうしても思い出せないのだ。役職どころか、名前も。むしろ──。

「ネームプレートなんて、あったっけ……」

 疑問を無意識に口に出した瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 次郎はそんな澪をまっすぐに見つめると、静かに口を開く。

「十年くらい前、吉原不動産の本社ビルの屋上テラスから、社員が投身自殺した」

 ドクンと、澪の心臓が大きく鼓動を打った。

 次郎は澪のあいづちを待たずに、言葉を続ける。

「遺書もない。だから理由はわからないままだ。でも離婚やら親の介護やら、プライベートで相当なストレスを抱えてたらしく、精神的疲労に加え役職の激務に追われて、衝動的に身投げしたんだろうって話で──」

「それが、どうかしたんですか」

 澪は、あえて次郎の話を切った。言わんとする内容が予想できてしまって、それがあまりにも現実離れしていて、とても受け入れられる気がしなかったからだ。

 けれど次郎はひるむ様子を見せず、むしろ口の端にわずかな笑みすら浮かべていた。

「死んだってことに気付いてないんだよ。衝動的に死んだ場合、時々そういうことが起こる。だからあの男は、せっせと会社にやってきては業務をこなし、衝動的に飛び降りるってのを、繰り返してる。で、たまに波長の合う奴を見つけると、道連れにしようとするんだよな」

「波長? それに、道連れって……」

「もう察してるんだろ?……お前はラッキーだったな。日本橋川じゃどうせ死ぬに死ねない」

「……バカにしてるんですか」

 想像通り、次郎の話は澪の理解をはるかに超える内容だった。澪は、もはや隠しきれない怒りをそのまま次郎にぶつける。

 けれど本音を言えば、心の奥に込み上げているのは怒りよりも恐怖の方が圧倒的に大きく、ひとたび油断してしまえばアッサリと心を支配してしまいそうだった。怒りで振り払おうとしたのは、苦肉の策だ。

 そんな澪に、次郎はさも不思議そうに首をかしげる。

「ちょっと待て。……でもお前、慣れてるだろ?」

「は!?」

「は、じゃねぇ。初めて怖い思いしたみたいな顔しやがって」

「あの、何を言ってるんですか……?」

 澪には次郎の話す内容がまったく理解できず、まゆを寄せる。すると、ずっと冷静だった次郎が、信じられないとばかりに目を見開いた。

「噓だろ……?」

「言ってる意味が全然わからないんですけど……。てか、もうからかうのやめてください! 私、もう帰りますね。二度と会うことも無いと思いますが、就活生をおちょくるのはほどほどにお願いします……。みんな、必死なので」

「おい、ちょっと待てって」

 澪はぺこりと頭を下げると、これ以上構ってくれるなとばかりに、思いきり背を向けた。次郎も追ってはこず、澪は極力なにも考えないようにして、東京駅へと向かう。

 ついさっき起こった謎の出来事に関しても、次郎から聞いた投身自殺の話にしても、正直、それらすべてが澪のキャパをとうに超えていた。頭の中で、一向に整理が進まない。

 しかし、幸い澪には、人並みはずれた能天気という特性があった。

 だから、ここまで突き抜けて現実離れしてくれているならば、時間さえ経てばすべてを夢だと思い込むことすら出来る気がしていた。

 ただ、唯一、絶対的に向き合わねばならない現実がひとつ。

 ──就活……、一からやらなきゃ……。

 それは何よりも笑えない事実だった。

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